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なぜリベラルアーツサロンをやるのか?

1. 最近初心を思い出した

私はこの春くらいからリベラルアーツに関するオンラインサロン(勉強会とか読書会)をやっているのですが、私自身は専門家でも何でもなく、ただ自分が学びたくて主催しながら自分でも学ぶ場として運営しています。

(一応大学で比較文化学類という今考えるとリベラルアーツのはしりみたいな学類にいたけど、当時は全然勉強の面白味がわからなかった(笑))

そんな私が自分でnoteを書いた時に恐れ多くも「リベラルアーツとは?」って書いたことがありまして・・・

>未知の世界に一歩踏み出すチャレンジ精神はリベラルアーツを学んでいく上で大事なことの一つだとも考えています。
慣れた世界に閉じこもるのではなく、自分の殻を破って外の世界にアクセスするための手段としてリベラルアーツはある。

という感じに。詳しくはこちら
https://note.com/rinn_0208/n/n29796bcad7d4

そしてこの定義が大学で定義されているリベラルアーツの定義と似ていることを友人が発見してくれました。

>リベラルアーツとは元来、人間を良い意味で束縛から解放するための知識や、生きるための力を身につけるための手法を指します。

詳しくはこちら
https://www.obirin.ac.jp/academics/arts_sciences/what_is_liberal_arts.html

いやはやビックリしました。発見してくださった友人のとらひこさんの知識の幅広さにも。

そうなんですよね。
そもそもなぜ始めたのか、忙しい日常に紛れてつい忘れてしまいがちなんですが、初心を思い出すことが出来ました。

慣れた世界に閉じこもるのではなく、自分の殻を破って外の世界にアクセスするための手段としてリベラルアーツはある。
そして敷かれたレールの上を歩くのではなく自らの意思でレールを敷きながら歩く人が増えて欲しい(自戒込めて)

んな念いで始めたのでした。

2. 私の目指す学びの場

だから私は有名な方をゲストに呼んでセミナーをやるというよりは、教える側と教わる側がいつでも入れ替わるようなフラットな学びの場を作りたいと考えてます。

上下関係が出来てしまうと絶対的正確が出てきて「正確を言わなきゃ」と心理的安全性が損なわれたり、忖度が始まったりして、インプットに偏り自分で考える力が阻害されるためです。

教える側と教わる側がリスペクトし合い、共創関係を築くような場が理想だと考えています。そもそも教えるということは一番の学びになりますしね。

幸い私は本当に周りに恵まれていて、講師役を担当してくれるメンバーは優秀な人ばかりで、参加者の方も皆さん向上心あふれ、かつ優しい方ばかり。教育や学びに関心の高い人が多く、現役の先生や元先生もいるし、毎回質の高い学びの場を作れています。本当に感謝しかないです。

今はまだ小さく勉強会や読書会やワークショップをやっているだけですが、将来的には図書館みたいなバーとかコーチング・カウンセリング・セラピーを併設した場所を作りたいなぁ、そして誰かが外の世界へアクセスするきっかけを作ったり、自ら意思で歩き出す一歩のお手伝いをしたいなと、妄想だけは膨らんでおります。

すぐに役立つわけでもないし、お手軽に答えが見つかるわけでもない。でも、人生とは何か、生きるとは何か、本質的なことを考えるきっかけやヒントになるリベラルアーツを学ぶ時間は貴重で豊かな時間だと思っています。

そしてその豊かな時間を一人ではなくみんなで分かち合えたらもっと楽しい時間になります。

良かったらご一緒しませんか?ご興味ある方はこちらからどうぞ(^^)

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