見出し画像

【短編/ホラー】紫雲英

 何が何だかわからずに、男は人生で一番の激痛だと感じながら青い空をただ眺めていた。頭を動かせばさらに痛いと予想できたので目だけを動かすと、近くに自分を轢いたと思われる車が見えた。自分の周りからはざわざわと何人かの声が聞こえてくる。
 突然の事故だった。会社に出勤するため駅に向かい横断歩道を渡っていた時に、信号無視した車が自分を轢いてきたのだ。地に足が付かず空中を舞う不思議な気持ちになりながら、過去の記憶や思い出等が走馬燈の様によぎる。
 母子家庭だった小学生時代、父親についての作文で周りのクラスメイトから揶揄われ母に八つ当たりで暴言を吐き、母が苦笑いを浮かべてごめんねと謝ってきて申し訳なくなり自分も泣いて謝った事。
 高校生時代、母が倒れて医師に診てもらえば重い病気だとわかり何年も入院し、高校卒業後に亡くなり泣いた事。就職後楽しみもなくただ会社に行き働いて帰ってきては寝ての繰り返しの人生だった。
 目線を車から再び空へ向ける。人生で一番の激痛だと感じていた体から段々と痛みが引いていく──というより、体から自分の意思が抜けていく様な感覚。きっとこれが死ぬ直前で、体から魂が抜けていく感覚なのだろう。
 眺めていた空は、真っ青と白から完全に青色が抜けて真っ白になっていく……。


 最後の記憶はそこまで、気が付けば自分が亡くなったであろう横断歩道の真ん中に男は立っていた。空はすっかり紫がかった暗い灰色に染まり、霊体でも温度は感じるらしく生暖かい風が吹いている。男の姿が見えていない車は彼の体を突っ切り、肉体のない体は車にぶつかり飛ばされる事もなく、走り去った後の風を感じるだけだった。
 自分が倒れていた場所には誰一人いなく、あれから数日経ったかどうかもわからない。男は自分が死んだ事も理解しているし、母は何年も前に亡くなっているのでこの世に未練も無い。自分が死んだ事を受け入れているため地縛霊ではないから、この場所から移動する事もできる。
 男は次の生のためにあの世へ行く方法を探す。自分が今何をするべきかを考えた結果、それしか見つからなかったからだ。横断歩道の近くをうろついても何もなさそうだと思った男はその場を去ろうと後ろを振り返ると……いつからいたのか、黒いローブを着た者がそこにいた。
 男はすぐにこの世の者ではないと感じ取り少し怖くなり一歩後ろに下がるが、ローブの者は無言で男に頭を下げてきた後に「すまない」と謝罪してきた。相手の予想外の行動に困惑する男だが、とりあえず「どうしたんですか?」と聞く事にした。
 ローブの者は無気力に顔を上げた後に深く溜め息をつき、男に事情を説明する。
「こちらの手違いでな……お前を連れて行く事ができなくなった。」
「え?」
 “連れて行く事ができない”というのはつまり、男が行こうとしている“あの世”の事だろうか? もしそうなら、このままでは行く宛てもなく町を彷徨い続ける事になる。
 人間と幽霊は違う……。今はまだ問題なくとも、何もする事なくこの世に留まり続ければその内精神崩壊するのではないのかと自分で心配になる。ローブの者は次にこう言った。
「お前が次の生に行けるようになるのに、何年かかかる。」
 どうやらこの世に留まるという予想は当たっていたらしいが、永遠ではないらしい。男は内心ホッとしたが、できれば他人に迷惑だけはかけたくない。男は自分がその内気が狂って悪霊にはならないか、何年か待っている間自分は何処で待機していれば良いのか、二つの質問をローブの者にしてみる。
 ローブの者は二つの質問に対し、順番に答えてくれた。まず一つ目は、何年もこの世に留まっても悪霊にはならない事、悪霊になるには何かしらの理由がある。この世に何か未練や恨み等があった場合は危険だが、男の場合はこの世に未練や恨み等がない。強いて言うなら、この世に留まっている悪霊に攻撃される可能性はあるから気をつけろとの事……。
 二つ目は、何年か待っている間自由に過ごしてて良いとの事、生者に悪戯したり迷惑をかけないように、また、悪霊を見かけたら自分の身のためにも近寄らないようにすれば何をしててもかまわないらしい。
 説明を終えたローブの者は持っていた黒い鞄からゴソゴソと何かを取り出し、それを男に差し出した。
「お前が次の生を受けられるまで二・三年はかかる。三年くらい経ってもしこの世に飽きたら、これを握り締めながら天に向かい“     ”と唱えてくれ、また私がお前を迎えに来る。」
 差し出されたのはペンダントだった。男は宝石に詳しくないのでわからないが、このペンダントに使われている宝石はアンモライト、アンモライトの宝石言葉には“過去を手放す”という意味も込められているので、過去の自分を手放し次の生を受ける……というところか。
 ローブの者は一通りの説明を終えると、踵を返して歩き出す。何歩か歩けばスゥッと透明になりその姿は見えなくなった。

──それから男は何日か、特に目的もなく町を見てまわった。霊体というのは面白いもので、車が体にぶつからなかった時もそうだが、基本壁や床を通り抜けらえる。
 全く触れないというわけではなく、触りたいと念じてみたら案外触れたり、ドアだって開け閉めしてみたり物を持ち上げたりもできる。これがポルターガイスト現象と呼ばれるものか……まさか、自分がそれを起こす側になるとは男も思わなかっただろう。
 物を通り抜けられたり触れたりするだけでなく、生きている人間の前に現れたりする事もできる。ただ、流石にこれはかなりの力を使うらしく、生者の前に姿を現した後の数日間は体がふらついた。全身から力が抜けて、まるで自分の体が空気になったのかのような不思議な感覚がした。
 生者の前に現れる時は大体決めている。道に迷った人がいたら姿を現し道を案内、何か探し物をしている人がいたら一緒に探した。男は人がいいので、困っている人がいればなるべく助けていた……と言えばいい感じに聞こえるが、実はただ暇なだけだったりする。
 そして最近発見した事、人形やぬいぐるみには魂が宿るとよく言うが……どうやらそれは本当らしく、男は今暇潰しに近くに建っていた玩具屋に入り、可愛らしい人形の中に入ってみた。この店に来る前に、試しに家具、本、服、電化製品、玩具等転々といろんな物に入ってみたのだが、一番しっくりときたのは人形だった。
 案外居心地が良かった男はその内うとうとしてしまい、少し眠りについてしまった。幽霊にも睡眠欲はあるらしい。
「おかーさん、りりこれほしっ」 
 男が人形の中で眠っている間、一人の四歳くらいの少女が箱に入った人形を両手で持ち、パタパタと両親の元へ持って行った。その箱に入った人形はまさに男が入り込んだ物なのだが、男は眠っていて全く気づかない。
 母親は「それで良いの?」と少女の頭をそっと撫でながら聞く、玩具屋に来ているのだから買いにここへ来たのだ。欲しい物を一つだけ選んでくるようにでも言ったのだろう……。男は眠っている間にこの少女に購入された。

ここから先は

5,538字

¥ 500

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?