見出し画像

スコーク77(4)ツヤ

 まあるい器に整然と盛り付けられた寿司たちが、人間の胃酸に溶かされるのを待っている。捌かれた魚たちは色とりどりの切り身を、その痴態を、人間によって見定められている。

「私、烏賊が好きなんだけど、これさあ、めっちゃ乾いてるんだよねえ。触ってみなよ。ざらっざらしてる!これは食べたくないなあ。『烏賊はいかが?』なんつって。あはは!」
 無邪気な声音は嗄れて低みを帯びている。冗談も干からびていて、身に纏う礼服も粗悪な誂えもので、ネックレスにも数珠にも光沢はない。面長は真白く塗られ、まるで白馬のよう。肉厚な唇は、斎場に相応しくない、木苺のような鮮やかさだった。
「え、厭だ!」二人の人指に弄ばれながら、烏賊は叫ぶ。「ぼ、、ぼ、僕!ぼ、僕は!こんなケバケバしいおばちゃんに食べられるために生まれてきたんじゃない!」
 仲間達にそう訴えるが、誰もそれには応じない。「眼福」と独りごちたのは中トロだった。
 木苺の唇は続ける。「なんで、私がこんなお通夜に来なきゃいけないわけ?今夜は折角上客の予約が入ってたのにさあ、台無しだよ。あんたがどうしても、森さんの葬儀に行きたい!って言うから仕方なく来たけどさあ。烏賊も不味そうだし、森さんそもそもミイラみたいだったし、私、そもそもこういうところキラーイ」
「いいから、声がでかいって!」
 連れの女性もまた、貧相な礼服を身に纏っている。サイズが小さいのか、それともふくよかになったのか、肩のあたりが角のように浮いている。豊満な体のラインがしっかりと映える。自身の胸の大きさが寿司よりも注目を集めていることを彼女は知っているようだが、その見た目に反して至極真っ当な参列客を装ってはいる。一応、薄化粧である。木苺のように目玉おやじのトートバッグを携えていない。加えて、美人の類であった。年は木苺よりもだいぶ下のように見える。そんな年若の豊満巨乳美人は、その指で烏賊を捕捉し、小皿に載せ、魚型の醤油差しの赤い口を白銀のデコラティブな付け爪で外し、3滴ほど垂らした。
「ほら、綾子」
 加えて、個別包装のワサビの封をふたつみっつ破り、烏賊に存分に塗りたくる。烏賊は絶叫した。「痛い!沁みる!こんな死に方は、厭だあ!」
「いや、もう死んでるだろう」
 赤身鮪がテノールの良声で冷淡に烏賊を嗜める。烏賊は、それに反駁する間もなく綾子に丸呑みにされた。合掌、と、中トロが仲間の殉職を悼む。「僕、玉子で良かったです」と言うのは、玉子であった。否、次はお主であろう、と申し述べたのは軍艦葱鮪だ。言いながらも、隣のいくら軍艦から、濁ったいくらを一粒分けてもらっている。
「本当、噛まないよね、あんた」
 寿司を丸呑みした綾子の白馬面に呆れた視線を向けながら、巨乳美人は怠そうに中トロを、何もつけずに口に運んだ。
「僥倖」
 それが、中トロの遺言であった。ゆっくりと噛みしだかれ、胃袋にとろりと落ちてゆく。赤身鮪は、仲間のそんな殉職をどこか羨ましげに見届けた。
「もし、死を選べるのなら」
 表面の乾燥しきった海老が、同じく乾燥したテノール赤身鮪に話しかける。「どれだけ幸せだろうね?」
「幸せなど、」
 赤身鮪はより低い声を発しながら、巨乳の谷間を凝視する。
「そもそも僕たちはとっくに死んでいる」
 玉子が、そんな赤身鮪の小脇をちょいちょい、と突っついてきた。玉子は赤身鮪の真隣にいる。「それなんですけど」
 僕らって、どうやって死んだんでしたっけ?
 玉子の発言に、全寿司皿民が沈黙した。玉子は、無邪気である。「みんなは覚えてますか?死んだ時のこと。僕は全然、覚えてないんですけど」玉子は黄色の体を純粋無垢にキラキラとさせている。
「玉子。お前はそもそも、さ」
 穴子が、沈黙を破った。周りの寿司たちに視線を配るが、援護射撃はなさそうだった。穴子は酷く言いにくそうに、細い海苔に巻かれた同士をそっと見やる。「そもそも、生まれてすらいないんじゃないの?」
「え?」
「え?じゃないよ。君、玉子でしょ?」
「ええ?あれれ?じゃあ、なんで僕、みんなとこうして言葉を交わせてるのでしょうか?」
 全寿司皿民が、一斉に顔を見合わせた。
「……油、かなあ?」
「否。おそらく鮨職人の指の温もりゆえであろう」
「焼いたら魂が宿る的な?」
「寿司の玉子って、あれ本当に焼いてるの?」
「いやあ、海苔じゃないの?あいつらも生きてたわけだしさ」
「成程。それだ。だとしたら僕はこの白身を甘い醤油タレで穢されつつ、海苔とも運命を共有していることになる?」
 侃侃諤諤、論じ合う中、赤身鮪と縁側が二人の女によって同時にその生涯を終えた。巨乳美人の咀嚼音には品がない、とは軍艦葱鮪の独白であった。誰もが首肯いた。
「そういえばさあ」
 綾子が身を乗り出して、真向かいに座るクチャラーの巨乳美人の左乳房を割箸で突っついた。掴もうとしていたようだったが、そのボリュームによって弾かれていた。
「ちなみは、なんで『ちなみ』って名乗ってんの?だいぶ前から謎だったんだけどさあ。だってあんた、本名『キメラ』じゃん」
 キメラ!
 寿司皿からも、周囲の数少ない参列客からも、ちなみはことごとくに振り向かれた。特に帆立は、横断された体をパタパタとはためかせた。その肉厚の身の下に隠し持つ山葵色のネタ帳を探しながら「お醤油取って!」と玉子に懇願する。「無理ですよ!」玉子はその薄身を震わせた。キメラは、黙って縁側を噛みしだいている。赤身鮪を丸呑みした綾子は、麦酒をごくごくと飲み煽る。鮪はただ消え去るのみ。軍艦葱鮪はそう言って、恍惚としている。次こそは、私だ。頭に乗せた一粒のいくらを取り外した。
「ねえ、キメラ。キメラー。キメラキメラ、キー」
「うるっさいなあ、ヨキコ!」
 魚系の寿司たちは、自分たちがかつていた急速冷凍庫のことを途端に思い出している。
「…….ヨキコ、って、どんな字書くんだろうね?」
 蛸は、その一言が遺言となった。キメラことちなみが、鮨飯と一体化した彼の身を剥いで、身だけを口に放り込んだからだ。きゅっ。きゅっ。蛸の体の締まりの良さが、ちなみの品のない咀嚼音によって証明された。
「ていうか、なんでヨキコなん?」
「知るかよ莫迦キメラ!」
 そうしてお互いにビールを瓶ごとラッパ飲みし始めたので、寿司たちは仲良く縮こまった。
「嗚呼、神よ!俺たちは、もっといいところで食べられるべき存在なんだ。嗚呼、大いなる世界。大いなる宇宙!そう、それはスペースステーション!此処ではない!俺たちは、宇宙だ!俺たちは、星さ。俺は、アンドロメダ!星こそが俺。俺こそが星。この世で最も輝くのは、そう、回転寿司でオニオンスライスという真白の衣を纏い、一周15分の軌道を駆け巡る、この俺さ!」
 サーモンはどうやら頭がおかしくなったらしかった。
「いいところ、って、例えば銀座とか?」
 真鯛はずっと右方に首っ丈だった。そこにはおかっぱ頭の気品良さげな淑女が、別卓でオレンジジュースをストローで飲んでいる。その傍にはベビーカーがあった。旦那らしき姿は会場にはない。代わりに彼女の隣には老婆がいた。
「お前はああいうのがタイプか」
「へー」
「なるほどー」
 軍艦上のいくらたちが濁った眼で真鯛を複笑する。一笑に付したのは蟹身であった。
「いやあ。君たち。いいご身分だね。ミンチにされないだけまだマシなのだよ?」
 蟹身の身は鮨飯からずり落ちて、転げそうになっている。
「玉子は溶き解されて油で焼かれるし、彼らはそもそも無精卵だ。生まれることもない。僕たち蟹や、鯵、鮪、時にサーモンは、出来合いによってぐちゃぐちゃにされる。君たちはラッキーなのだよ。誰もいくらをミンチにしたりはしないからね。幸せものさ。人間は、頭がおかしい。あいつらは世界だってめちゃくちゃにしてるじゃないか。あいつらのために死なないのが僕らの一番の理想なのだよ。君たちは幸せで、とても素敵さ」
「僕たちはもう死んでいる!」
 亡きテノール赤身鮪のモノマネをしたのはサーモンだった。あまり似ていない。その目前で、綾子の手指がワサビの小袋に伸びている。
「サーモンくん。君には品というものがない。もっと慎み給えよ。赤身鮪くんと君は同じ最下層だが、彼はそんな下品ではあるまいよ」蟹身はサーモンを蔑視していた。サーモンは白い筋を浮き立たせる。「蟹くん。君こそ、その振る舞いは神に対する侮辱行為と言わねばなるまいさ。甲殻類だからって我々の上に立ったつもりかい?真に我々の上に立つは神であり、鮨職人であり、君ではない。俺たちは、ただの星さ。俺たちは陽光を帯び、光り輝く。そう、誰もが美しい!ワッツァ、ワンダフルワールド!」
「はは。愚かだね。星にだって優劣や美醜はあるさ。太陽はそれをただ照らすだけ。いいところも悪いところも、区別なくね。太陽こそが神。神とは酷い存在さ」
 どっちもどっちかなあ、と呟いたのは意外なことに玉子であった。彼の無垢な独白は蟹身とサーモンを同時に振り向かせた。玉子は慌てて口を押さえたが時既に遅し、暫しの間、玉子は二人からボコボコにされた。しかし、海苔というプロテクターを巻きつけた玉子は強かった。蟹身もサーモンも、しなやかで堅牢な玉子の防御に鮨飯から転げ落ちてしまった。痴態である。
「時を戻そう」
 取りなしたのは軍艦葱鮪であった。太く湿った強靭な海苔に身を固めた彼は、いくらを再び頭に乗せようとしている。
「我は蟹身くんの言うように最下層の半端者としてミンチにされたわけだが、それでもこうして食べてもらえるならばそれで良い。今ではそう思える」
「いやそもそもさ、君は、純粋な鮪ですら、」
 蟹身の反駁を葱鮪は葱を以ていなした。しかし、綾子の手指によって、彼は今まさにワサビまみれにされている。蟹身は、笑う。「僕は、蟹さ。君は、何だい?」
「我は、魚類ゆえ」
「つーかさ」
 急に割り込んできたのは帆立だった。「本当に俺、不人気だからな?殊更こういうところで提供された俺って、めっちゃ嫌われるんだからな?そもそも魚じゃねえしな?貝なんて逃げようがないんだからな?なんだったら帆立風フライの方が人気があるんだからな?お前ら、ちゃんと生きろよ。サーモン!お前は気障ったらしく自分を演じてるんじゃねえよ。赤身鮪よりもお前の方が俺は好きだぜ。早く体を鮨飯に乗せな。蟹!お前も食べられる前にその体ちゃんと鮨飯に乗せとけ。イケメンが台無しじゃねえか。あと、玉子!お前は生まれ変わってから頑張れよ。それから、軍艦鮪ミンチ!お前は葱と出会えてよかったな。いくら!お前らは意外とモテてるから安心しろ。濁ってても多分キメラかヨキコが食ってくれるぜ。穴子は、穴子は、うまい。とてもクールだ!それは俺が保証するぜ」
 俠気に満ち溢れた彼は、後日談になるが、いくらと共に棄てられた。そして彼の長科白が終わる前に、軍艦葱鮪の一生も終わった。
 それから20分が過ぎた。長い長い20分間だった。寿司皿界の誰もが殉職せず、会話も途絶え、ちなみと綾子の酒だけが進み、モテない帆立はとうに寝息を立てている。沈黙を破ったのは、おもむろにお皿を手にして席を立った、オレンジジュースのおかっぱの淑女だった。参列者はちなみと綾子の他に4人いた。ちなみと綾子とは席を別にして、先述のオレンジジュースの淑女と赤子と老婆。淑女は小皿に穴子と蟹身を、蟹身の体をちゃんと直して乗せ、元のテーブルへと戻って行った。
「お父さんの友達って変な人ね」
 淑女の独り言に、老婆はまあるい海老背を更にまあるく縮こませ、特に答えない。
 さらに席を別にして、ドクターマーチンの1460の古びたホールブーツを履き、裾長の黒いジャケットの袖口を折り、肩で羽織る長髪の女がいた。この女、ビールをたしなむ以外は寿司皿に目を向けすらしない。この女が若いのか、どうなのか、僅少の寿司皿界でも意見の分かれるところであった。
「確か、死者は70歳ぐらいだったろう?」
「71だって」
「もっと老けて見えたよねー」
「あれはエロじじいだな。女友達ばかりだぜ」
 いくら軍艦は世俗めいた話を好むようだった。同族、軍艦葱鮪の死など気にしていない。蛸だけ食べられた鮨飯と、海老、いくら軍艦、玉子、帆立、真鯛、サーモン、納豆巻と干瓢巻は会話を続ける。ちなみに沢庵巻はこの物語の冒頭以前に綾子とちなみに瞬殺された。
「何故、俺はまだ生き残っている?何故だ。どうしてだ!運命とは穢れし果ての地に於いてかくも不条理に働くのか!有り得ぬ。断じて有り得ぬ!俺たちサーモン一族は、天国、即ちスシローであれば、チーズを乗せ、オニオンスライスを乗せ、真っ先に天国へと旅立つであろうのに!」
 非モテであることを心外そうに否定するサーモンに誰もが閉口したが、サーモンにどこか感化されたのか、干瓢巻たちだけが次々と口を開いた。
「俺もっス」
「俺も」
「俺たち意外とモテっスよ?」
 誰もが無視したが、内心はそうでもない。割とみんな、干瓢巻たちには同情した。
「僕も……」
 真鯛もそう言ったが、彼のか細い声は帆立の大いびきに掻き消された。彼は変わらずおかっぱの淑女を見つめている。切り身がやや赤らんでいる。彼の見つめる淑女のオレンジジュースは半分ほど減っていた。
 そんな真鯛の主張には、寝ている帆立以外の全員が首肯した。真鯛くんイケメンなんですけどねー、とは玉子の弁である。しかし、彼が誰よりも乾いていることは言わないでおこうと、互いに目配せを交わした。
 すると、議題に上がっていた謎のドクターマーチンが唐突に立ち上がったので、寿司たちはびくりと体を震わせた。遂にお腹が空いたのか?と思ったのだ。「俺を食べてくれ!」急に干瓢巻たちが転がるので、みんなが苦笑した。しかし、ドクターマーチンは席を立って、そんな干瓢巻らには目をくれず、故人の祭壇の方へと立ち去ってしまった。ジャケットのなびく様が、まるでヤクザみたいだね、と言ったのはいくら軍艦であった。
「僕、あの子に食べられたい」
「僕も」
「僕こそ!」
 これまでだんまりを決め込んでいた内気な納豆巻たちの発言に、誰もが首肯いた。何故なら、ちなみと綾子は泥酔している。おかっぱの淑女は穴子と蟹身を一緒に食べた。残された寿司たちに美しい死をもたらす者は、ドクターマーチンしか有り得なかったからだ。
「あの、僕の頭にその引き割り納豆を乗せたら、きっと美味しいですよね?」
 玉子がキラキラと体を輝かせる。帆立が「お前はすげえやつだ」と、「腕があるなら抱きしめてやりたい」と、寝言でそのようなことを言った。俺に干瓢乗せたら、もしかしたらうまいかもな。
 起きているのか?寝ているのか?寿司皿の誰もが、帆立の睡眠を訝しんだ。
「でも、一体何をしに行かれたのでしょう?」
 蛸という主を失った鮨飯が、ここからは見えない祭壇の方を気にしている。「それよりも!」いくら軍艦は寿司皿全員をシャラップさせた。
「あれは、もしかして、死んだジジイのイロコイ相手なのか?」
 海老は表面を赤らめた。
「僕はおかっぱの淑女に食べられたいな」
 真鯛はマイペースだった。
「僕は、祭壇に行ってあの子に告白したいな。頑張って働いて、あの子を一生食わせてやるんだ!」
 海老は恋をし始めて、玉子を振り返った。
「どうか、その僅かな油を僕に塗ってくれないかな?」
「え!無理ですって!」玉子は狼狽する。「だって、動けないですもん!」
 帆立は健やかに、時折呼吸を止めながら五月蝿い寝息を立てている。
「もし本当に、かの女子が亡きミイラのイロコイ相手なのだとすれば、」
 そう淡白に言い出したのはサーモンだった。サーモンピンクのその身を翻し、運命を共にする鮨飯に体の端を引っ掛ける。
「僕はスシローではなく、ここに供されてよかったと思えるよ。神は僕を見捨てなかった!」
 刹那、鮨飯を失ったその身に割箸が突き刺さる。ぐちゃ、と、耐え難い音に寿司たちは戦慄した。
「サーモン!」
 サーモンは、イエスになった。

 そして、納豆巻たちと玉子と鮨飯は、老婆に喰われた。
 海老と真鯛はちなみに噛みしだかれた。
 干瓢巻たちは、下げられた厨房の職員に、棄てる前に各々食された。
 オレンジジュースの女は、穴子と蟹身以外は何も食べなかった。
 ドクターマーチンの女は、結局何も食べなかった。
 綾子は、寝た。

 帆立は目が覚めると、薄青く異臭の立ち込める、塵箱の底にいた。
 以上の顛末は、同じ筐底にいた、散り散りのいくらたちの証言を纏めたものである。殊更、サーモンの談が長かったことを此処に付記しておく。彼は、最も美しく死ねなかったそうだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?