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「自分ゴト化」のちから

2019年もあと一週間くらいで終わってしまう。となると、必然的に2020年がやってくるわけで、ついに大学卒業も間近に迫ってきた今日この頃である。今年は例年と比べて、特段にあっという間に時が過ぎた。

全力で前だけ向いて走って、走って、途中で障害物がいくつもあって、それでも、闇雲に突っ走って、ふと後ろを振り返ってみたらもう年越しだったのだ。

2019年で約半年もの間、つまり多くのウェイトを占めていたものは「就職活動」だった。山あり谷ありだったが、私の23年間の人生の中で、経験してよかったランキング上位に位置するくらい濃い時間だった。なのでこれから就活をする人には、そんなに気張らなくていいよ、と伝えたい。

自分の就活を振り返ると、自分の気持ちをもっとも惨めにさせていたのは、他の誰でもない「自分」自身だったから、おそらく、何かを選択する局面に陥ったとき、最後の頼みの綱というものも結局「自分」なのだ、と深く感じたものだ。

そう。今年は「就職活動&それにあたって迎える大学卒業」というわりとビックな人生の節目にぶち当たることで、「自分」について本当によく考えた年だった。

最近ようやく卒論の目処がついて、ゆっくりまったり読書に費やす時間が増えた。幸せである。その中でも、友人が薦めてくれた本が、私の中でクリティカルヒットを飛ばした。彼には、大声でありがとうと伝えたい。その本とは、ブレイディみかこさんの『ぼくはイエローで、ホワイトで、ちょっとブルー』である。

この本は、ブレイディみかこさん(以下著者)が、自身の息子さんを中心に添えたエッセイだ。息子さんは母親が日本人で、父親がイギリス人の男の子。中学生になった彼が見るイギリス社会の風景を、著者がキレ良い言葉で表現している。

読み進めながら、この息子さんは非常に頭が良くて、何度も「え?そんなことを考えて表現できるのすごくね?良いこと言うなァ」と思ってしまったし、その息子さんを、”息子”というよりも”息子”という属性を持つ、1人の人格を持った”人”として対している著者のみかこさんにも、すげえと思ってしまった。

要は、内容がめちゃくちゃに良かったわけだが、私はこの本を読むことで、図らずとも就職活動をしていた時並みに「自分」自身のことについて、そして「自分」を取り巻く社会について考えさせられる時間を持つことになったのである。

私が、この本のキーワードを挙げるとしたら。それはこの三つだ。

①アイデンティティー
②エンパシー
③ハーフ・アンド・ハーフ

ある日。著者は、息子さんの通う学校の校長と”アイデンティティ”について話す機会があった。そしてその話をまとめた著者の見解は印象的だった。

「僕はイングリッシュで、ブリティッシュで、ヨーロピアンです。複数のアイデンティティを持っています。どれか一つということではない。それなら全部書けと言われるなら、『イングリッシュ&ブリティッシュ&ヨーロピアン・ヴァリュー』とでもしますか。長くてしょうがないですけど」と校長は笑いながら言った。
無理やりどれか一つを選べという風潮が、ここ数年、なんだが強くなっていますが、それは物事を悪くしているとしか僕には見えません

著者は、ここで「どれか一つを選べとか、そのうちのどれを名乗ったかでやたら揉めたりする世の中になってきたのは確か」とした上で「分断とは、そのどれか一つを他者の身にまとわせ、自分の方が上にいるのだと思えるアイデンティティを選んで見にまとうときに起こるものなのかもしれない」と示した。

また、ある日。息子さんの試験の話題になり、「エンパシー」について触れられているシーンがあった。著者によると、エンパシーとは以下のような意味を持つ。

「他人の感情や経験などを理解する能力」
「自分がその人の立場だったらどうだろうと想像することによって
 誰かの感情や経験を分かち合う能力」

息子さんは、このエンパシーを「自分で誰かの靴を履いてみること」と表現して見せた。鮮やかだ。著者は「EU離脱派と残留派、移民と英国人、様々なレイヤーの移民どうし、階級の上下、貧富の差、高齢者と若年層などのありとあらゆる分断と対立が深刻化している英国で、11歳の子どもたちがエンパシーについて学んでいるということは特筆に値する」とまとめている。

また、ある日。著者が、息子さんと一緒に故郷の福岡に帰省したときの出来事。息子さんとブレイディみかこさんは「ハーフ」という言葉について話し合っていた。

・・・
わたしは一応、日本でもそれはPC(ポリティカル・コレクトネス)的に問題視されていることを言っておかなければと思った。
「でもね、最近は、『ダブル』って言う人が増えてるみたい。『ハーフ』じゃなくて、『ダブル』」
・・・
「それもなんか、僕は違和感がある。半分ってのはひどいけど、いきなり2倍にならなくてもいいじゃん。『ハーフ・アンド・ハーフ』でいいんじゃない?半分と半分を足したら、みんなと同じ『1』になるでしょ

また、彼は『ハーフ』や『ダブル』のような括りがあると、どちらにしてもみんなと違うものになってしまう、と指摘していた。

正直、この3つのキーワードに、私はグッと来ずにはいられなかった。本当に本当に私の心にずっしりと響いたのだ。よくぞ、このように、コトバとして表現してくれたものだと思う。私は心の中で、そっと涙を流した。

この本を読んで、私の頭の中によぎったものは、冒頭でも述べたように、私が持つアイデンティティーと、それを取り巻く日本社会についてだった。

この本の表現に沿っていえば、私は「ジャパニーズ&コリアン&アジアン」なのだろう。ここにウーマンやスチューデントといったものも追加できるかもしれない。私というひとりの人間ですら様々なアイデンティティーを持つ。

また、私がもっとも信頼を置く友人のひとりに、両親共に日本人だが、母親がイギリス育ちで、友人自身も多くの時間をイギリスで過ごした人がいる。彼女の立ち振る舞いや、思考、発言力は、やはり日本人のそれとは異なっていてイギリスの教育を受けてきたとわかるし、彼女自身も、自分のアイデンティティーはどちらかというと日本よりもイギリスの方が強いと言っていた。

つまり、血統や国籍は、アイデンティティーの一部にはなり得るかもしれないが、まったくもって”全て”ではないのだ。加えて、私のアイデンティティーはオンリーワンです!と言える人は、おそらくあまりいない。なぜなら人は、複数のレイヤー(年齢・性別・立場・国籍・人種等)に属した状態で社会に存在しているからだ。

私は、自分が複数のレイヤーに属し、複数のアイデンティティーを持っていると自覚すればするほど「エンパシー」を実践できるのではないかと考えている。なぜなら、自分以外の日本人・韓国人・女性・学生などなど、同じ属性を持つ、別の人と自分のすりあわせが多少なりとも容易になるためだ。

「自分で誰かの靴を履いてみること」は、自分の靴の形・色など、自分の靴の特徴自体が理解できていないと、履いてみたところで、理解はその半分以下にとどまるのではないかと思う。単純に比較対象がないと、具体的な実感がわかないからだ。履いてみても何となくふ〜んと他人事に感じてしまう確率の方が高いはずだ。

不思議なことに、就活中に、「自分」についての考えを深めれば深めるほど、ニュースを見ても、本を読んでも、映画を見ても、人と話しても、共感力が増してスルスルと内容が頭に入っていったし、その内容を吸収した分、じゃあ自分はどんな行動に出るべきなのか、と冷静に考えることもできた。これは、周りで起きている物事を他人事ではなく、「自分ゴト化」して咀嚼したためだと思う。

私は、3歳半まで韓国で生まれ育ち、日本で小学校を通い、中学生から高校生の間にまた韓国へ戻り、日本で大学を通うといった、日本と韓国をそれぞれ11年ほど、行ったり来たりする人生を送った。おまけに中学・高校時代は完全なる寮生活ライフを過ごした。思春期の多感な時期にプライベートスペースが全くない4人部屋で共同生活をしていた。この経歴は、おそらく「普通」とは少しずれていると思う。

大学に通うため日本に帰国して、自分は余計に日本の中での「普通」に当てはまらない部分が多いと感じていたし、これが「普通」とか、これが「スタンダード」とか、あなたはなんか雰囲気が違うよね、といった言葉に辟易していた。そう言った言葉をかけてくる人は、大体私を構成する要素を一つに限定して選んで、私を「〇〇キャラ」みたいなものに仕立てて考えていたような気がする。

でも、私はこれに違和感を感じずにはいられなかった。だって、私はもともと一つの要素で構成されていないもの。きっと、選ばれなかった私の要素たちを何だか蔑ろにされている気分になって、それがすごく悲しかったのだ。

また、私の中に存在する特定の要素を攻撃される瞬間に出くわすと自分の想像以上に、私の「心」がダメージを受けると言うことに気が付いた。日本での韓国に対するヘイトスピーチ、韓国での日本に対するヘイトスピーチ然りである。新大久保や霞ヶ関付近で、極右団体のデモに出くわすと、私の韓国の要素がブルブルと震えるし、韓国で植民地時代の歴史を習ったとき、反日の映画を見たとき、私の日本の要素がブルブルと震えた。魂が泣くように、存在を否定されたような感覚がして、何だかそこに、私がいてはいけないような気持ちになるのだ。

ブレイディみかこさんの息子さんは、「ハーフ・アンド・ハーフ」だと、みんなと同じ「1」になるという。私は、この言葉にどれだけ救われたかわからない。確かに、私は半分でも、2倍の存在でもなく、みんなと同じ「1」でありたいのだ。一つの本を読んで、ここまで多くのことを回顧してしまう経験はなかなかない。それくらい、考えさせられたし、感じさせられたし、インパクトが強い本だった。

繰り返すけれど、世の中の人、誰だって、複数のアイデンティティーを持ち得ていると思う。それは、きっと自分ではない他の誰かへの理解につながる一つ一つの小さくて大切な要素たちだ。何か問題が起きた時、理解ができない意見に遭遇した時、その要素たちをフル活用して「自分ゴト化」して考えていくことで、きっと世の中で起きている問題や差別や偏見の見え方は、違ったものになる。私は、これからももっと自分を突き詰めて考えていきたいし、周りの人に対しても、一つの要素だけ論って判断することは絶対にしたくない。

最後に。就職活動を終えて、内定先のリクルーターが「あなたの最大の強みは物事や他の人の経験を”自分ゴト化して考えることができる力”だと私は思っています。その力は、きっとヒューマンリソースを仕事にする人にとって、もの凄い武器になるし、多くの人を助けることができる」と言ってくれたことが、今も強く私の頭に響いている。

自分ゴト化する力を自分を奮い立たせるための道具としてだけ用いるのではなく、その力で多くの人に寄り添えるような人になること。これが、おそらく大学を卒業してから、まずはじめに取り組む大きな目標になりそうだ。











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