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【短編】アネモネの手紙

 校門の前まで着くと、スクールバッグから手紙を取り出す。何を考えているのか、数秒間見つめるとまたバッグに戻し、中へ入って行く女子がいた。
 彼女の名は"文乃(ふみの)"、高校三年生。容姿端麗、その上気配り上手で男女関係なく誰に対しても親切。そんな彼女にはそこそこファンというものがついており、その内の一人であるクラスメイトの女子"憧(しょう)"は、こっそりと遠くから彼女の様子を眺めていた。
 迷惑だけはかけたくないので、つきまとい等の行為はしないよう気をつけているが、たまに見かけた時はこうしてこっそりと木の裏に隠れて覗いていたりする。怪しい行動には変わりないが、話しかける勇気等持ち合わせていない。
 だからこそずっと気になっていた事があった。自分の憧れでもある文乃は、毎日ああして時々手紙を取り出しては見つめているのだ。あれは一体誰への手紙なのだろうかと、または誰かに貰った物なのか……憧には全くわからない。しかし憧はこの日、手紙の中身を知る事になる。

 教室移動の時、憧は筆記用具を忘れ慌てて教室に取りに戻ってきた。たまたまドアが開いていたので中の様子が見えると、つい足をピタリと止めてしまう。生徒達の殆どはもう移動しており、教室には文乃だけが残っていた。急いで移動しなくてはならないのに、文乃はまたあの手紙を見つめていた。
 数秒後、文乃は手紙を机の中に戻した後、筆記用具や教科書を持ってこちらに向かってきた。憧は覗いていた事がバレないように慌ててドアから離れると、文乃は憧に気づかなかったようで、足を止めずそのまま去っていった。
 してはいけない事だとわかっている。だが、気になり過ぎて抑えられなかったのだ。ドクリ、ドクリ、と心臓が徐々に高鳴っていくのを感じながら、一歩一歩教室に足を踏み入れる。いつの間にやら手にはじとりと嫌な汗が滲んできて、指先がびくびくと震えて落ち着きがない。
 自分の席までやってきた。ここで選択は二つ、一つは筆記用具をさっさと取り出し教室を出る事。もう一つは──
「……ごめんなさい」
 憧の足はここで止まらなかった。向かう先は文乃の席、目的はただ一つ……彼女の手紙だった。机の中に左手を差し入れようとするが、痛い程の心臓の高鳴りと手汗に動きが遅くなる。中に差し入れようとする手がピタリと止まり、脳内で最後の選択が迫られた。
 やはりここで止めておくべきか、今ならまだ間に合うのだからと心が揺らぐが、好奇心には勝てずに手を差し入れた。ゆっくりと中を手探りで探す、あまり時間は残されていないので急がなくてはならないが、中を荒らしてはいけない。急いで、けれども中の物を乱さないように気をつける。
……一番上の教科書の上に、あった。ドクンと心臓が大きく高鳴り恐る恐る取り出す、間違いなくそれは文乃が時々見つめる手紙だった。見たところ、どこにでも売っていそうなイラスト付きの封筒だ。イラストとシールはアネモネがデザイン。封筒に描かれているアネモネの色は青、紫、白の三つ、シールは青色だった。宛先は書いていない。
 何回か開けられているようで、シールはするりと剥がれやすくなっていた。中に入っている一つ折りの便箋を摘み、ゆっくりと取り出して開くとそこには……。


「……え、」
 何も書かれていなかった。

 ***

──始まりは文房具屋でそれを見かけた時だった。文乃は消しゴムが小さくなってしまったので新しく買いに来たのだが、沢山揃えられたレターセットのコーナーを見かけて興味が出た。
 その中でも気に入ったのはアネモネのイラストが描かれた物、"そういえば、ウチにはレターセットなんて無かったな。"と思った文乃は、特に何も考えずそのレターセットを購入した。消しやすいいつもの消しゴムも手に入り帰宅した文乃は、折角素敵なレターセットも買えたし何か書きたくなったので、早速勉強机に行き椅子に座る。
 袋から封筒と便箋、それからシールを取り出すとボールペンを手に持った。いざ書こうと便箋に目とボールペンを向けたところで……文乃は肝心な事に気づく。
(これは、誰宛てに書く物なんだろう?)
 素敵なレターセットで手紙を書きたいという事に意識が集中していたせいで、肝心の宛先を考えていなかったのだ。そもそも、この手紙は何の手紙なのか、ラブレターなのか、または普通に友人への手紙なのか……。現在文乃には恋情を抱く相手はいないし、手紙にしてまで何かを伝えたい友人もいない。
……結局、便箋にボールペンを向けたまま何分も固まっていた。便箋は真っ白のままだが、文乃はとりあえず一つ折りにし、封筒に入れた後にシールを張り付けた。
 文乃はいつも手紙を持ち歩いている。丁寧に封筒に入れられた便箋には、文字一つ書かれていない。しかし文乃にとっては、誰かへ捧げる大切な手紙だった。
 まだその相手はいない。この手紙は愛する誰かへのラブレターかもしれないし、大切な友人への手紙なのかもしれない。そのどちらも文乃はまだ出会えてはいない。恋人も作った事はないし、友人はそこそこいるが手紙を書く程仲がいい相手はいない。
 そのような相手は一体いつ出会えるのか、文乃自身にもわからない。もしかすると、一生出会えないのかもしれない。

 ***

 下校時間、生徒達は早々に帰る者もいれば部活動に励む者もいる。どの部活にも興味が持てなかった文乃は帰宅部、帰り支度も済み、靴を履いて昇降口を出ると人気のない花壇の方へ移動する。バッグからまた手紙を出すと、たまたま強い風が吹いて手から吹き飛ばされてしまう。「あ、」と声が漏れ、靡く髪を片手で押さえながらその様子を眺めた。
 遠くへ飛ばされず近くの草の上に落ちた手紙は、偶然近くに居た男子生徒に拾われる。男子生徒は花壇の花に水を与えていたらしく、右手にはジョウロを持っていた。左手で手紙を拾ったまま見つめていると、文乃が駆け寄ってくるのに気づいた男子生徒は、「これ、お前の?」と文乃に手渡す。
「宛先書いてないよ、もし誰かに渡すなら書いとけば」
 "初対面で余計なお節介かもしれないけど、"と言えば、またすぐに花に水を与える。花壇に咲く白いアネモネは柔らかい風にふよふよと揺れていて心地よさそうに見えた。文乃は暫く男子生徒の横顔を見つめては何かを考えている様子だった。
 お辞儀をしながら感謝を伝えた文乃は、その場を立ち去る前に名を名乗り、男子生徒の名前も聞いた。
──その日の夜、文乃は勉強机の前で立っていた。右手には男子生徒に拾われた手紙、数分間それを見つめながら何かを考える。
 文乃の脳内には男子生徒の姿が浮かんでいた。文乃も整った顔立ちをしているが、彼もなかなか整った顔立ちをしていた。容姿も良いが雰囲気も落ち着いており、風に靡く花と共に花壇の前で立つ姿も絵になっていた。文乃はなんとなく、もっと彼と話してみたいと思っていた。
 彼はどんな人なのだろうか……初めて会ったので、当然まだ花の世話をしている彼の事しか知らない。花が好きなのか、いや、ただの手伝いか何かでやらされていただけなのかもしれない。趣味はなんだろうか、苦手なものはなんだろう? 何年生なのか、部活はしているのか……。
 想像だけが膨らんでいく……この時、文乃は確かに彼に対して興味があった。もしかすると、彼こそが"誰かへ捧げる大切な手紙の宛先"なのかもしれないと密かに期待する。
 文乃はゆっくりと椅子を引き座った。封筒から便箋を取り出し、ボールペンを持つと机の上に広げた真っ白なそこに向ける。文乃は目を閉じ、一度ゆっくりと息を吸って、なるべく長く吐いた。

 数日後、文乃はいつも通り登校すると、昇降口にあの男子生徒が上履きに履き替えている姿が見えた。文乃は一瞬歩く足を止めるが、気にせず昇降口に入って自分の上履きに履き替える。廊下で他の男子と会話している彼の横を通り過ぎると、そのまま教室に向かってしまった。
 教室に入ると文乃は自分の席に座る。その数分後憧も教室へやってくると、自分の席に座りながらちらりと文乃を見た。
(あの手紙、まだ持ってるのかな。)
 あの日の翌日から、文乃は手紙を見つめる回数が減ったのだ。あれほど頻繁に取り出していた手紙を見かけなくなると気になって仕方がなく、心の中では"やめておけ"とブレーキをかけているが、あの手紙が現在どうなっているのかまた好奇心がふつふつと湧いてくる。
 それに、文乃が手紙を見なくなった時期が、丁度憧が手紙の中身を盗み見したあの日からという事もあり、自分が原因である可能性もある。もし気づいていなければ、未だに手紙を持ち歩いているだろう。
 文乃は手紙を常に持ち歩いているが、教室移動の時だけは必ずバッグの中か机の中に置いてきている。確認するなら教室移動の時だ。憧は"これで最後にしよう"と心の中で自分に言い聞かせ、生唾を飲み込んだ。
……教室移動の授業になり、生徒達が教室に居なくなったのを確認すると、憧はゆっくりと席から立ち上がる。周りを警戒しながら文乃の席へ向かう度に、数日前のように心臓が高鳴ってくる。両手は手汗でじとりとしており、文乃の私物を汚さないか内心不安になった。
 あの時と同じように、まず机の中に手を差し込んだ。ゆっくりと中を荒らさないよう気をつけて探る……どうやら手紙は入っていないらしい。本当はここでやめておくべきなのだろうが、このまま知らずに後悔する方が辛いと思い、次はスクールバッグを探る事にした。
 人の物を勝手に触って中身を探る等、人として最低だと自覚している。しかし好奇心は止まらなく、憧は人としてのマナーを無視する事を選んでしまった。バッグは机の上に置いてあり、ファスナーをゆっくりと開いた。
(……あった!)
 あの時と同じアネモネの絵が描かれた封筒、思わず憧は見つけた途端すぐに掴んで取り出してしまった。後になって、"もう少し丁寧に取り出せばよかった"と我に返り、慌てて傷でも付いていないか確認する。見たところ傷や折れてしまった跡はなかったのでホッとする。
 宛先は書いていない……あの時と同じ。では肝心の中身はどうだろうか? 憧は心のどこかで、便箋に何か書かれていないか期待する。憧れの人がどんな特定の人物に手紙をしたためているのだろうかと、興味を抱く。
 授業が始まるまで後少し、そろそろ教室を出て行かなければならない。時間が無い中、憧は封筒から便箋を摘み取り出し、中身を見た。
……便箋には、やはり何も書かれていなかった。


 下校時間、文乃は靴を履いて昇降口を出ると、人気のない花壇の方へ移動する。そしていつものようにバッグから手紙を出すと、数秒間何かを考えながらジッと見つめる。
 文乃はいつも手紙を持ち歩いている。丁寧に封筒に入れられた便箋には、文字一つ書かれていない。しかし文乃にとっては、誰かへ捧げる大切な手紙だった。
 何度か宛先を書こうかと迷った相手はいたが、どの相手も手紙を書く程の相手までにはならなかった。いつも気持ちが昂るところまではいき、いざ便箋を広げて目とボールペンを向けると、途端に気持ちが冷めてしまう……けれど諦めない。
──自分にとって、手紙を書く程の相手が現れる事を、いつか現れる"未来のアナタを信じて待つ"。これは文乃の固い誓いだった。

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