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スコーク77(5) XING

 轟と、花やしき。

 いやいやいやいやああやあああああ!と叫ぶ僕の隣で、その人はカラカラと笑っている。長いソバージュはローラーコースターの低中速度にふわりと煽られ、全盛期の中森明菜を彷彿とさせた。
 揺れる!揺れる!
「フジちゃん、待って!待って待って!もういやああああああ」
「ほら、そろそろ突っ込むよ」
 え、君の膣にかい?
 僕の妄言とは裏腹に、僕たちは突っ込んだ。木造の民家へと。
 昭和時代のお茶の間をぶち抜き、乱高下の末、僕らはふわりと終着点へと到達する。ホームは小さく安穏としていた。風に刺された頬が少し痛い。
「はあ、面白かった」
 フジはベルトから外された体をうんと寒空に伸ばして、抑揚のない声音を吐く。肝の小さな僕は震えながらフジの股間を見ている。僕はさながら、丸まりきれないアルマジロ。ああ、腰が抜けた。
 ほら、さっさと立って。
 フジはいかついブーツで僕を一足飛び越え、ホームから僕の腕を引っ掴む。フジの靴はドクターなんたら、というものらしい。黄色い刺繍がトレンドマークなんだそうだ。
 僕は、車体から引き摺り出された。
「ありがとう。乗ってみたかったんだ、ローラーコースター。でも一人で遊園地は、流石の私でも御し難いからね」
 僕は自然と彼女の背中におんぶされている。いつもの硬い口調。真っ赤なコートがふわふわで暖かい。フジはおかしな女の子で、僕が腰を抜かそうが、失禁しようが、お金がなかろうが、えっちだろうが、構わないらしい。僕たちの関係は7年前に遡る。
 さて、と、フジが背筋を伸ばした。
「そろそろ有馬記念だね」
 フジは、空を見ている。背中越しの彼女は、まるで有馬記念に挑む競走馬のように凛々しい。ただ、僕の体は直立した彼女の背中からずり落ちそうになっている。というか、宙ぶらりんになっている。フジの首元をきつく締めている。まるでイカリのようになっている。く、苦しく、ないのかな?と思った時、僕の体は優しく花やしきの地面に落ちた。ごめんなさい。
「見に行く?」
 背中越しに問われる。僕は、首を横に振った。

「昔、メリーナイスって馬がいたんだ」
 伝法院通りの路上で、僕はフジの膝の上に置かれたスマホを覗き見している。僕らの手にはお互いに緑のたぬきがいる。フジはふやけていない天ぷらを、僕は蕎麦の色をした長細い麺を気ままに頬張っている。温かくてしょっぱい。海外の観光客らが、地べたに座り込む僕らをジロジロと見ながら花やしきへと向かう。おかしな二人組だろう。あのローラーコースターは、怖いぞ。
「第32回有馬記念だね」
 フジは見た目20代の40代だ。今日のように、いつも若者のような派手な装いをしている。化粧は薄め。僕の働く居酒屋の常連客で、週に数度、ふらりと入ってきては、焼き鳥の盛り合わせ大を塩で注文する。初手の飲み物は青汁サワーだ。それからはボトルキープの黒糖焼酎をロックで飲む。煙草を吸う。お店に来るようになった頃は手巻き煙草だったが、或る日急に電子煙草を吸うようになった。それ、美味しいの?と聞いたことがある。「聞いた話だと、電子煙草の成分は、プロピレングリコールと植物性グリセリン」
 フジの仕事は大手百貨店の雑務だそうだ。
 美しい体つきをしている。
 抱いたことはない。
 よく、他人に抱かれているらしい。
「落馬したんでしょ?」
 第68回有馬記念の中継を、小さな画面越しに見ている。フジの長い髪は緑のたぬきを食べるために束ねられ、馬の尾の様にしなやかに背中で揺れている。
 僕たちが仲良くなったのは、何年か前に国の法令か何かで、僕の働く居酒屋の店内で煙草が吸えなくなってからだった。店頭に共用の灰皿が置かれて、路上で煙草を吸うようになってから。
「ハシケルエンド、ミスターブランディ、レジェンドテイオー、ダイナアクトレス、サクラスターオー」
 そこまで言って、フジは天を仰ぐ。
「サクラスターオーが途中で下馬した」
「よく知ってるねえ。競馬もやらないし、まだ生まれてもいないでしょ」
「生まれてはいるよ」
 9歳の時の有馬記念だよ。そう言いながら、最後の一口の天ぷらが彼女の口内に収まってゆく。僕はふにゃふにゃになった緑のたぬきの天ぷらが大好きだけど、フジはどうやらそれを好まないらしい。一度しかつゆにくぐらせなかった。サクサク、と、彼女の咀嚼音が、僕の股間をそそる。
 画面上では3枠5番、ドウデュースが悠然と発走の時間を待っていた。
「なんで、そんなに知ってるの」
 最初にフジと話すきっかけになったのは、僕が仕事の休憩中、路上に座り込んで煙草を吸いながら鼻歌を口ずさんでいた時だった。名曲だ。サビに差し掛かった時、「それ、中森明菜ですか?」煙草を吸うために店から出てきたフジがそう尋ねてきた。こっ恥ずかしさのあまり咥えた煙草を落としたり、それが股間に落ちてあちちと立ち上がったり。そんな挙動不審な僕をはた目に、僕の隣に座ったフジは続きを歌った。
 全てが壊れ始める、I MISSED "THE SHOCK"。
 まるで明菜のように、華やかで美しく艶やかな、壊れ切れない人の声で。
「親のせいかな」
 父は競馬が好きだからね。緑のたぬきのカップをかたわらに置いて、フジは空を見ている。低空の分厚い雲、上空のひらひらした雲。スマホから流れるアナウンサーの鼻息の荒い声音。浅草の喧騒。異国語の飛び交うアスファルト。
「も、もしかして、フジちゃん、と、東大?」
「行ったこともないよ」
 フジは笑う。笑うと、可愛い。
「興味もない」
 ファンファーレが鳴った。いつか僕はフジに言ったことがある。競馬は好きだけど、熱狂渦巻くあの場所には怖くてどうしても行けないんだ、って。
 覚えてる、かなあ?
「ドウデュース、タイトルホルダー、スターズオンアース」
 フジは、そう言った。「誰かが転んだら、ハズレだね」
 ゲートは開いた。

「あー。惜しかった!」
 フジは悔しそうにセブンイレブンの肉まんを食べている。やけ食いだそうだ。僕たちは蕎麦を食べ終えて仲見世に移動してきた。浅草六区から出ている都営バスに乗って、帰路に着くためだ。それならホッピー横丁を素通りした方が近い、と僕は進言した。しかし、仲見世を歩かないと浅草に来た気がしない、とフジにねだられて、大回りして六区へと向かっている。
「いや、でも、3着までの馬を当てるの、すごいよ。馬券買えばよかったのに」
 僕はジャスティンパレス一択だったから、お財布のお金はすっからかんだ。バス代はフジが貸してくれるらしい。
「そんなことはしない」
 肉まんに指で穴を開けながら、フジは言う。「僕も、肉まん食べたいなあ」と一応言ったが、却下された。美味しそうだけど、羨ましいけど、肉まんに穴を開けるフジのその所作はとても気になった。
「なんで、穴を開けてるの?」
「熱冷まし」
 猫舌なんだよ、と、フジが言う。
「弱点あるんだねえ」
「あるに決まってるでしょう」
「他には?」
「蜘蛛が嫌いだけど、」
 フジは、肉まんの皮の部分だけを摘んで、僕にくれた。
「殺したら良くないんでしょ?それが、困る」
 食べる時にちょっとだけフジの指先を食べた。塩の味がした。僕の唾液をフジが舐め取る。ごく、自然だ。少しだけニヤリと悪い顔で笑って、フジは肉まんに向き直る。ふう、ふう。色の差されていない唇が肉まんの穴に息を吹きかけている。
「ねえ、浅草って、富士そばあったっけ?」
「え。まだ食べるの?」
 食べるなら僕を、と、言おうとしたけど、彼女の答えの方が早かった。
「カツカレー丼食べたいな」
 細くしなやかな指が富士そばを検索している。それは自由な天使だった。彼女には見えない翼が生えている。きっと黒い翼だ。

 僕たちは富士そばには行かなかった。検索した結果、進行方向と逆方向、雷門まで戻らなくてはならなかったからだった。
「西日暮里にも富士そばあればいいのにね」
 フジは富士そばが好きなようだ。
「ぼ、僕は、餃子の王将があるから、要らない」
「森さんは餃子の王将が好きだねえ」
 向かいの日高屋だって安くて美味しいよ?フジはそう言うが、僕は断然、餃子の王将派だ。
 僕たちはラーメン一蘭の前を通り過ぎる。
「せっかくの浅草六区だから、呑みに行きたいところだけど」
 フジはホッピー横丁の方角の青空に目を向けて、全てを諦めた人のようにはにかんだ。僕は頷く。
「流石に今日は駄目だよ」
 パンデミック終焉後の浅草、日曜日の午後4時過ぎ。今日はクリスマスイブだ。どこの居酒屋も満席に決まっている。
「せめて私たちにヨシカミに行ける財産があればなあ」
 フジは浅草の名店の名前を持ち出す。僕たちは、ヨシカミのビーフシチューの味を知らない。
 でも。
「ヨシカミも、いつも並んでるよ」
「そうなの?」
 大通りに出る。冬至を過ぎたばかりの西の空はもう色を赤らめていた。バス停は、信号を渡った向こう側。僕たちは、赤になってしまった横断歩道で車が行き交うのをしばし眺めた。青になるのを待つ間に、フジの手にした肉まんはすっかりと胃袋の中に落ち着いていた。体が温まったのか、頬を夕空色に染めている。
 フジは、誰かに似ている。
 僕は、唐突にそう思った。誰かに似ている。でも、こんな人を僕は他に知らない。綺麗で、汚くて、優しくて、天使で、悪魔で、人らしい、人らしくない。そんな人は僕はフジ以外に知らない。知ってる。でも知らない。知ってる。知らない。
 何故、そんなことをつい思ったのだろう。そう考えているうちに信号は青に変わった。
「あと1分でバスが来ちゃうよ」
 先に歩道に進み出したフジが、僕を少し振り返る。ねえねえ。
「三ノ輪に行かない?」
「三ノ輪?な、なな、なんで」
 僕を置いていくように、フジは急に早足になった。一刻も早く三ノ輪に行きたくなったのかもしれない。自由なフジ。三ノ輪。確かに西日暮里行きのバスの途中に三ノ輪はあるけど、僕には近くて遠い場所だった。
 あまりよく知らない。
 フジは横断歩道を渡り切って、両足をぴたりと歩道の際に揃えた。楽しそうに両手を広げる。
「とりふじのバーベキュー串と、相州屋の甘団子と、白鳥の珈琲と、」
 それから。
 何かを言おうとしたその時、不意にフジの姿が消えた。

「え?」
 フジちゃん?

 横断歩道を渡り切って、両足を揃え両手を広げたはずのフジの姿が、どこにもない。まるで風に攫われた路肩の枯葉のように、フジは跡形もなく消えていた。今どき珍しいソバージュの長い黒髪も、僕には良く分からない派手な格好も、カモシカのように筋張った素足も、大福の皮のように白く血管を滲み見せる玉肌も、ドクターなんたらといういかついブーツも、見えない黒い翼も、明菜のような壊れ切れない儚げな声音も、僕の視界から消失していた。何度瞬きをしても、彼女はいない。
「み、三ノ輪、」
 クラクションが一斉に鳴る。僕は横断歩道の真ん中に突っ立っていた。あ、あああ、やだ。赤信号だ!赤に変わってる!
 わあ、と慌てて中央分離帯に逃げた。まるで彼女の嫌いな蜘蛛のように、殺してはいけない生き物のように、僕が両手両足で安全地帯に辿り着くまで、車たちはクラクションを鳴らした。
 そして怒り気味に、僕の前を、僕の後ろを、色んな車がざあざあと愚痴りながら通過してゆく。トラック、軽、年代物、オープンカー。左から右から、風に煽られ蹂躙されて、僕の乏しい頭髪はぐしゃぐしゃになった。蜘蛛っていつもこんな思いをしてるのかもしれない。踏まれそうになったり押し潰されそうになったり、大切なようでそうでもない。そうして、いつもそわそわしているのかもしれない。でも、蜘蛛には心情がない。
 目の前を西日暮里行きの銀杏色のバスが無情にも走り去ってゆく。あ、僕たちが乗ろうとしていたバスだ!慌てて、窓の中を目で追った。速くてよく見えなかったけど、でも、フジは多分乗っていなかった。フジが渡った歩道の隅々、まさかと思い、来た道の方を振り返ってみても、フジの姿は一向に見つけられなかった。自由な天使。自由な悪魔。
 前にフジに聞いたことを、それで唐突に思い出した。
「AL-MAUJは『波』って意味だよ」
 あなたの、あいだで、こころヒラヒラ。

 再び、信号が青になる。僕は気持ち、駆け出した。ヨタヨタとO脚の老ぼれの短足で、波に攫われたヒトデのようにヒラヒラと、フジのいたはずのあちら側へ踏み込む。
 アスファルトは、途端に土へと変わった。

 海にはならなかった。
 そこは、大地。広大な、大地。畑が延々と連続している。遥か向こうに波打つ稜線が見える。本物の波のように、さざなみ、大波、凪、色んな波の形の、いびつな稜線。
 僕は、この光景を知っている。


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