誰のために生きるのか?
はじめまして、またはこんにちは。
現在休職中の凜です。
今回のテーマはタイトル通り。
誰のために生きるのか?
めちゃくちゃ壮大なソクラテスもびっくり哲学のお時間?と思われるかもしれませんがご安心を。これはアダルトチルドレンで生きるのに四苦八苦しているわたしがわたしなりに考えていることの綴り書きです。
誰のために生きるのか。
さてなかなか難しいテーマですよね。
みんな、誰のために、なんのために生きてるんでしょう。そもそも人生とは?って感じなんだけど。まず私の考えでは、産まれてくること自体がたまたま、偶然でしかなくて、親の勝手で産まれてしまうだけ。言い方は悪いけど、生まれてきたくて生まれてきたわけじゃないんだよね。
だからきっと本当は生きてるだけで十分で、それ以上でもそれ以下でもない。それだけのことなんだろうけど、私たちは人間だから色んなことを考えてしまうし、何かの役に立たなくちゃとか、何かのために生きなくちゃとか、誰かと一緒に生きなくちゃとか。そういうことをぐるぐるぐるぐるといっぱい思ってしまって、難しくなって生きるのが嫌になってしまう。人間ってほんと難しいしめんどくさい。
生きててよかったとか、生まれてきてよかったとか、人生に意味を見出そうとして死にたくなる。
そんな矛盾を抱える人生ってなに?
っていつも思ってました。今も思ってます。
でも前向きに変わりたくて、変わる時が来たんだと思って今これを書いています。私は正直かなり機能不全家庭で育ったのでマトモな愛情を受けずに育ってきました。親が離婚して父親と二人暮らしになってからは、なにかととにかく苦労している父親のためにいい子でいなければと必死でした。そう、悪い子になってはならない、どうしてもいい子じゃないとだめだという価値観が強すぎて、それが真綿のようにぐっと私の首を絞め続けてきました。
それに薄々気づきながらでもどうしようもないし笑 とあきらめかけていたところにきたこの不安神経症という診断によるやむをえぬ休職中。これも父親に不甲斐ない娘で申し訳ないと謝ってしまう始末。
いやどないやねん。
どんだけ私、父親のために生きてんの?
どんだけ誰かのために生きてんの?
何でそれだけ自分の人生を犠牲にしてんの?
それで何か返ってきた??
答えはシンプルにノー。
いつだって求める言葉は与えられない、そもそも最低限の愛だって貰えない。それなのになんでこんなにも尽くしているんだろう?
私の心が病む原因とも言えるここ(あくまで私の考え方の問題)をどうにかしなくちゃ変われないということで、どんなに罪悪感を抱えようと今後はあらゆる面で自身のことに自身で責任を持つから親には何も頼らないし何も期待しない、そして何も尽くさない、与えないとして生きていきます。
本当の意味での自立はここから始まるんじゃないでしょうか。
22歳、社会人1年生。
人生リスタートにはまだ遅くない。
11月1日より復職もきまっているので、改めて人生楽しんでいきたいと思います!
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