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消費社会に負けた

10年間使ってきた包丁を失った。

なぜだか全くわからない。毎日使うのに、ある日気づいたら所定の位置にないのだ。
もしかすると、何かの拍子に、シンクの真横のゴミ箱に落ちてしまったのか、あるいは無意識のうちにどこかに置いてしまったのか。
狭いワンルームでもものが無くなるのだから、不思議なものだ。

以前、家の鍵がなくなったと騒いでいたら、冷凍庫でひえひえにしていた実績のある私なので、もしかしたらどこかにあるかもと思い毎日探している。でもまだ見つからない。

10年使ったが、元は実家にあったのをもらってきた包丁だったので20年くらい使われてきたのかもしれない。普段は特に何も感じないし、切れ味も微妙、切先も欠けていると嘆くこともあったが、急に手元からなくなると非常に寂しい。

10年以上使い込んできたものが他にあるだろうかと思い返したが、包丁以外にはテーブルくらいしか見当たらなかった。通算10年は一緒でも、包丁ほどに毎日使っていたものはない。

考えてみると、私の身の回りのモノたちはここ10年でごっそり変わってしまった。服、パソコン、カバン、財布、いろんなものを新調してしまった。使えなくなってしまったものを、新しいモノに替えてきた。
逆に、すぐに新調できるようなものしか買ってこなかったとも言える。

買った瞬間に使い捨てることが当たり前になってしまっていた、と気づくと、とても悲しい気持ちになった。

身の回りには、長持ちしないことを前提に生み出されたもの、あえて長持ちしないものが溢れている。
例えばスーツケースのキャスター。この部品、一見すると自分で修理できそうだが、実は違う。その多くについて、ホイールを固定する金具が六角レンチなどでは外せないし、一度壊れるとスーツケースごと買い換えなければならないようになっている。

パソコンのバッテリーの寿命を何倍にも引き伸ばす技術が開発されても、実用化がどれだけ身近にやってくるだろうか。おそらくすぐには体感できない。一度導入されれば、次のバッテリーが売れなくなるからだ。

その他にも、「耐用年数」が記載された家電などの商品は星の数ほどある。大事に使えばもっと長持ちするはずではあるが、「大体そのくらいの期間使っていれば壊れる」ように設計されたものが多い。
この矢継ぎ早に消費を促すシステムに限界が訪れているとする警告を、幾度となく目にしてきたが、自分が壊れゆくもの/壊れて新調されるべきモノとともにあることに愕然とした。

私の指を何度となく切ってきた、あの不恰好な包丁が恋しい。だが、無くなってしまったものは仕方がない。もう少し探してみるが、それでもダメならこれを機に、次は30年使える包丁を選ぼうとするのである。

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