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#他人

他人の本心とは、自分がどのようにその人を信じているかってこと

「あの人の本心がわからないわ」 なんて言う人がいるが、私は誰の本心も知ったことがない。 本心とは、そもそも誰の真実なのか。 読み取られる側の真実なのか、それとも読み取る側の真実なのか。 人はある程度、自分に嘘をついて生きる。 もし、「私は自分に嘘をつかない」 と言う人がいたら、嘘をつかないという言葉が嘘だろうと思う。 みんなから「優しいね」「良い人ね」と思われている人は、上手く生きている分、どこかに嘘がある。 みんなに同じように接したら、傷つく人ができてしまうこと

みんながみんな真実を持っている

嘘と本当は紙一重です。 どうしても、どこかの段階に矛盾が生じてしまう。 自分と他人の間。 自分と自分の間。 他人と他人の間。 みながそれぞれ真実を持っているのだから、 仕方のないことなのかもしれない。 正直に生きようと思うほど 矛盾に気がついて、 嘘に悩まされたりする。 だけど、 周りは私の真実なんかわからない。 自分の真実を信じているだけなのだから。 自分を信じることが自信。 自分が大切だと思うことを信じて生きたいです。

『自分の感受性くらい』

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ 私の好きな詩人、茨木のり子の『自分の感受性くらい』の 最後の一節。 ものすごく強い言葉だ。 ドカンと心に刺さる。 衝撃が走る。 何だろう。 「そうだよね」なんて 簡単な共感文句では済まされない重み。 茨木のり子の言葉は、 グサッと刺す鋭さがあるのだが、 そこに強制がない。 この詩を読んでいると、  自分の心の弱さにはっとする。 そして大切なことに気づかされる。 向かい合うべきは他人ではなく 自分な

心地よさが共感を生む

私が「共感なんてあると思わない」と言う時、 『共感とは何か』について自分の中で極限まで考えた結果として、 心底そう思ってることもあるし、 共感している自分がいるということを知られるのが恥ずかしいから、 あえてそんなことを言っている時がある。 「そんな寂しいこと言わないで」という人がいるが、 私からすれば、 この世のほとんどが共感ごっこだ。 共感したいなぁと思って共感している。 私はこの「ごっこ」まで共感と表すべきなのか否か分からない。 私の中で感じているこ

他者は「わたし」を投影する

私の中に、自分っていっぱいあるなぁって思うんだけど、 「自分」の数って、 私とつながりのある人の数だけあるのかもしれない。 みんながみんな、その人の思うままに私のことを見ているから、 それぞれの人の中に、私が存在しているということ。 その一人一人と話したり、目があったり、心が通ったりする時、 向こう側に映っている自分の存在を感じて、新しい自分を見る。 『自分を知るには他人を知ること』っていうから、 他人との違いを知ることによって 自分の考えや価値観を認識して