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酔って思ったことを連綿と書き残す42「最終章だけ、出来上がりました」



はしがき。

先週、上京いたしまして、神奈川近代文学館の文ストコラボに、行ってまいりました!
どうにも見たくてたまらなかった、D先生の、4m超級の「芥川賞ロング嘆願書」も、見てきましたよ。
30分ほど、涎を垂らして見てきました。
たいそう、危ない巻物でした。
楽しかった。
おもしろかった!

ばか!
ばかだあ、って、大笑いしてきました。
ばかだなあ。D先生。

なのに、そうして、数時間ほど文学館をやたらと堪能したのに、肝心の、カフカ先生のコメントボードはすっかりと見落として、帰ってまいりました。
一体、どこに、あったのでしょう?
悔やまれます。
というか、そんなボード、存在してました?
田舎から高速路線バスで遠征してきたくせに、そこを失念するあたり、己が随分とまずいような気も、しましたが。
ただ、併設の茶店の、期間限定のアブサントニックだけは、忘れず、しっかりと飲んで帰りました。
つまみに、芥川さんのお汁粉を食べました。
馬鹿みたいに、美味しかった。
また、機会があれば行きたい、博物館でした。
次は、お寿司を食べるんだ。
本当は、お寿司が食べたかった。めちゃ、お腹、すいてたから……。
でも、高くて、手が出せなかった。

元、横浜市民なんです。
五年弱ほど住んでて、あまつさえ、初期は、みなとみらいで働いておりましたし、みなとみらい地区に徒歩で行けるようなところに住んでおりました。
その境に、いい踏切が、あるんですよ。文ストにも、ぜひ使ってほしい。
文ストに登場する、敦くんが太宰さんに思い切った提案をなされていた日本大通り駅のあの出口も、当時は通勤で、ふつうに、なんの気なしに、使っておりました。
でも、住めば都ならぬ、住んでると意外と、名所には行かないという、ね。
横スタだけ、一度、行ったかな?
後は、さらっと、一通りは、行ったかもしれないぐらい。
みなとみらいの観覧車にも、乗ったような気はする。
そのように、概ね、未知のまま、近所のビックヨーサンばかりに通い詰めて終わった横浜でしたので、せっかくだから、全部行こう、カップヌードルミュージアム行きたい、なんなら、マリンタワーも登ったらええやん!
なんて、出かける前までは、思っていたのですが。
博物館系を、どうしても、小一時間で回れない性分で。
だめでした。
夜の東京でのお約束もあって、マリンタワーどころか、中華街にすら、立ち寄れませんでした。
文学館で、終了!
強いていうなら、中継地点の横浜駅の東口のポルタで、くっそタバコを吸ったぐらいです。
泊まりがけでないと、時間が足りないことだけは、わかったよ。

にしても、ポルタ。
あなたは、恐ろしい街です。
びっくりするほど、ポルタでした。まるで、あの頃と変わらない。
崎陽軒とポルタは、永久不滅の存在なのでしょうか。
相当に、懐かしかったです。
私が住んでいたのは、TVKの「SAKU SAKU」で、木村カエラさんがMCをしていらした、2005年らへんだったと記憶していますが。
涙するほど、懐かしかった。
コンコースの崎陽軒に、やたらな郷愁。
崎陽軒で泣けるとは、夢にも思わなかった。
ポルタで泣くとも、夢にも思わなかったですよ。
なんだかんだで、横浜、好きだったんだな、と、思わされました。

その翌日は、日本武道館の近くにある、「昭和館」という博物館へ行きました。
前日の反省を、生かせばいいものを、ね。
正午ぐらいに、入館。
案の定、閉館まで居着いちゃいました。
この日も、昭和館を見終えたら、新宿のそこ!渋谷の、あそこ!なんて、あれこれ、目星をつけていたのですけど。
途中で中抜けして、近くのプロントでご飯食べてタバコを吸うのが、やっとでした。
昭和館に喫煙所があったら、いつまでも、いられますね。
時間が足りないどころの話じゃ、ありませんでした。
今すぐ、帰りたい。
住みたい。
時間が、足りなさすぎる!

その後、いつもの居酒屋で、友人たちに、それを切に訴えたのですが。
「あそこ、30分も、かからないよね?」
そう、言われました。
ごめん。
私にとっては、少なくとも、一ヶ月は、必要です。
あの全成分を吸うには、それでも、足りないほどよ。
恐ろしい空間でした。
そんな昭和館の、若干の成果が、この「シン・死の媛」最終章に、ちらほらして居ります。
それをもとに、最終章だけが、書き終わりました。
全体のプロットは、いまだできておりません。一から五までの章が、一応、決まっているぐらいです。

一、先生
二、女王陛下(というか、絢ちゃん)
三、死の媛
四、リントヴルム・クーデター
五、その七年後

このうちの「二章」のプロットをまず作らないと、残りがどうしても、書けないんですよね。
ざっくりいうと、SPY×FAMILYです。
要は、スパイ次第。絢ちゃんの諜報活動がどこまで進んだか考えないと、後が決まらない。
時間が、どうにも、かかりそう。
なので、いきなり最終章をガッツリとされても、誰もさっぱり、訳がわからないとは思いますが、宵の暇つぶしにでも、どうぞ。
ざっくり、二万字ほどです。
これが、完成できるかどうかも、今は、かなり謎。どう軽く見積もっても、原稿用紙500枚レベルだ。
右大臣実朝を書き終えたD先生のように、抜け殻になりそう。

ちなみに、嘉国のモデルは、カスピ海あたりのあの感じに和的要素を兼ね備えた、海があるスイスです。
地理と人はトルコ。国はスイス。文化とかは、日本です。なのでこの章では触れてませんが、先生の目は海の色です。
スター・ウォーズみたいな読み方で、案外と、いいかもしれません。書くほうも、二章いって、三章、四章いって、最後に先生の一章にしようかな、と思ってますから。世の物書きの方は、どう、書いてらっしゃるのでしょうね。上から? 下から?
という感じで、今、絶賛、スパイを養成中です。
目処は、まるで立っておりません。


*****


   第五章  天



 今年も、この日がやってきた。

 一九四五年十月二十三日、火曜日。
 晴天。
 燦州さんしゅう二城にじょう市郊外。

 九時四十五分。
「お疲れさまです」
 開門、十五分前。
 馬車より降り立った先生は、喪服の砂埃を軽くはたき、門前の近衛兵らに、労いの言葉をかけた。
「いつも、ありがとうね」
 息の合った敬礼。
 それにお辞儀で返し、そして、平日にもかかわらず、開門を、今か今かと待ち並ぶみなさまの前へと、進み出る。
 四角い顔、まあるい顔。
 喪服、割烹着、作業服、学生服、銘仙仕立ての流行りのワンピース。
 様々な人が、薄青色の花束を抱えている。
 様々な表情が、僕を見ている。
 口に残る珈琲の苦味を、酒の甘みに変えたくなるような、この一瞬。
 ほんとうに、ありがとうございます。
 深く、一礼をする。
 ありがとう。
「先生」
佳教かきょう先生」
 全く、君のせいで、僕はとんだ有名人だよ。
 見知らぬ人たちから名を呼ばれ、声援を受けるような人生になるだなんて、思いもよりませんでした。

「おはようございます、先生」
 そうお声かけくださったのは、列の先頭の、腰の少し曲がった淑女だった。お名前を、よしさんという。
 よしさんは毎年、必ず先頭でこの日の開門を待っていてくださる。今日の『瑠璃忌』だけでなく、開門をしない月命日にも、必ず来てくださっている。
 雨の大ファンで、当時の宵花祭よいばなまつりも、すべてご観覧されたのだそうだ。
 支持層の厚い子ね。
「いつも、ありがとうございます」
 お元気そうで、何よりです。
 去年は随分と具合が悪そうで心配だったけど、今年は顔色もよく、生き生きとしてらっしゃる。
 彼女の笑顔を見ると、なんだか安心する。
「お先に失礼しますね」
 そんなよしさんに叮嚀にお辞儀をして、小さく開かれた、真新しさの残る鉄扉を、くぐり抜けた。
 僕は、この墓廟の管理を委譲されている。
 特権、というやつだね。

 人気のない中庭は、鳥の囀りばかりがやさしく、小さく歌っていた。
 芝生は綺麗に刈り取られ、壁際を這うルリマツリの枝先も、実に見栄え良く剪定されている。今年の秋は暖かく、小指の先より少し大きな五裂の花は、薄青く群れて、満開を宣言していた。
「綺麗、」
 思わず、歎息する。
 去年までは、この中庭の世話を、僕の家の庭を勝手に剪定する、かの老翁にお願いしていた。
 今年の春に、大往生。
 享年九十一と聞いて、心底、驚いたものだ。
 その跡を継いだお孫さんに、今年はお手入れをお願いをしたのだけど。
 血は争えないとは、このことだね。
 素敵です。
 完璧。
「叮嚀な仕事を、ありがとうございます」
 感謝の言葉を、風に乗せる。見上げた空は、雲ひとつ見当たらない。
「綺麗だな」
 昨年なんて、時期はずれな颱風でしたもの。
 晴れて、よかった。
 ただ、こうも晴れてくれると。
 こうも、美しいと。
「寂しいよ」
 あの日のことを思い出しながら、壮年の頼りない歩足は、小径の先にある墓廟へと向かう。

 あの日、あの後。
 スパイの嫌疑をかけられて、僕は軍兵に捕まった。
 手荒にもてなされ、乱暴に押し込まれた装甲車輌では、鈍色の重厚な無線機が、ラヂオの短波を継続的に受信していた。
 雑音混じりのその放送は、時折、遠くの銃声や悲鳴を拾い、よからぬことが起きていることだけを示唆していた。
 日没、直後だった。

「軍事革命、成功也!」

 猛々しい、宣布。
 若い、青年の声だった。
 それを聞いた兵士たちが、次々と、凱歌を揚げる。
 成功也。成功也!
 薄明の空は、混じり気のない、新正義の声に満ち満ちた。
 若き宣布者は、粛清者の名を滔々と読み上げ、

「軍事革命、成功也!」「軍事革命、成功也!」
 それを何度も、繰り返した。
 死の媛の名を、より強く、声高に、大呼して。
 何度も、何度も。
 僕は、君の死を、報らされた。

 君は、もう、戻らない。

 小径の先にある建物には、天渺宮廟てんびょうのみやびょう、と、大きく彫られた石札が掛けられている。
 墓廟を守る近衛兵と軽く挨拶を交わし、右手は、鉄製の格子戸を弱く、引き開けた。
 相変わらず、優しくない、鈍い音が、する。
「やあ」
 声をかけるが、返事はない。
 廟内は、君がかつて纏っていた空気のように、凛として、無邪気で、穏やかだった。
 天渺宮廟。
 君の、眠る場所だ。
 東西南北を向くよう、石材によって緻密に組まれた、正方形の、小さな墓廟。
 天井は高く、砂岩と白大理石を幾何学模様に嵌め込んだ円蓋は、まるで満月のように仄白い。
 矩形窓が、五つ。
 それぞれに異なる枠が象られ、採りこまれた旭日は細長く、廟内を思い思いに照らしている。
 君は、その中央に安置されている。
 その、白大理石の棺の前へと、進み出た。
 棺蓋には、花を模した彫刻と、絵画のように記された古代語が書かれている。
 君のことを記した、一文。

『我國天祥の象徴たるは月色の眸』

「おはよう」
 返事は、ない。
「雨」
 棺をさする。
 冷たい。
「今日一日、頑張ってね」
 君への展墓を待つ行列は、小高い丘の上にある天渺宮廟から、白樺路を北に縦断し、麓まで続いていた。
 あんな長い行列を見たのは、初めてです。
「モテる男は、苦労するね」
 ぽん、と、棺を叩く。
 きっと、大戦が終わったから。
 天気も、いいから。
 余計、だろうね。
 みんな、苦労をしました。
 どうやら、平和に、なりそうだよ。
 先生は手にしていた空色の花束を、古代語の「たる」の上に置く。
 天祥の、象徴さん。
「よかったね」
 どんな夢を、見ているのかな?
「また、後で来るよ」

 人出は、あまりにも尽きなかった。
「これは、大変」
 先生は、人酔いしかけた丸眼鏡を薄くなった頭皮に引っ掛け、くたびれた体をルリマツリの葉叢に預け、すっかりと、あぐらを掻いていた。
「疲れた、」
 思わず火をつけてしまった煙草が、恐ろしいまでに美味しい。
 紫煙が、綺麗な青空を汚していく。
「ケセラセラ、」
 先日の酒場で覚えた異国語で、その疲れを誤魔化す。
 モテるって、大変ね。
 もう、一年分ぐらいの挨拶はしたよ。
「雨、」
 宵花祭よりも人が集まってるんじゃあ、ないかしら。
「頑張れ」
 閉門まで、あと五時間もあります。
「ケセラ、セラ、セラ、」
 レクイエムにもならない、声枯れした、鼻歌。
 しかし、眼前に広がる中庭は、手向けられた花束が墓廟を中心に、幾つもの山を形成し始めていた。
 ケセラセラとは、いかなさそう。
「ノン、」
 ケセラセラ。
 ちょっと、花束の山を、壁に寄せておこう。このままじゃ、君が埋もれてしまう。
 そう思い、咥え煙草で立ち上がった、その時だった。
「先生!」
 声の方を見やると、見知った男が、手を振っていた。
 煙草を、あやうく落としそうになった。
「ま、」
 牧谷まきたにさん!
 日本人の、牧谷さんだった。
「お久しぶりです、先生!」
 煙草を、慌ててもみ消す。眼鏡を、掛ける。
 その顔も、声も、間違いなく牧谷さんだった。
「ご無事でしたか!」
 思わず、駆け寄る。日本人とはいえ、この人は古くからの燦州の住人だ。太平洋戦争が始まって、祖国へと戻られていた。
 真逆まさか、生きていたとは。
 抱擁。
「やっと、昨日、こっちに来れましたよ」
 びっくりしました。
「玉音放送を聞いた瞬間、もう、国外逃亡です」
 牧谷さんは、笑い声が、やっぱり大きい。
「そしたら家内が、今日行けば、先生もいらっしゃいますよ、って、言うのでね」
 なるほど。
 それで、わざわざ来てくれたのか。
 先生は、懐かしいその姿を、隅々まで見回した。
 綺麗に身支度をされて、何事もなかったように振る舞っているが、牧谷さんの体は痩せこけ、肌も、火傷のように日焼けしていた。
 苦労をしたに、違いなかった。
 牧谷さんの奥方は燦州の人で、こちらに残っていた。
 いない間にも、何度かお会いしました。
「イタズラ、しなかったでしょうね?」
 我慢、しました。
 そう申し上げると、ガハハ、と、牧谷さんが笑う。
「先生の、もと、ご贔屓さんですもんね。あれも、変わらないでしょう?」
「相変わらずの、美人です」
 正直に答える。
 牧谷さんの奥方は、未幸みさちちゃんという。
 赤鳳楼せきほうろうのもと筆頭妓女で、雨が禿かむろだった頃、面倒を見てくれていた女性だ。
 今では、三児のお母さん。
「にしても、」
 これから、もうちょっと増えるかもね。
「もう、戦争は懲り懲りですよ」
 牧谷さんの声は明るく、トーンは低い。「嘉国かこくがずっと恋しく、羨ましかった」
 すみません。永世中立国で。
「でも、結構、大変だったんですよ」
 先生は、頭を掻いた。「僕ですら、北部防衛線に従軍しましたもん」
「え、そうなんですか?」
 ライフル片手に、プルプルしてました。
「ははは。そりゃあ、似合わない」
 こっちは、相手がナチスやら、なんやらでしたからね。
 攻めてはこないとはいえ、あの人ら、何しでかすか、わからんもん。
 ほんとうに、怖かった。
「言われてみれば、先生、だいぶ、お痩せになられましたね」
「牧谷さんの方が、よほどですよ」
 魚の切り身にも負けています。
 そう返すと、彼はまた、破顔した。
「シャケだといいなあ」
 シャケは、こっちにはないです。 
「あとで、家でご馳走をたらふく頂きますよ」
 牧谷さんの表情は、子供のようににわかにはしゃいでいた。
 ほんとうに。
「いっぱい、未幸ちゃんの作ったご飯、食べてくださいね」
 日本よりは、食に困ってませんから、嘉国は。
 ビールもアブサントも、今では飲み放題ですよ。
「いいですねえ。アブサント!」
 こんど、一杯引っ掛けましょう。
 そうはおっしゃるけれど、牧谷さん、お酒に強いからなあ。
 一杯なんかじゃ、終わらなさそう。
「でも、良かったですよ」
 何が、でしょう?
 尋ねると、刈り上げ頭の牧谷さんは、墓廟の方をチラリと見遣った。
「あの時、燦州が嘉国に編入できていて」
 あの日から、たったの一年で、燦国は終わった。
「あのタイミングで嘉国に編入していなかったら、燦州は今ごろ日本のように、なかったでしょうね」
 あの日。
 一九三八年十月二十三日。
 リントヴルム・クーデター。
 軍事政権、樹立。
 その翌年九月に、世界大戦は起きた。
 燦国が『嘉国燦州』になったのは、その直後の、十月のこと。
 あのまま燦国が続いていたら、世界の動乱に巻き込まれ、食い漁られていたに違いなかった。
「女王陛下のおかげですね」
 頷くしかないです。
「あの時、俺は、女王陛下に心底惚れましたよ」
 梅ちゃん、もしや、そのために、燦国に潜入してらっしゃいましたか? と、思えるほど。
 彼女の行動は、鮮やかだった。
「びっくりも、したけどねえ」
 リントヴルム軍事革命委員会は、革命成功と同時に、国民に対して戒厳令を出した。
 集会するなよ、団体活動すんなよ。
 やったら、殺す。
 その日の、夕方でしたね。
「あれは、色街の前門広場でした」
 僕は、見れなかった。
「この国を、死なせたいものはいるか!」
 牧谷さんが、拳を突き上げる。たぶん、女王陛下の物真似だろう。
 死にたいものは、いるか!
「あれは、ほんとう、かっこよかったなあ」
 このまま、服従し続ける気か。
 言われるがままに軍服を身につけ、銃を手に取り、戦地に突き出されるつもりか。
 飢餓に苦しみ、誰にも看取られず、死にたいか。
 家族を、愛する人を、喪いたいか。
「撃たれても、怯まず、」
 これが、現実だ!
 牧谷さんが、また、拳を突き上げる。
「毎日、毎日、」
 嘉国女王陛下は、それから十日間ほど、二城の前門広場で、演説をし続けたのだ。
 昼夜、問わず。
 その度に、リントヴルムの兵士に狙撃されて。
 見てるこっちが、ヒヤヒヤさせられた。
「でも、」
 個人的には、そんな陛下を、一人で守り続けた絢ちゃんが、非常に良かったです。
「あの人、あやちゃん、っていうんですか?」
 あ、うっかり喋っちゃった。
 そうなんです。絢ちゃんっていう、陛下の、当時の側近で。
「確かに。確かに、」
 牧谷さんの目が昼間にも関わらず、艶めいた。
「あんな別嬪さんなのに、強かった!」
 あの時の絢ちゃんは、会場中に目を光らせて、陛下のお体を庇いつつ、大楯で、防御。
 手練れた所作で、リントヴルム兵士から陛下をお守りしていた。
 でも、あの日は、それが間に合わなくて。
 十月二十九日、壇上で亡くなった。
「でも、あれがあってこそ、ですよ」
 陛下は、人目を憚らず、撃たれた右肩を庇うこともせず、絢ちゃんの遺骸を抱きしめて、慟哭した。
 何度も、拳を壇上に叩きつけられて。
 そして、ひどくシンプルなひと言を、陛下は発せられた。
「これが、正しいのか!」
 確か、その、翌日だったかな?
 天。
 愛と平和。
 二つの反リントヴルム団体が、燦国に誕生した。
「俺も、『天』に入っちゃいました」
 先生は?
 牧谷さんの問いには、否、だった。
 デモには、一度だけ、参加した。
 大規模な反リントヴルム・デモが、二城を中心に、燦国中で巻き起こった。毎日が銃撃戦のようだった、らしい。
 実は、デモ初日に、撃たれたんです。
「え、」
 目をまんまるにした牧谷さんに、先生は右足の裾をめくって、銃創を見せる。
 脹脛ふくらはぎに、二発。
 痛かった。
 戦線、離脱です。
「不自由は、ないんですか?」
 なんとか。ちょっと?
「それは、知りませんでした」

 デモは、多数の死傷者を生みながら、燦国を、死地へと追いやった。
 一九三九年正月、国民選挙。これも、陛下がお膳立てをした選挙だった。
 賛成多数で、軍事革命委員会が罷免。
 燦国暫定政権、発足。陛下が、首相代理として、それを執り仕切られた。
 国境封鎖も、時を同じくして解除された。
 ちょうどその頃、確か、六月でしたよね。
 牧谷さんに会ったのは。
「懐かしいですねえ」
 牧谷さんの大きな笑い声は、墓廟にいる、雨にも聞こえていそうだ。
 彼は、雨の上客の一人だった。
 貿易会社の社長さん。
 懐かしいでしょう? 雨。
 牧谷さんが、来てくれたよ。


「ああ」
 おとうさん、と呼ばれ、牧谷さんが振り返った先には、美女と、三人のお子さんがいた。
 未幸ちゃんだ。
 それぞれが、水色の花束を抱えている中、一番下の、今年で四つになったおちびちゃんだけは、謎の紙袋をしわくちゃに抱きしめていた。
「先生」
 さては昨日、旦那さんと、たくさん、したでしょ?
 その色めいた視線に気づいたのか、艶やかさが冥王星級な未幸ちゃんは、うふふ、と笑って、下の子に声をかけた。
「ほら、カズ」
 人見知りのカズくんが、おずおずと、紙袋を差し出す。
「あ、の」
「これをお供えしたら、駄目かしら?」
 受け取った紙袋の中を見てみると、それは、パンだった。
「これ、って、」
 あの頃、君は、これの匂いを堪能しながら、ゆっくりと、咀嚼してたなあ。
「雨の、好物よ」
 二城色街、『ベッカライ・フリーデン』の、ライ・ブレッド。
 驚いた。 
「営業、してるの?」
 しばらく、店を閉めていたと、思うけど。
「こないだ、再開したのよ」
 知らなかった。
 いいんじゃ、ないかなあ。
「雨が食べたら、先生が持ち帰れば、いいよね?」
 ありがとう。
 そう、します。これは、雨ちゃん、喜びそう。
 花より団子だ。
「じゃあ」
 牧谷さんご一家は、五人揃って、墓廟へと入っていった。先生は、大きく手を振って、それを見送る。

 雨、よかったね。



 言い忘れたし、暇になったので補足すると、牧谷さんは、『天渺宮基金』の、創設メンバーの一人です。
 一九三九年、六月設立。
 当初は、僕と、牧谷さんの二人だけだった。

 僕はその前月、風薫る時節に、当時の嘉国の首都だった、西方の大瀚だいかんという街へと赴いた。
 国境封鎖が解除されたとはいえ、まだ、鉄道は燦国と嘉国とを繋いではいなくて、陛下が手配してくれた箱馬車で、遠路はるばる、三日かけて行った。
 陛下と、同伴です。
 二日目の宿が、温泉旅館で。
 梅ちゃん、あけっぴろげなのよね。
 人前で、ふつうに全裸になって、ふつうに温泉に浸かってらした。
 はあ、疲れた、じゃないです。
 見てもいいんですね?
 いいのね?
 男は、そういう気分でしたよ。
 佳い、湯治でした。

 話を戻して。
 なぜ、陛下と同伴で、嘉国首都へ赴いたかというと、陛下から、「見せたいものがある」と、言われたからだった。

 本来の嘉国の首都は、宰京さいきょうという街なんだけど、当時はまだ、侵略された、燦国の占領下。
 大瀚は、いわゆる、仮の首都だった。
 どんなところなんだろう、とは常々思っていたけど、行ってみて、びっくり。
 谷間の、小さな温泉街でした。
 ただ、あらゆる山のてっぺんに、見たこともない巨大な鉄塔が建てられていた。
 異様な光景だった。
「ここが司法省で、ここが、外務省で、」
 案内される建物全部が、旅館。
 斬新!

 陛下が見せたかったものは、「ここが、王宮」と案内された、古びた旅館の二階にあった。
 一階には囲炉裏の広間、箱階段を上がった二階にも、六室ほどしかないような、そんな小さな王宮の、ある客間。
 それを、近衛兵が内外で四人、警護していた。
「持ち出すのに、苦労したんだ」
 あれ、何機、使ったんだっけ?
 陛下は、背後の側近。
 亡くなった絢ちゃんの後継、美柃みれいちゃんを振り返る。絢ちゃんの、肝入りだったらしい。
 まだ、成人もしてなさそうな、その幼な顔が「小隊が六、機数は三十六です」なんて、言い出す。
 大掛かりなのは、わかりました。
 それが、これかあ。
 見たことがあるはずもない、大量の紙幣束が、客間にうずたかく、積まれていた。見ると、十円、二十円、百円。五円札は、なさそうかな。各紙幣ごとに束ねられたそれが、一体、何束、あるんだろう?
 最近のひと月分の生活費である百円札も、ばかみたいに積まれていた。
 国家予算かな? と、思った。
「雨の、遺産だ」
 目が、点。
「百万?」
 陛下の言葉に、美柃ちゃんが答える。
「百三万九百六十円です」
 途方もない金額なのは、間違ってなかった。
「先生に見せたかったのは、これと、」 
 その札束の奥の小襖にしまわれていた、一通の封書を、陛下が取り出す。
「これなのだが、」
 開けられた形跡のある、その封書の表書には、『遺書』と、認められていた。
 丸く、くるまった字体。
 柔らかなその流線に、僕は、懐かしさを覚えざるを得なかった。
 雨の、文字。
 今見ても、愛らしいです。
 陛下に促されて、僕は、その封書の、たった一枚の書翰を取り出して、読み上げた。 

 遺書、か。


『遺書』

 天祥の象徴である私が、このようなことばを残すことを、まずは、御允可願いたく存じます。

 私は、誰かの子どもですが、その誰かの所在を、知り得ません。
 親、ということばを知ったのは、五歳のときでした。
 卑賤の身でした。
 否、それも、判然とは、致しません。
 わからないのです。
 ただ、少なくとも、今時、かくの如く、朱花宮を歩く此の両足は、けして、華やかにはありません。

 故に、一つの願いを、取急ぎ、此處に残します。

 万一、此身に不慮たる事あらば、不肖の當財産を、みなし兒たちの健やかなる生育に、御寄付いただきたい。

 此國の薄倖が、幾分か、和らぎますことを、願って。

一九三六年正月四日


 天渺宮 雨



「実は、燦国事変の直後には、これを見つけていたんだ」
 同年、正月二十九日。
 嘉国巡幸中の、梅ちゃんの母君、先代嘉国女王陛下と、天渺宮てんびょうのみやは、燦州で狙撃され、落命した。
 そう、報道された。
「今なら、託せるか、と、思ってな」
 僕は、呆然としております。
「先生に」
 ま、待って。待って。待って。
 待って!
 いやいや。
「僕なんか、」
 僕なんかが、こんな大金持たされたら、延々と、遊ぶよ?
「それは、困る」
 真顔で、言わないでください。
 百三万円。
 どうしたらいいか、ほんとうに、わからない。

「絢が、」
 陛下は唐突に、その名を唇へと乗せられた。
 二城で薄命を散らした、梅ちゃんの、大事な側近。
「これを、残していた」
 手渡されたのは、簡素な書類だった。
 人の名前、所在地、帰属先。
 意外と、筆圧が弱い。
「雨の、上客の、現在を記したものだ」
 陛下からは、見えない血が流れていた。
「頼まれて、くれないだろうか」

 そうして、僕は、牧谷さんと会った。
 その名簿の中で、唯一、知った名前だったからだ。
 未幸ちゃんの、旦那さま。
 彼女が身請けされたと聞いた時は、泣きましたよ。
 にっくき敵だったはずの、牧谷さん。
 彼に、泣きついて。
 そしたらね、牧谷さん、ガハハ、って、笑ったんだよ。
「俺らが貢いだお金ですね」
 って。
 これぐらいですかね、って彼が手に取ったのは、百円札の束、三つだった。
 僕は、そんなに貢いでない!

 そうして、とんでもない額の資金を預かった、僕と牧谷さんとで、『天渺宮基金』という、孤児支援事業を立ち上げた。
 運営は、もう、牧谷さん頼みだった。一介の文官だった僕が、どうこうできる話じゃないですもん。
 創設者にして、ただの居候です。
 そのあと、割と直近で、燦州大学総長で、教育学の権威でもあられるひらく先生と、弁護士の世斫よぜき先生が、顧問として入られた。
 案外なことは、その年の十月。
 燦州が嘉国に再編入するのを待っておられたかのように、嘉国梁園、玖潭宮くたみのみや家のご次男、白葉びゃくよう殿下が、御所をこちらに新たに構えられ、メンバーに入られた。
 この人が、本当に聡明なお方で。
 殿下と牧谷さんとで、基金はたちまち、大きなプロジェクトへと変容した。
 大戦で牧谷さんが祖国へ戻られた後は、牧谷さんの親友で、実業家の火蔘かじんさんが、新たに参入した。
 物資不足が深刻だったあのさなか、建築デザイナーでもあった火蔘さんのかき集めた廃材は、七つの個性的な孤児院を、次々と作り上げた。

『眸の色は、ちがっても』

 あの宣材は、当時の白葉殿下発案によるものです。
 流行り言葉にもなりましたね。

 あんなにひどい戦時下で、基金に協賛し続けてくださった、みなさま。
 国民のみなさま方にも、支えられ。
 来月には、八箇所目の孤児院が稼働する。

 君の遺書のおかげで、僕、うっかり色街で遊べなくなっちゃったよ。
 道を歩くだけで「あ、先生!」だもの。
 ひどいことを、する。

 ご家族を先に帰して、墓廟に残った牧谷さんは、中庭が一面、薄青く変貌するのを見届けながら、駆けつけた創設メンバーや、協賛者の方々らと、次々、再会を喜びあった。

 午後二時ごろには、玖潭宮白葉殿下が、従者を引き連れて、おいでになられた。
 殿下は今や、燦州の王子さま。
 沿道の女子の歓声が、わあっ、と、上がっただけで、ご到来がわかるほどの人気者だった。
「きたきた」
 牧谷さんはその嬌声を聞いて、門前へと勇み、飛び出して行った。
 殿下も、そんな牧谷さんを見るや否や、整ったお顔をしわくちゃになされて、
「まことか!」
 抱き合って、互いの無事を確認し合っていた。
 目尻が熱くなりました。

 次に、火蔘さん。
 この人は実に生真面目で、一般の参列に並んで、三時ごろに到着した。
 ただ、牧谷さんと火蔘さんは、親友だからね。
 お互い、ニヤニヤしながら、
「おう」
「やあ」
 といった感じだった。
 もしかして、牧谷さんの生還をあらかじめ知っていたのかも。
 でも、きっと、あれでしょ?
 さっき、牧谷さんは「今日は家で飯を食う」って、おっしゃって居りました。
 未幸ちゃんという素敵な奥方を身請けし、あまつさえ雨とも遊んでいたような、にわかに信じがたいど助平の牧谷さんが、今日の宵花祭を見ないのはどうにも不自然だと、ちょっと思ってたんだよね。
 わかったぞ。
 この人ら、絶対今日、牧谷さんちで酌み交わすに違いない。
 そうして、未幸ちゃんにお酌を注いでもらうに違いない!
 絶対、そう!
 この僕を、差し置いて!
 なんて羨ましい!
 ニヤニヤ、するな!

 發先生は、残念ながら、今日は他州でのご講義のためにお越しになれない。

 最後は、弁護士の世斫先生だった。閉門前に、ふらりとやってきた。
 この人の逸話も、色々と話したいものだけど。
 この人が、創立メンバーの中で、とびっきり、奇想天外なんです。
 ハイヤアで、やってきました。
「なに、ここ、どこよ」
 大酔っ払いです。
 火曜日だよ?
 まだ、全然、空が明るいです。
「まあ、来れただけ、偉いや!」
 今日は、どこで飲んだくれてたんですか?
 牧谷さんは、目がすっかりと座った、駄目おじさんの肩を抱く。
 千鳥足が、宣う。
「色街の、」
 こんな基金で、ごめんなさいね、雨。
 一応フォローしておくと、この大酔っ払いおじさんが、いちばん、遊んでます。
 先生が、呆れるほどです。
「セキホー、ロ」
 言われなくとも、知ってるか。
 君の、もと、顧客だもんね。
 この人を、君は一体どうおもてなししていたのか、僕は知りたかった。
「今は、どの女が、いちばん佳いんです?」
 牧谷さんも、慎みましょう。
 雨の、墓前ですよ!

 そんな、瑠璃忌も、もうすぐ閉門の時間。
「では、明日、事務所で」
「おお!」
「昼ごろになるよ」
「え、なに」
 世斫先生のハイヤアに便乗した基金の面々は、白樺路の方へと、排煙を撒いて、走り去っていった。
 明日から、賑やかになりそうね。
「また、明日」
 先生は、その姿が消えるまで、手を振った。
 世斫先生は。
 明日は、不能かもね。

 にしても。
 先生は、墓廟を振り返る。
「すーごい、量」
 半分だけ開いた門扉から中を覗いて、思わず、独りごちる。今年はきっと、過去最高の人出だった。
 ご覧よ、雨。
 中庭が、一面、水色です。
 まるで、海です。
 西陽に染められて、赤みを帯びて居ります。
 綺麗ね。
 全然、君のところに戻れてないから、墓廟の中がどうなってるのか、わからないけど。
「窒息、してないかい?」
 返事は、ない。
 ただ、見上げた空は、いつの間にか鰯雲が隊列を組んでいて、まるでモールス信号のように、僕に返信をしてくれているようだった。

 ナントカ、カントカ

「そうですか、」
 じゃあ、あともうお一方、こちらにいらっしゃるので、君のことは後でたすけることとして、ここいらで、ちょっと一服するといたしますね。
 失礼。
 酒場ルパン、と記された箱から、燐寸マッチを一本取り出して、煙草に着火。
 ぼう、っと燃え上がった、全成分を吸い上げる。
 銘柄は、ピース。
 その弔いの一筋を、夕づつへと吹きかける。
 昔は、まるで吸わなかったんだけどね。
 君が死んでからは、すっかりと、重症です。ないと、生きていけなくなりました。
 ちなみにこの燐寸は、さっき、牧谷さんから頂いた、日本のお土産です。
 東京の、有名な酒場なんですって。
 あとで、君にあげるよ。
 まるで少し未来の僕みたいな、丸眼鏡おじさんの絵が描かれています。
 こんなにかっこよくは、なれないか。

 午後五時。
 墓廟は、閉門。
 しかし路上は、最後のお一方のご到来を待つみなさまで、ごった返していた。
 報道キャメラマンや、記者の姿も増えている。
 近衛兵らが、それを、せわしなく整理してくれている。
 お疲れさまです。
 ありがとうございます。
 驚くことに、今年はその中に、思いがけず、よしさんのお姿も見つけることができた。
 話しかけてみると、
「あのあと、おうちに帰って孫たちの夕餉を拵えていたのですけれど、たまらず、飛び出してきてしまいまして」
 きっと、放っておいても大丈夫なほど、お孫さんは、お育ちになられたのね。先生は、そう思いたいです。
 心配!

 わっ、と、歓声。
 あわてて、煙草を消した。

 騎馬隊を前後に従えた、美事な装飾の箱馬車。
 それが遠く、白樺路しらかばみちの方から見えてきた。
 この国、嘉国を統べる人。

 皆紅みなくれない嘉国女王陛下の、行幸です。


 もとい、行啓でした。
 びっくりした。

「ルリちゃん!」
 豪奢な箱馬車から元気よく飛び出したのは、襟付きの黒のワンピースをお召しになられた、愛らしい幼女だった。
 長く伸びた黒の御髪みぐしを、二手で、綺麗に結われている。
 未来の、女王陛下。
「説得するのに、苦労したんだ」
 降りるなり、歎息ついたのは、その親御さん。
「どうしても、ピンクのドレスを着て、叔父さんに会うのだと、言って聞かなくてな」
 さっきまで、癇癪を起こしていたんだ。
 喪服姿の梅ちゃん陛下は、僕を見つけるなり、げっそり、そうおっしゃられた。車内を覗き込むと、脱ぎ捨てられたピンクのドレスが、ぐしゃぐしゃになって、床にへたばっていた。ひとつにまとめあげられた女王陛下の赤い御髪も、少し緩んでいる。
 戦いの痕跡。
「いいんですよ、身だしなみなんて」
 子どもはみんな、変装でもいいくらいです。
「先生、ごきげんよう」
 親心子知らずか。ルリちゃん殿下は、にこやかにそうご挨拶をされると、くるりと身を翻し、沿道のみなさまにも、深々とお辞儀をなされた。
「ごきげんよう」
 殿下、と、次々に呼びかけられると、ちいさなお手を、あちこちへと振りまかれる。
 成長しましたね。
「お越しいただき、ありがとうございます」
 目線を合わせてご挨拶をすると、「うむ!」と、お返事が返ってきました。
 ちょっと、お母さまの影響が、強めかな?
「ほら、ルリ」
 娘に倣い、沿道のみなさまがたにご挨拶を済まされた陛下は、側近の美柃ちゃんから手渡された、大小のふたつの花束のちいさな方を、ルリちゃんに持たせる。
 持ちました! といった顔で、ルリちゃんがポーズを取ると、キャメラのシャッターが、一斉に鳴った。
 明日の新聞の見出しは、ルリちゃんに決定。
 初めて、いらしてくださいました。

「きれーい!」
 中に入るなり、明日の新聞の見出し、ルリ殿下は、目をかがやかせ、可憐に覆い尽くされた小径を、駆け出した。
「転ぶよー」
 陛下は、それを一言で、お見送りになる。言った先から未来の女王陛下は美事にすっ転んでらしたが、母は微動だにしない。
 母、強し。
「陛下!」
 娘もまた、強し。
「見て!」
 泣きもせず立ち上がると、殿下は、ルリマツリの花束の海に、大胆にも飛び込んで行った。

 今年の初めあたりか、ルリちゃん殿下の聡明さに気づかされたのは。
 先生は、迎賓館での逢瀬を思い返す。
 公私を、きちんとわけられていた。
 賓客の前では「うむ」と、気高く振る舞われ、控え室に戻られた途端、陛下とお人形ごっこ。
 先ほどの「きれーい!」も、門がきちんとしまって、市井の方々から、ご自身が見えなくなってから。
 まあ、その可愛いお声は、外に丸聞こえだろうけどね。
 とても、四歳とは思えない。
 君と、似ている。
「相変わらず、驚かすのがお上手ですね」
 受け取った通達では、女王陛下がお一人でご参礼されるはずでした。
「ルリが、寫眞の叔父さんを見ては、会いたいと、ねだるから」
 花に埋没した娘を見るその目もとは、柔らかい。
「現実を見せよう、と思ってね」
 現実を見せるには、いささか早すぎると思います。
「これ、なんのお花?」
 ルリちゃんのそんな無邪気なお声が、先生には不憫でなりません。
「ルリマツリだよ」
 母の答えに、キョトン、としたまなこが、花束の中から飛び出した。
「ルリ?」
 ルリと、一緒の名前だ!
 ルリちゃん殿下は、喜びはしゃいで、再び、花束の海へと潜り込んでいった。
 ルーリ、ルーリ、と、海底を、泳いでいるご様子。
 時々、黒いワンピースが、くじらの背のように、水面上へと踊り出る。
 すごく、なんだか、楽しそうね。
 まあ、日没までまだ時間もあるし、いいですよ。
 そんな、幼女殿下のくじら遊びを大人二人で観覧していると、女王陛下は、ふと、おっしゃった。
「不思議なものだな」
 何が、でしょう?
「瑠璃忌。瑠璃」
 天渺宮の命日の名と、娘の名とを口にされた。
「先生だから言うが、梁園の名前は、親がつけるものではないんだ」
 え?
 てっきり、雨の命日が『瑠璃忌』だから、娘の名前をルリにしたのかと思ってた。
 違うの?
「名簿、みたいなものがある」
 陛下がそうおっしゃって、ジェスチャアで、横長い、書物らしきものを再現する。
 たぶん、巻物ですね。
 右手が、随分と紙を巻き上げておられます。
「その書に書き連ねられた、数万に上る名前を、順にいただく。そういうしきたりがある」
 へー。
 じゃあ、玖潭宮白葉殿下も?
「白葉も、そうだ」
 呼び捨て。
「瑠璃も、そう」
 ん?
「たまたま、次に用意された名前が『瑠璃』だった」
 え?
 なるほど?
「不思議だと、思わないか?」
 ほんとうだ。
 すごい、偶然!

 瑠璃忌は、天渺宮廟が完成した一九四〇年の夏に、市井から名付けられた呼び名です。
 雨の、三回忌。
 公がつけた名前じゃ、ないんだよね。
 墓廟が、できました。
 命日に墓廟を公開しますね、ってなった時に、二城の花屋さんが、勝手に名づけたの。

「十月二十三日、『瑠璃忌』には、ルリマツリを!」

 高らかにそう宣伝して、苗や、花束を売り出した。なんでも、十月二十三日の花がルリマツリなんですって。
 そうして、ルリマツリの花が、雨の命日に手向けられるようになった。
 ルリちゃんは、その年の暮れに誕生しました。
「でも、ほんとう、たまたまなんですか?」
 繰り上げて、「じゃあ、瑠璃ちゃんにしよう!」という、ことは、ないの?
「ない」
 皆紅女王陛下は、そう断言なされた。
「本当に、偶然なんだ」
 偶然、というよりも。
 そうなると、もはやルリちゃんが、雨の生まれ変わりみたいに思えてくるよ。
「そろそろ行くよ、ルリ」
 えー?
 不服そうな声を発したものの、聡明なルリ殿下は、お供えされた花束をいっぱい持ち上げて、花の海からザバザバと引き揚げてきた。
 そのちいさなお体を、先生は抱き上げる。
 成長著しい。思いがけず、重かった。
 同じ年頃の雨は、もうちょっと、軽かったような気がする。
 歳のせいかな。
「叔父さんが、お待ちかねよ?」
 そうお声がけすると、腕の中の未来の女王陛下は、急にお鎮まりになられた。
 何よ。
「やだ」
 はは。
 やっぱり、雨の生まれ変わりかも。

 月色の瞳が印象的だった君が、『瑠璃』の名で偲ばれることは、当初は、不思議なことに思えたけれど。
 朝日、夕焼け、燭光、くらやみ。
 さまざまな光で色味を変えた君の瞳孔は、確かに、瑠璃色に似ていたように思う。
 今さらだけどね。
「ありがたいことだな」
 娘の小さな手を引きながら、女王陛下が、墓廟に続く小径を歩き出す。視線の先には、ルリちゃんの泳いだ、ルリマツリの海。
 ルリちゃんの花束はどっかに飛んでいってしまわれたので、だれかが手向けた花束を、お持ちになられている。
 ずいぶんと、大きな花束になりましたね。
「列が、絶えませんでした」
 中庭を見渡した。不思議と、幸福な時間だった。
 君がこの世にいないことは、寂しいのに。
 みなさんが、君の名を呼ぶ。
 雨さま。
「燦州の人は、やっぱり、どうしても、そっちで呼んじゃうんですね」
 たまに、天渺宮さま、と呼びかける、生真面目な方もいらしたけど。
 断然、『雨さま』だった。
「その方が、馴染みがありますから」
「それは、」
 墓廟の前に、辿り着く。
 外壁の花束は、軽く陛下の背丈ぐらいまで積み上がっていた。
「致し方ないことだが、梁園としては、さみしい」
「でも、陛下だって、雨って呼んでたんでしょう?」
 初めてお会いした時だって、雨が、雨が、だったじゃないですか。
「そうだが、」
 こちらを、真面目なお顔で振り向かれる。
「もう少し、彼に時があれば、」
 言いたいことは、わかります。
 在位一年。
 あまりに、短かかった。
 でも。
「誰も、天渺宮の御名を、忘れることはないと思いますよ」
 雨、という名前は、時と共に忘れられても。
「御名は、消えない」
 天祥の、象徴。
「この国の、神格ですから」
「そう、だな」
 陛下の手が、花束を擁したまま、格子戸へと伸びた。蝶番の、鈍い音。
「先生は、このまま、独身を貫くのか?」
 なんで今、四十五のおじさんに、それを聞くんですか。
「そうなのだろう?」
 ダメ押しするのは、止してください。
 僕の指を、指輪を、チラッと、見ないでいただきたい。
「勿論です」
 当然です。
 雨を、忘れられません。
 僕にとって、鮮烈な人でしたから。
 でも。
「今は二人、養子がいますよ」
 えっ、と、陛下がこちらを振り返った。
 ふふ。
 驚きましたね?
「養子?」
 はい。
 陛下は、まじまじと、こちらを凝視なさっている。
 まあ、後で、詳しく説明しますけど。
 実は、午前中に、雨に会いに来てくれていました。
 先生は、口元に人差し指を立てた。
「どうか、雨には、ご内密に」
 ナイショですよ。
「神様に妬けられちゃうと、困っちゃいますから」

 墓廟内は、ひんやりとしていた。
 五方の窓から差し込む自然光も、弱く、眠たげで、君を照らすには、いささか不十分。
 小世界はほの赤く、まるで、第三の君が、彷徨っているみたいだ。
 君は、薄青い花群れにくるまり、秋寒を凌いでいる。
 幽かな寝息が、聞こえる気がする。
「雨」
 前に進み出て、話しかける。
 僕は、この情景に慣れないまま、死ぬような気がする。
 返事をしてくれ。
 そう、願い続けて、人生は終わるだろう。
「陛下と、ルリちゃんが来てくれたよ」
 返事は、ない。
「おじさんに、ごあいさつ、しようか」
 振り返ると、ルリちゃんは、陛下と手を繋いだまま、きょとんとしていた。
 床を、見ている。
「陛下?」
 幼女の愛らしい声音は、母に向けられた。
 見ると、身を屈められた陛下が、嗚咽もなく、蓄えきれない涙を、潤色うるみいろの床へと落とされていた。
「どう、」
「どうしたの?」
 僕と、ルリちゃんの声が、合わさった。
 視線も、合わさる。
「ごめん、」
 陛下が愛娘の手を離して、小さな背を、僕の方へと軽く押された。
「頼む」
 ルリちゃんのお体が、僕の懐へと託された。
「先生?」
 うん。大丈夫よ。
 名を呼んでくれた、未来の女王陛下を抱き上げる。
「おじさんは、どこ?」
 ごめんね。
 いつか、大人の嘘を、許してくれるかなあ。
「いるよ」
 ここは、おじさんの家。
 お母さんの代わりに、ルリちゃんを、棺の前へと連れてゆく。
 長方形の、白大理石。
「これが、『雨叔父さん』だよ」
 そう、紹介した。
 ルリちゃんの翡翠の眸は、おじさんを、探した。
「いないよ?」
 泣かせないでくれ。
「そうだねえ。いないねえ」
 お留守みたいね。
 でも、そのお花、ください、って、おじさんが言ってるよ。
 ここに、くださいな、って。
 屈み込んで、抱きしめた小さなお体を、お棺に近づけると、
「うむ」
 未来の女王陛下は、雨に、献花した。
 まあ、ちょっと、乱暴めに。
 投げてよこしましたが、まあ、可愛いから、いいよね。
 次世代です。

「雨」
 しばらくして、陛下が棺へと、そう、お声を発せられた。
 お顔はやや乱れてらっしゃるが、お気持ちは整えられたご様子。
 しっかりとした足取りで、歩み寄られた。
「これが、『あんまりさん』の子だよ」
 あんまりさん?
「私の、夫のことだよ」
 ふわりと、お笑いになる。
「実に、あんまりな人でね」
 王配殿下、あんまりな言われようです。
「それを、雨と会った最初の日に、話したんだ」
 雨が十五の、初夏。 
 王宮の案内がてら、立ち寄った大庭園で、許嫁が『あんまり』であることを、雨に漏らした。その理由を、雨に言った。
 彼は、屈託なく笑った。
 何故かというと。
 陛下の、その叮嚀なご説明は、僕の膝を、徐々に、綺麗に頽れさせてくれた。
「以来、私と雨は、許嫁のことを『あんまりさん』と呼んでいたんだ」
「それ、は、」
 お臍も変わる、面白さです。
「まるで、僕だね」
 笑っちゃう。
 おんなじ。
 稀代の、女ったらし!
 雨、今ごろ、あちら側で、笑ってるんでしょう?
 目に見えるようだよ。
 王配殿下は、まるで僕だった。
 宮中のあちこちの女子に、手を出して。
 あまつさえ、宮内に三人、宮外に七人、愛妾がいるだと?
 それも、ご成婚前からの、お約束?
 待って。
 王配殿下には、ちょっと、敵わないけど。
 それじゃあ、僕だって、結構な『あんまりさん』じゃないか!
「そうだよ」
 陛下は、くつくつと、お笑いになる。
「先生に、よく似ている」
 お笑いになりながら、目元の涙をお拭いになる。
「雨が、そう言って、笑っていた」
 ひどいなあ、雨。
 拗ねちゃう。
 先生のはお妾さんじゃなくて、恋人だもの。
 人数だって、七人が精一杯でした!
「ルリは、あんまりさんに姿が似てしまったが」
 声だけはまだ泣き声で、あんまりなことをおっしゃりながら、雨に献花する。
 棺の中央。
 花束の頂。
「今度は、あんまりさんも連れてくるよ」
 そうですか。
 その時は、僕、席を外しますね。
 そう申し上げると、陛下は心底、不服げな面持ちをなされた。
「何故」
 なぜと、おっしゃられても。
「女たらしが二人もいたんじゃあ、雨が、笑い死んでしまいますよ」

 それから日が暮れるまでの、ほんの少しの時間。
 四人で、さまざまに話を咲かせた。
「先生には、案外であろうが」
 その片手には、ライ・ブレッド。
 牧谷さん一家の、お供え物だ。
 棺の上に、ぽん、と置かれていた謎の紙袋についてご説明申し上げたところ、食べてみたい、との仰せで、献上いたしました。
 そのうち、喉が渇くと思われます。
「私は、先生といると、どことなく安心するんだ」
 ラブ・コール。
 雨の、墓前ですよ!
「夫と似ているからなのか、」
 さすがに、陛下との不倫は、致しかねます。
「似たような境遇だからなのか」
「ば、」
 雨の墓前です!
 ずっと、ばれないように努めてたんだから!
 その先は、言わないで!
「なぜ、口を塞ぐ」
 唇で塞いでは、居りません。
 頼りない手のひらで、失礼して居ります。
「雨の前では、勘弁してください」 
 小声も、小声。
 それ以上言ったら、雨が吃驚びっくりして、墓から飛び出てきますよ。
 いいんですか?
 そう奏上すると、陛下は、ふうむ、と、天蓋をお見つめあそばされた。
「なぜ、内密にしていた?」
 雨だけに、じゃ、ありません。
 ばれたら。
「遊べなくなるから、です」
 しょうもない、理由でした。
「うちの夫は、公然と、遊んでいるが?」
 それはね。
 田舎と、都会との違い。
 あとはただ、王配殿下が、豪胆なだけです!
 一緒にしないでいただきたい!

「致し方ない」
 不納得なご様子で、陛下は話題を転じられた。
華琇院かしゅういんが、」
 もっと、話を大胆に逸らしてほしかった!
「来年度から、教育課程を変えるそうだ」
 先生が説明しよう。
 華琇院とは、学校の名前です。
「公私立の学校と、同じ課程にするらしい」
 要は、公私立とも違う、学校です。
「今さらなようも、しなくはないが」
 ほんとうですね。
 大学にあたる、華琇院高等科に進むと、公私立の大学に改めて進学するにも、二学年の遅れを取ってしまう。
 かといって、高等科に進まず、公私立の大学を目指そうとすると、半年間は、待たなくちゃならなくて。
 どちらにしても、入学試験の合否次第ですからね。
 僕も結構、迷いました。
 って。
 言わせないでください!
「先生も、やはり、あの寮に入っていたのか?」
 結局、雨の前でそういう話をする!
 ああ、もう。
「僕の黒歴史の全てが、あの寮に詰まっていますよ」
 僕は、陛下の同窓です。
「寮は、エロスの究みでした」
 何かおっしゃりたげな、後輩陛下です。
「性欲に、貴族も梁園も、ありませんからね!」
 人類、皆、等しく、変態!
「それは、同寮出の夫を見ていれば、否応なくわかるが、」
 変なところで妙にご納得されるのも、止していただきたいものです。
「一体、寮で何をしていたんだ?」
 絶対に、言えません。 

 ついでに言うと、王配殿下と僕は、又従兄弟はとこです。
 墓から、出てきなさい。
 雨。
 盛大に、笑うところよ。

 にしても、そうかあ。
 ルリちゃんも、そのうち通うんですもんね。
 華琇院に。
 そんなわけで。
「ルリちゃんは、絶対寮に入れない方がいいですよ」
 そう申し奉りますと、後輩陛下は「相分かった」と、ご首肯なされた。
 物分かりが早くて、助かります。
 娘御に、危ない橋を渡しちゃ、いけません。

「やだ」
 しかし。
 そんな大人たちの密談に、ルリちゃん殿下は、いささか不服げでした。
「何が、」
 母君が、急に不貞腐れ始めた娘を抱き寄せようとなさいましたが、大抵抗です。
 いやいや期を再発なさいました。
「したい」
 思わず、陛下と目が合っちゃいました。
「したいの!」
 何を。
 母君の問い詰めに、幼女が、地団駄を踏む。
「遊びたい!」

 これ、女の、本能でしょうか?
 お母さま、棒腹絶倒。
「ばか、」
 先生が、よくよくルリちゃんに尋ねたら、もう、ここにいるのも飽きたから、中庭で遊びたい!
 でした。
 大人たちは、たいそう、穢れて居ります。
 ルリちゃん、危ない寮に入りたいのかと、うっかり、思っちゃいましたよ。
 陛下も、お好きですね。

「雨は、大学予科に通っていたんだ」
 そんな、ただ、遊びたかっただけのルリちゃんを、中庭に解き放ち。
 このまま、崩御なされるんじゃないかしら、と思うほど、しばらく大笑いされてから、陛下は、天渺宮さまの当時のお話をしてくださった。
 初耳だった。
「それって、」
 雨は、義務教育すら、受けていない。
「意味、あります?」
 大学には、中等教育課程を修了していないと、入れない。
 予科だけでは、足りない。
 おまけに、当時の雨は、十五歳。
 予科に通うにしても、一学年、早い。
 彼の経歴を思えば、中等教育課程相当を取得できる夜学を経て、それから大学予科か、高等学校。
 それが、この国のセオリーだ。
「その辺は、先代と雨との擦り合わせによるものだろうから、私には、なんともわからないが、」
 天渺宮の在位は、一年。
 僅かなその期間に、雨が熟考して、択んだ道ではあるのだろうけど。
「どうやら、薬科大学に入りたかったらしい」
 へ?
「それだけは、確かだ」

 どういうことですか、雨。

 棺に問いかけるも、返事はなし!
 そもそも、梁園のお方が医学の道に進むこと自体、前例がなさすぎます。
「何故、だろうか」
 陛下も、その辺についてはご存知ないらしい。
「何か、心に期するものがあったことには、違いないのだが、」
「期するもの、か」
 先生は、当時を思い起こす。
 あの子のことだから、期するとすれば、『あれ』のような気がする。
「あれ、とは?」
 陛下には、少々、伝えにくいお話です。
 君は、少し体調を崩すたびに、過度に怯えて、人払いをしていたね。
「痩せ病、」
 楼主さまから、そんな電報を何度受け取り、何度、心配させられたことか。
「不治の、病」
 妓女たちの命をあっけなく奪う、未知の病。
 具合が悪くなってから、あっという間だ。見るからに痩せ細っていくさまから、色街ではそう呼ばれている、不治の流行り病。
 痩せ病。
 きっと、怖かったろうし。
 君なら、その原因を、知りたく思っただろう。
「そんな花柳病が、あるのか」
 あるんです。

 くるな。
 近づくな!

「薬科大学、」
 セオリーを度外視した、雨の、予科通い。
「雨も、人の子、か」
 そのまま、天渺宮で在り続けていたら、君は今頃、優秀な薬学博士にでも、なっていたのでしょうか。
 新薬の開発に、今頃、眠れぬ瞼を擦っていたのやもしれない。
 白衣姿の雨。
 見てみたかったな。

 それからも、ルリちゃんが人参を頑なに食べようとしない話や、陛下も人参には辟易しているという、貴重なお話を伺って。
 日は、暮れた。 
「さすがに、そろそろ、行こうか」
 中庭に出ると、雨叔父さんがあやしてくれていたのだろうか、ルリちゃんは花に包まり、ぐっすりと夢の世界の住人だった。
 陛下の両腕が、その、まあるいフォルムを抱き上げる。
「起きろ」
 ああ、だめ!
 幼いほっぺを、そんなに強く叩いちゃ、駄目です!
「駄目か?」
 いや、王家と貴族とでは、子育ても何かと違うでしょうから、ご指摘するのも、ためらわれますが。
「やや、ほどほどに、叩きましょう、ね?」
「やや、ほどほどに、か、」
 いちばん、愛されたいお年頃ですから。
 侯爵のアドヴァイスに、王家は、十数秒ほど、ご思案なされた。
「考えておく」
 王家に生まれなくてよかったよ。
 先生はしみじみと、母娘の肩に手を置いた。
 大変ですね。
 表に出ると、よしさんを筆頭に、大勢の方がお待ちかねでした。
 結局、叩いても目を覚まさなかったお疲れルリちゃんに、嬌声と、シャッター音が鳴り響く。
 フラッシュが、丸眼鏡にやさしくない。
「これが、いいんですよ」
 もの言いたげな陛下に、とっておきのアドヴァイスです。
「可愛いは、正義です」
 眠ってる子供と、それを抱く母親ほど、愛らしいものはありません。
 実に、平和です。
 いいものです。
「そうか」
 なら、いいのだが。
 堅物陛下は、沿道と墓廟に、一礼する。
 僕も、それに倣った。ありがとうございました。
 おやすみ、雨。
 またね。
「ちゃんと、あの部屋を用意しておきましたからね」
 小声で、陛下にそうお伝えする。
 料亭すずねの、瑞兆の間。
 初めて逢引きした時の、あのお部屋です。
「行こうか」
 箱馬車に、陛下が乗り込む。
「デートですね」
 僕も、相席。
「私は、遊ばないぞ」
 ふふ。
「本当に?」
 頑なげな夫人の頬に少しだけ唇を近づけると、夫人は、白熱電球のようにあからんだ。
「し、しし、失礼だろう!」
 可愛いなあ。
「失礼いたしました」

 側近の美柃ちゃんも乗り込んで。
 箱馬車は、動き出した。
 そうして、今日の瑠璃忌を、過去のものとする。
 また、来年。
 まあるい大きな月が、美柃ちゃん越しに、窓の外に見えた。
 まるで、君。
 見透かれているようだ。
 本当のところは、もう、遊ぶ気力も、精力もないよ。
 四十五のおじさんですからね。
 なんともなりません。
 何もかも、失せました。
 でも、ね。
 いろんな人が、君の遺言をきっかけに僕を見るようになったから、迂闊に、消えられない。
「君と、同じ、」
 車輪が砂利を食み、君からどんどん、離れていくことを教える。
 君の指輪は、少し合わなくて、薬指をから回る。

「そういえば、」
 箱馬車が、白樺路へと差し掛かる。
「あれは、どうだった?」
 陛下が、僕の顔を覗き込まれた。あれとは、あれですね。
「ちゃんと、訪えさせていただきましたよ」
 先日、陛下きってのお願いで、僕は、ある人物と面会をさせていただいたのだ。
「いろいろ、ありました」
 思うことが、山のように、あります。

「ご報告、いたしますね」 


 六点の油絵画の裏書には、すべて『天』というタイトルが記されていた。

 一九三八年十月二十三日。
 リントヴルム・クーデター。
 於、旧燦国、二城、李宮りきゅう
 それらの絵画は、惨劇の舞台となった、李宮地下壕のある一室で発見された。
 最も古いものは、一九三五年、如月。
 署名は『A』。
 大礼服を身に纏う、若き男性の肖像画だった。
 モノクローム調の波打つ紋様が、尾を引く影として描かれ、男性の睛眸だけが、月のようにかがやく一品。
 他、五点の絵画も、共通して、月色の眸子を有する肖像画だった。
 一室の、木製の寝台下に於いて、それらは大量の油絵の具と共に発見された。
 未完成のデッサンも、数点、押収された。

 一九四五年、初秋。
 日曜日。

 うだるような夏の残波を引き連れて、僕は、嘉国の首都、宰京へと入った。
 宰京はまるで、古寫眞ですね。いにしえの景観を守るため、変化を望まない街づくりを徹底している。
 初めてこの街に来たのは、今から四十年ほど昔のことなのに、プラットフォームから見る景色は、あの頃とまるで変わりありません。
 頑なにも程がある。
 ただ、宰京に辿り着くまでの車窓も、燦国に侵攻された足跡が、そのままに残されていた。
 いつ見ても、胸が痛みます。

 かつての燦国は、独立を宣言し、嘉国に宣戦布告をした数ヶ月後には、この宰京を手に入れた。
 当時の燦国の新聞は、毎日「快進撃!」「大勝利!」だった。號外、號外! でした。
 半狂乱。
 熱狂。
 嘉国女王陛下、梅ちゃんは、燦国軍の、宰京への無血入城を受け入れた。
 そして、不可侵条約を結んで燦国を承認し、宰京や、第二の都市の徐宮じょきゅうを含む、嘉国東方の領土を、燦国に譲渡した。
 燦国が、勝った。
 ただ、当時の侵攻の傷跡が今もそのままなのは、燦国がなんの扶助もせずほったらかしにしたのと、あとは、燦国終焉の直前に、大戦が勃発したからですよね。
 一九三九年九月朔日。
 永世中立国だった嘉国は、世界から孤立した。
 赤貧。
 物価も、とんでもない値上り方をして。
 おじさんだった僕だって、北方防衛線に、自前のライフル担いで行きました。あれで、腰をやられたよ。
 でも、そんな孤立した国境を率先して守ったのが、あの旧燦国のリントヴルムの練兵たちだったのは、皮肉というよりも、怪我の功名でしたね。
 大戦は、終わったばかり。
 この国は、修復前です。

 こんなふうに、長々ともの思いに耽っているのも、駅前のビヤホールで、黒ビールを飲んでいるからです。
 駅で受け取った電報には、
 マチガエタ」シバシマテ」ウメ
 と、書かれていました。
 どうやら、お迎えの時間を間違えたらしい。
 だったら、飲むよね。
 長旅、ご苦労さんですし。
 人は、甘い誘惑には勝てないしね。

 宰京は、港町。
 潮風は爽やかで、酔いが回ります。
 刑務所に行く前に、お酒を飲んじゃあ、ダメですね。
 すみません。
 でも、陛下。
 願わくば、門前の刑務官だけは、目の保養になるような、見目麗しい女子にしていただけないでしょうか。
 あれで、酔いが一気に覚めました。
 眼前には、身丈三つ分の、垂直の煉瓦壁。
 空と現とを遮蔽する、有刺鉄線。
 想定内です。
 でも、そこに、四角い顔のむさ苦しい男がいっぱい並んでいたら、想定内でも、殺伐でしかありません。
 思い起こすだけで、憂鬱です。
 あの時、陛下の提案に「いいですよ」って軽返事をした自分を、心底、懲らしめたく、恨めしく思いました。

 ことの経緯は、こうでしたね。
 お電話をいただいた時は、何事かと思いましたよ。
「お願いが、あるのだが」
 ハイ。
 燦国の元副総統が、今、宰京の医療刑務所に収監されているんだ。
 永久在牢で、御歳、五十。
 その彼が、クーデターより七年間、何も一言も、喋ろうとしない。
 癈人はいじんのように、ぼうっとして、牢内を徘徊している。
 まあ、ここまではいいです。
「雨と親しかった人になら、なにか、反応があるかもしれない」 
 ハイ。
「適当でいいから、会ってきてくれ」
 という、流れでした。
 なんで、「いいですよ」なんて、言っちゃったんだろう。あの時、実は二日酔いだったんです。
 僕の、ばか! ばか!
 大ばかもの!

 もう、憂鬱でした。
 医療刑務所の重々しい正門を、不慣れな立ち振る舞いで通過して。
 酔ってるし、陛下の代役で来たから、色々ともてなしが、重厚で。
 頼むから、僕に敬礼しないでくれ。
 そう、心でとなえて居りました。
 だって、こいつ、寝押しのスーツ着てきたな、って、見りゃわかるでしょう。
 ちょっと、失敗したんです。ズボンの右裾が、特に!
 色々、憂鬱でした。
 厭でした。
 酒場に、帰りたかった。

 僕は、副総統閣下に、一度だけ、お会いしたことがある。以前、陛下にもお伝えしたとおりです。
 忘れもしない。
 一九三六年、二月十七日。
 燦国事変直後の、月曜日の朝。
 ある、生きた死体と会話をした時の話です。
 燦国では、のべ七十万人の尊い命が、彼らによって犠牲となりました。
 先代嘉国女王陛下や、燦州首相、州府官僚なんかも、その中に含まれています。
 相手は、そんな超大物の戦争犯罪者。
 門を通って、「やあ、こんにちわ!」なんて、距離であるはずもないことは、承知していました。
 最奥も、最奥。
 こないだ、陛下は「毎週、通っている」とおっしゃっておられましたが、本当に、ここを歩いてるの? 
 ゆうに、二十分は歩きました。
 無風の通路を汗だくで歩かされ、階段を登ったり降りたりしながら、ようやく、ある牢室へと通された。
 広い。
 併設された、面会室、とでも言うのかな?
 そこだけでも、十人が雑魚寝できそうな空間があった。
 牢室では、五十人ぐらい、雑魚寝ができそうです。
 そんな牢室にいたのは。
「え?」
 ただの、老けた、おじいちゃんでした。
 確か、御歳、五十でしたよね?
 前にお会いした時は、でも、あれももう、十年も前のことになるのか。
 僕の記憶の中の副総統閣下は、長身の、いかにも軍人らしい筋肉質な体付きで。
 あれはきっと、オーダーメイドだろうなあ。
 黒づくめの、体に合ったスーツをばっちり着こなしていらして、ふさふさとした黒髪を、オールバックで固めていらして。
 映画俳優然とした、顔の彫りの深い、美男だったはずだけど。 
「本当に、ここで合ってる?」
 そう振り返ると、刑務官は二人揃って、自信満々に、垂直に立っていました。
「こちらが、あかし、燦国元副総統の牢室に、相違ありません」
 左様、ですか。
 これが、あの、副総統閣下。
 あれが、これ?
 嘘でしょ?

 面影もへったくれも、あったものじゃあありません。
 骨と皮。
 伸びた髪も、真っ白で、フケまみれ。
 それを終始、掻き毟ってるものだから、バサバサ、フケが宙を舞っていて、ほんのちょっとの外光が、「これは、雪ですね」って、美しく照らしているけれど、完全に、光の勘違いです。
 それは、ただの、フケです。
 床は、さすがに、刑務官の方々のご尽力もあってか、積雪を免れてますけども。
 髭も、長老みたい。絡まってるようにも見えますし、どうやら、よだれも垂れてるみたいです。
 囚人服のズボンの裾が、ビリビリに破れているのも、とても気になります。
 そんなおじいさんが、正方形の牢内を、すみっこがお好きなのか、はたまた壁に埋まりたいのか、黙して、頭と壁とを引っ掻きながら、うろうろ、徘徊していた。指が、血まみれです。
 知らない、人です。
 ただ。
 中が薄暗いし、当人もすみっこにいるので、判然とはしないんだけど。
 顔の彫りだけは、確かに、副総統っぽかった。
「癈人、」
 確かに、癈人でした。
 おかしな匂いが、いっぱいする。生きてる人の発する匂いじゃ、ないです。
 帰りたい。

「あのぅ、」
 一応、任務を遂行しようと、声をかけたけど。
「こんにちは」
 当然、なんの反応もない。
 彼はなんとも不安げに、すみっこをうろうろしてらっしゃる。
 どうしようかなあ。
 面会時間も、十五分だけだし。
「ひとつずつ、言ってみるか」
 僕は、道中、道ゆく美女に幾度も鼻を伸ばしながら考えていた「副総統閣下と何を話そうかなあ」を、一つずつ、言ってみることにしました。
 まともな会話も、望めそうにないことだしね。
 ひとつめ。
「お久しぶりです、閣下」
 反応、なし。
「僕は、五歳から十四歳までの『雨』を、知る者です」
 癈人の動きが、止まった。
「雨の本名は、アメ、ですか?」
 反応、なし?
 動かない。

 煽って、みようか。

「僕は最初に、雨を『強姦』した人間です」
 めっちゃ、振り返ってきた。
「殺したいと、思いますか?」
 全力で。
 癈人、もとい、元副総統閣下が、突っ込んできた。逃げろ!
 鉄格子が、ガァン! と、鳴った。
 こっわあ。
 体当たりかい!
「わ、わけを、聞きたくは、ないですか?」
 ガン!
 ガン!

 骨、折れるって!

 でも。
 癈人が本能で怒るってことは、そういうことだ。
 自分ごとのように怒れるような『大切なもの』なんて、そんなには存在しない。
「雨が、『それ』を、望んだからです!」
 癈人は、止まった。

 これは、君の、プライベエトのことだから。
 今まで、誰にも言わなかったけど。 
 でも、ごめんね、雨。
 言うね。
 もし、あの肖像画が、この人の作品で。
 君の、父親だとしたら。
「雨は、死にたがってたんです」
 当時、九歳でした。
 賢かった彼は。
「自分の命の値段を知っていた」
 十五万円でした。
 そういうと、癈人は、一瞬、こちらを見た気がした。
「基本的に、下代の三倍が、上代。売価です」
 彼は、仕入れ値十五万円の自分を、四十五万円の商品にしなくちゃならなかった。
 当時の、ひと月の庶民の生活費が、どう高く見積もっても百円には遠く及ばなかった時代。
 彼は、自発的に、体を売り始めました。
「そして、きっと、あなたの知る、彼になりました」
 副総統閣下の部屋に残されていた、肖像画は。
「雨」
 そして、
「天渺宮」
 癈人は、止まったまま、目も合わせてくれないけど、聞き耳は、立ててくれているみたいだ。
 真実を、言わなくちゃならない。
「雨は、」
 自分なんか、どうでもいい。
 そう言った。
 自分を十五万円で買収した赤鳳楼に、利益をもたらすことが、自分の倫理なのだと。
 九歳の子どもが、笑って、そう言っていた。
 巫山戯ふざけるな!
 ばか!
 むかついて、大人気なく、蹂躙しました。
 何度も。
 思い知れ! って。
 そしたら、
「殺してくれ、と、言われてね」
 そして、幼な子でもない彼が、ひきつけを起こした。
「バカだな、って」
 頑なに、一人前であろうと、頑張って。
 苦しいのに、苦しいと、言いたがらなくて。
 愛されたいと願うのに、愛してくれと、口にできない。
「親子って、似るんですね」
 言い切った。

「どう、して」
 癈人が、しゃべった!
 どうやら、僕たちの憶測は、当たっているみたいだ。
 あの、六点の肖像画の、タイトル。
 天。
 アメとも、読めるよね、と。

「どうして、天、と名づけたのですか?」

 十数分、待った。
 答えは、もらえなかった。
 面会時間が、終わる。

 だめでした、女王陛下!

 そう思って、退室しかけた時だった。
「あの時、は、」
 癈人は、遠くのすみっこで、身をくるめていた。囚人服をひと塊にして、小刻みにふるえて、そうして、頭を、血が滲みそうなほど、掻き毟っている。
 彼の、苦悩の音まで、聞こえてきそうだ。
「内乱、」
 ああ、と、思う。
 当時はそうだった。
 燦州の内乱。
 そのさなかに、雨は生まれた。
「北部、に、いて、」
 内乱は、北部が主戦場だった。
 軍人だったのだろう。
「女、男、」
 この人は、狂ってはいないような気がする。
「どちら、でも、いい、名前、を、」
 考えて。
「それが、『天』?」
 素直に、頷いてくれた。

「妻が、自殺、した」
 癈人の、懺悔。
「私は、」


 まとめると、僕たちの知る『雨』の生来の名前は、天と書いて、アメだった。
 副総統閣下は、雨の父親だった。
 雨が生まれる時に戦場に行ったから、男でも女でもいいように、と、彼が『あめ』と名づけた。
 あの、六点の肖像画を描いたのは、彼だった。
 彼の妻は、自殺した。
 彼は、雨を愛することを、恐れた。
 妻と瓜二つな、雨を。

「そうか」
 拙い報告を受けられた陛下は、首肯し、淡白に、そうおっしゃった。
 でもまあ、そういう反応で合ってると、先生も思います。
 思うことは、山のようにあるけれど。
 他人の家庭ごとなんて、所詮、他人には推し量れようもないしね。事細かなことは、何もわからなかった。
 どうして、お母さんが自殺してしまったのか。どうして、『天』が身売りされたのか。
 どうして『死の媛』なんかにしてしまったのかも。
「多分、それでも」
 随分とご推量あそばされてから、陛下は、箱馬車の狭い闇空を見仰いだ。そのそばで、未来の女王陛下が、スウスウと寝息を立てている。
「あの時、」
 リントヴルム・クーデターのことだろう。
「やはり、副総統閣下は、雨を、守ろうとしたのではないだろうか?」
 でも、雨の遺体からは。
 青酸カリが、検出されている。
「あの場は、集団自決だったろう?」
 粛清された者の、ほぼ全員が、地下壕で毒を煽り、自決していた。
「常軌を逸脱したあの状況で、」
 集団ヒステリーで。
「間に合わなかったのでは?」
 僕は、静かに首を横に振った。
 それは、否定する。
 雨の、頭の良さを痛感しているから。
 そんなヒステリーで、迷うような子じゃない。
 自殺をするような子じゃない。
「でも、」
 陛下のお話によれば、発見された時、副総統閣下は、死の媛の遺骸を抱きしめていたという。
「どう、なんでしょうね?」
 わからない。
 故意なのか。
 過失だったのか。
 そのエピローグは、もはや、副総統閣下の傷だらけの頭に問うしかない。

 馬車は、白樺路を抜け、市街地へ向かう坂道を、ゆっくりと下ってゆく。
 以前よりも明るくなった二城の街並みを、眼下に望む。まるで、宵花祭の賑わいが、少しずつ近づいてくるようだ。
 雨の生きた街。
 真相は、晴れないけど。
「子供らしく、ヘマをするか、」
 先生には、ある、くらいひらめきがあった。
「或いは、子供らしからぬ所作で、宵花さまを演じるべきなのか、」
 二城の夜景を見つめながら、話を変えた。
 雨について。
「初めて、雨が『宵花さま』になった時、彼には、二つの選択肢がありました」
 ふつうの子供なら、そんなことすら思いつかない。
「どっちが、いいかな?」
 じゃ、ないです。
 あなた、十一歳よ?
 それも、男。
 何もかもが異例すぎて、燦州全土が、にわかにざわついてます。
「そうかあ」
 そうでしょうよ。
「自覚しなさい」
 分かった。
 君は、そう答えた。答えながらも、深く、考え込んでいた。
 大人の顔でした。
「僕は、あの時、雨の真意をつかめなかった」
 でも、その宵花祭を見て、理解した。
「遠くに、行っちゃった」
 小さな策略家は、後者を選んだ。
 自分をより高く、世に売り出すために。
 完璧な宵花さまを、演じ切った。
 美事でした。
 君は、名声を択んだ。
「これは、本人が言っていたことじゃあ、ないんですけどね」
 そう、言い置いて。
 あくまで、先生の主観です。
「その理由は、自分という『真っ当じゃない』宵花の、地位の確立が、まずは一つと、」
 虚空を見つめると、そこにあの時の、小さな雨がいるような気がした。
「それから、そんな異端な自分を支持した人たちへの、感謝、」
 天渺宮基金の協賛者も、大勢が、雨のもと顧客だ。
「あとは、自分と同じ、異端、社会的少数者への、」
 雨という存在は、報道で広く、知れ渡って。
「そういう人たちの、生きやすい、未来」
 性的少数者が、世間に広く認知されるようになった。
 児童の性的搾取への、反対運動も起きた。
「きっと彼は、そこまで、考えていたような気がします。自分だけなら、ヘマをしても良かった」
 陛下は、静かにこの独白を、聞いてくださっている。
「でも、雨がそれをしようとしなかったのは、それ以上の『意味』や『価値』を、わかっていたからじゃないのかな? とも、思うんですよ」
 なるほど、と、頷かれた。
「認知と、是正か」
「第一目標は、お金だったと思いますけどね」
 それもまた、真実。
 そんな彼だから。
「死の媛は、わざとヘマをしたのかもしれません」
 昏いひらめきを、言ってみた。
「完璧な『死の媛』を、演じ切るために」
 燦国の、平定のために。
 かっこよく言えば、終焉の象徴になるために。
「総裁と死の媛は、『死ぬ』必要があった」
 いわゆる、悪役論だ。
 悪役がたおれて、空は、すっきりとした青空。
 市民は、喜んで。
 でも、燦国市民は。
「死の媛が、雨であり、天渺宮であることを、知っちゃってましたからね」
 そうはならなかった。
 市民は、歎いた。
 ここからが、雨のショウ・タイムだ。
「もしかしたら、」
 あの『生き物』は、自分が死んだ、その先に起こるであろう未来を、演出しようとしたんじゃないかしら。

 死の媛の暗躍した場所は、閉ざされた国、燦国だった。
 燦州の、伝説の少年娼婦『雨』
 嘉国の、天祥の象徴『天渺宮』
 燦国の、正義の象徴『死の媛』

「そんな自分が非業の死を遂げた後、平穏と自由を取り戻そうと、市民が様々な思いで『動く』。燦国の、彼の悲劇を知る人を中心に、それが嘉国へと『広がる』。そして、それは『確立』される」
 それは、瑠璃忌という行事が『作られる』未来。
 雨、天渺宮、死の媛。
 三者で作り上げた、平和への希求。
 そして、折りしも。
「大戦が勃発した」
 一九三九年、獨逸ドイツ波蘭ポーランドに侵攻。
 火種は太平洋に引火し、世界は、火の海となった。
 永世中立国を掲げていた嘉国は、
 国を、守れ!
「燦国を、思い起こせ!」
 女王陛下が、そう、民衆を奮い立たせた。
 ルリちゃんを、お腹に抱えながら。
 市民総動員で、国を防衛した。
 世界中で、筆舌に尽くし難いような悲劇が繰り返された中、孤立した嘉国も、無血、とまではいかなかったけど。
 戦争は、しなかった。

 どうか、火種が燻らないといい。
「もしかして、大戦まで雨が先読みしてたんなら、ほんとうに、化け物だけど、」
 さすがに、それは、ないか。
 笑うと、女王陛下は逆に、「あり得る」とおっしゃった。
「あとあと、知ったのだが」
 燦国は、獨逸から武器の供与を受けていた。
「え、」
 初耳だった。
 あの、国境封鎖下で?
 獨逸から?
 めちゃめちゃ、孤立してたと思うけど?
「燦国の、空相の執務室から、そういった資料が出てきている」
 そ、そうなんだ。
「だから、中枢にいた死の媛が、情勢を知っていても、何の不思議もない」
 待てよ。
 だとしたら。
「とんでもない、ですね」 
「とんでもなかったのかも、しれないな」
 雨らしい。
 二人で、笑った。

 馬車は、市街地へと入った。
 さすが、十月二十三日。
 宵花祭の宵。
 街中、どこもかしこもが、華やかだ。
 雑踏の賑やかさが、車内に新しい音楽を添える。まるで、ジャズのようだ。
 生きている人たちの織りなす、生きた音。
「陛下は、将来なりたかったものって、何か、おありだったんですか?」
 国王に対して随分な愚問だったが、先生は、なんとなく聞いてみたくなった。陛下の、生きた音。
 雨は、薬学博士になろうとした。
「考えたこともない、と、言いたいところだが、」
 少し間をおいてから、くるりとした鳶色の双眸が、美柃ちゃんをじっくりとご覧になる。
「美柃や、絢のようになりたかった」
 非常に、らしいお答えでした。
「だから、パラシュート降下も練習したし、」
 へ?
「先生ぐらいなら、軽く倒せる」
 怖いことをおっしゃらないでください。

 まもなく、料亭すずねに到着します。
「そういえば、」
 ルリちゃんを抱きあげながら、女王陛下が、こちらを覗き込んでくる。
「先ほどの、先生の養子とは、孤児か?」
 二人の養子がいると、先程、言っていただろう?
「そうですよ」
 その話ね。
「あとでお見せしようかな、と思って居りました」
 懐から、一葉の寫眞を取り出す。
 なんとなくね。
 子どもの寫眞って、あると持ち歩きたくなっちゃうもので。
「ちょっと前のものですが、」
 陛下が、それをご覧になる。
「男の子二人、か」
 意外と、大きいんだな。
 そうなんです。
「上の子は、次の春から夜学生ですよ」
 緊張した面持ちで写し出された、もじゃもじゃ頭と、丸眼鏡。
 僕の、子ども。
 かわいいでしょう?

つよきと、まどかです」

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