掌編「熱に弱く」武村賢親

 泥みたいな雲がけっこうな速さで東へと流れていた。さんざん騒いで火照った体も、さすがにアスファルトには勝てなかったらしい。背中が冷えきっていて痛いくらいだ。目の前を白い埃みたいなものが横切って行った。雪かと思って上体を起こす。しかし、雪などひとかけらも舞っていない。

 バカみたいに酒を飲んだあとみたいに、こめかみと後頭部が脈に従ってずきん、ずきんと痛む。胸やけもひどく、傍らに吐き捨てた唾液を見ると水分が足りていないようだった。口の中も、心なしかざらざらしている。

 ふと見まわすと、彼女がいなくなっていることに気がついた。昨晩一緒に橋を渡ったところまでは覚えているが、そのあとの記憶が判然としない。橋で別れたのか、路上に横たわったおれを見捨てて帰ったか、そもそも一緒に橋を渡ったのは昨夜の記憶かもっと前の記憶か、それすらも定かではない。

 まただ、雪が目の前を通り過ぎた。

 そもそもいまのは雪だったのだろうか。上から下へ、ならともかく、左から右に降る雪なんてあるのか。行方を追って首を振ったが、雪に見えるなにかしらは既に動き出した街の雑踏の気色にとけてしまって、その残滓すら見つけることはできなかった。

 部屋に帰ると、玄関に見知らぬリクルートシューズが一足、きれいに揃えて置かれていた。律儀なことに、おれの普段使い用のスニーカーまで丁寧に並べられている。そういえば、なんの疑いもなく扉を引いたな、と思いながら玄関横の靴箱へと視線を移すと、いつもおれが置いている場所に鍵がある。おれが戸締りを忘れたのか、はたまたこのレディースシューズの持ち主に鍵を託したのか覚えていないが、先客はたとえ他人の家のものであったとしても整理整頓靴をしなければ気がおさまらない性質らしい。

 今朝はなかったゴミ袋の、二、三積み重なっているのを避けて廊下を進む。途中の台所では帰ったら洗おうと思っていた食器がきれいな水滴をまとって水切り籠に収まっている。廊下と部屋とを仕切る扉の、縦に二列はめ込まれたすりガラスから人の影が透けて見える。
家主の怠慢を非難するかのように輝きを取り戻したすりガラスを押して部屋に踏みこむと、まず感じたのは空気の冷たさだった。

「おかえりなさい。すみません勝手に」

 彼女はカーテンレールの上をどこから見つけ出してきたのかわからない雑巾で拭きあげながら、ちょっと落ち着かなくて、と続けて言った。リクルートスーツ姿だったはずの彼女は上下ともおれが寝間着用にと思っていた灰色のスウェットに身を包んでいる。見ればスーツはハンガーに通され、ロフトへ上がるための梯子にかけられていた。そっと鼻を近づけてみると、消臭スプレーの芳香に混じって煙草と油の匂いがする。どうやら昨夜一緒に酒を飲んだことは間違いなさそうだった。

 きゅっと上がった尻の形がわかってしまうとも知らないで、男のひとの部屋ってみんなこうなんですか、と言いながら、彼女は足元のバケツに屈みこんで雑巾を濯いだ。埃で濁った水に彼女の白い手が浮き沈みする光景はなかなか扇情的だったが、いかんせん性欲よりも胸やけの方が勝った。

「柿なんてないよね」

 革靴の中で汗を吸って冷たくなった靴下を脱ぎながら、ベランダの排水溝へバケツを傾ける彼女の尻に問いかける。彼女は振り向いて、知りませんよ、わたしの家じゃないんですから、とおかしそうに言った。それにしちゃあ随分かたづけるじゃないか、と思って部屋を見回す。よくもまあ一人暮らしの男の部屋をここまできちんとしてくれたものだ。

 久しぶりに新鮮な風を迎え入れた部屋はその空気の冷たさも相俟って清潔な印象で満たされている。悪くない、と思った。

 汚水を流し終えて、彼女は窓を閉めた。外気が流れ込まないだけで室内はすこしだけ暖かくなった。この部屋に自分以外の人間がいるのはどれくらいぶりだろうか。

「すみません。勝手にシャワー使いました。スウェットも借りています」

 コートを脱ぎにかかったおれに、彼女は申し訳なさそうな表情を見せる。

「それは構わないけど、鍵」

 彼女はバケツを持って部屋を横切りながら、預かった鍵はシューズラックの上に置いてあります、いつもあそこにおくんですよね、と言って廊下に出て行ってしまう。

 シューズラックと言えるほどオシャレなものじゃないんだけどな、と思っていると、曖昧な昨夜の顛末が、かすかだが思い出せてきた。

 彼女とは駅前の居酒屋で出会った。カウンター席に一人、リクルートスーツで座っていたのを、おれが酔いの勢いで声をかけたのだ。就職活動の行き詰りに加え、親子の不仲自慢を聞いた気がする。一人暮らしを始めても相変わらず干渉してくる両親に嫌気が差して、わざと電話に出ないなどしてもう一年近く話をしていないだとかなんとか。

 おれは何を話したろう。そのあたりは微塵も思い出せない。ただ途中で一度店を変えたことは覚えている。ハシゴ先はうまいラム酒を飲ませてくれる店で、備え付けのカラオケ設備で、ゆぅきやこんこん、とふざけて熱唱した気がする。

 そのときに鍵を渡したのだろうか。そもそも初対面の異性(たぶん年下)をその日のうちに部屋に上げるほどの大胆さがおれに備わっていたことに驚く。

「コーヒー淹れましょうか」

「あ、うん」

 彼女も彼女で、こんな素性のしれない男の部屋によく上がり込もうと思ったな。しかも無防備にスウェットなんかに着替えて。

「自暴自棄か」

 小さく呟いたつもりだったが、おれの言葉は彼女の耳に届いたらしい。違いますよ、としっかりした口調で応えた彼女は、二つのマグカップを持って部屋に戻ってきた。コーヒーから立ち昇る湯気が彼女のうすい唇のあたりで途切れている。

「自暴自棄と言われてもしかたないかもしれません。でも、わたしはほんとに、お礼がしたい一心でお邪魔したんです」

 お礼、ね。なにか感謝されるようなことをしたのだろうか。肝心な部分を思い出せないのはもどかしい。

 素直に記憶の欠落を告白しようか、そうした方がいい気がするのだが、なんだかそれを口にしたら彼女をがっかりさせてしまうのではないかという懸念が、強く脳裏に張りついて離れない。

 数時間前まで他人だった相手を前になにを悩んでいるのかとも思うのだが、どうにも踏ん切りがつかない。どうしたことだろう。

 彼女の手からマグカップを受け取り、口をつける。二人して向き合って同じ動作をする。気がついてみればこの上なく気まずい状況であるはずなのに、さもこれが当然と言った雰囲気がこの場を支配している。まるで引っ越したばかりの新婚のようだ。

「引っ越し終わりの新婚さんみたいですね」

 おれの勝手な印象を共有したかのように、彼女が言う。年甲斐もなく耳まで赤くなるような気がして、思わず踵を返した。

 落ち着け、と念じながら窓を開け、ベランダへと出る。はじけば鳴りそうな空気に輪郭のはっきりしない雲が何重にも重なって空を埋め尽くしていた。すこしだけ熱を取り戻したのか、吐く息がうっすらと白い。

 それ、きれいですよね、と言いながら彼女もベランダに出てきた。はっきりと白い息を吐き出している。視線の先を追うと、ベランダの端で真っ赤な実の集まっているのにぶつかった。冷たい無機質な景色の中で、その実の赤だけが目に鮮やかだ。

「あぁ、南天だよ」

「ナンテンっていうんですか」

 彼女は知らないようだった。すこし切れ長の目が赤い実を見つめている。

「縁起物だって、鉢ごと大家さんに貰ったんだ。火災除けになるんだってさ」

 へぇー、と感心したように呟く彼女に、赤い実を一つとって握らせる。

「南天には『難を転ずる』って意味もあってさ。就活、上手くいくといいな」

 こちらの意図をくみかねていたらしい彼女の顔がぱっとほころんだ。ありがとうございます、と言ってしみじみと掌を転がる赤に視線を落とす。これでさらに面映ゆくなるな、と思いながらも、おれは得体のしれない幸福がコーヒーに宿っているのを感じた。

 不意に、あの雪のような白っぽいものが風に運ばれて飛んできて、おれの手の甲に降り立った。雪ならすぐにとけてしまうだろうと思って見ていたが、それは一向になくならずかさかさにあれた肌の上に居ついている。

「あっ、雪虫じゃないですか」

 彼女が嬉しそうな声をあげた。

「ユキムシ?」

 よく目を凝らしてみると、確かに虫だった。小さい羽、小さい脚、腹部は白くふわふわしていそうなもので覆われ、光の加減によっては水色に見えた。

 路上で雪かと思ったのは虫だったのか。

「綿虫って呼ばれたりしますけど、わたしは雪虫の方が好きです」

「へぇー、それはどうして」

「雪虫のユキって音が、漢字の『幸』に通じるって、お母さんが教えてくれたので」

 そう言って彼女はおれの手に顔を近づけてふっと吹いた。雪虫は再び風に乗り、南天の横を漂って中空へと流れ出て行く。

「きっと、良いことありますよ、わたしたち」

 わたしたち。彼女の発した一人称複数に胸が高鳴る。雪虫のとまっていたあたりがきゅうに愛おしくなった。

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