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日記:帽子で凹み、自己像を語る

コツコツコツ。ぱちりぱちり。

開けた掃き出し窓からちいさくちいさく響いてくる音。
庭に置いた皿から小鳥が皮つきの餌をついばみ、せっせとむいて食べているのだ。おそらくスズメだが、そう思って見に行くと全然違う鳥だったりもする。でもこんな時間だし多分スズメ。
皮つきのキビやアワを食べている間、彼らは妙に静かだ。しっかりと、黙々と。カニ食べてるときと一緒だ。手間かかって忙しいから余計なことは言ってられないのだ。

重くなった空とさっきから勢いを増し続けている風。気をつけないと消えてしまいそうな、生き物が彼らのときを刻む音と、そこにいる存在感だけが私を落ち着かせてくれている。私にはやさしくてかわいい音に聞こえる。
どんどん食べたらいいよ。

強風の中ポストに配達された帽子をゲットしてきた。※家の前です
「大きいサイズのおしゃれな帽子を扱っている…」とメール便のパッケージに書いてあった。
おいいいいいい。見ず知らずの配達員に頭のでかい女だとバレただろう。誰も気にしちゃいないが、やさしさを少し前に出してくれないか。

世の中の人は風が怖くないのだろうか。私は怖い。
強く長い風が吹くと、私が積み上げてどうにか形を保っていたものがすべて崩れ去ってしまう気がする。足場に根など張っていないのだ。そしてガサガサに残った私の入れ物からは、何やらよく分からないドロドロが出てきてしまう。
このドロドロは薄暗くやや緑色がかっていて、岩についた苔のような、排水溝につくぬめりのような、そんな形状をしている。
私はヘドロと認識している。そしてこの妙な鮮明さをもった感覚をヘドロ感と呼んでいる。
ヘドロ感は傷ついたとき、孤独なとき、生理や自分の性を意識したとき、鬱になってくると勝手に現実味を帯びて自分の感覚に現れる。

小学生のころにはもう存在していたこの感覚。
意識を張り巡らしていないと、自分の口や毛穴からヘドロが出てきてしまいそうで嫌だった。汗をかくと、そこにはヘドロも薄まって流れてきている気がして、取り囲む人の感覚が気になる。皮一枚開いてみたら、どこまでもただヘドロがつまっているだけなのだ、という実感がある。


今、私はヘドロ感が高まっていることに気づいた。つまりメンタル荒れ始めてるぞということ。
風と空のせいだ。あと、でかいはずの帽子が思ったより小さい。
わたし頭大きい……。うぅ…。

本当は誰かがページに飛んだときのため、自己紹介の文章でも書こうと思っていたのだけれど、このような精神状態で書く内容はどうせろくでもない。元からしょうもない紹介内容しかないのだが、さらに恨めしい感じなんかが出てしまいそうなのでやめだ、やめ。

代わりに湧き出てきたこのヘドロ感、自己認識というか体感について日記に書いておくことにした。
ちなみに、自分しかおらんやろうと思ってたこの体感、似たようなものを持っている人が世の中にはいることを最近知った。

教えてくれた同じ自助グループの方のお話。日記の絵が迫真的で、お人形のつらさが分かり過ぎる。


こちらに汚い感じはないようだし、こんなに可愛くはないんだけど、2話の擬態する過程はまさに私も踏みました、というお話。

擬態という表現をよくぞ教えてくれました、ありがとう。
そう、まさにそれ。小学校の5年生あたりから意識し始め、中学では基礎的な擬態技術を習得。高校1年の終わりあたりに、女子という人間の擬態は完全体となった。
だがそこからも細かな輪部に、誰かの複製が繰り返された。ギャル系、天然系、サバサバ系とかの属性や、飲み会、女子会、ちょっとした休憩の雑談などの環境、それぞれに応じた最適解と予想されるバージョンを用意していった。
人間たちの表情や場の空気を読み込み、自分を切り替える。

いったい私は何をやっているんだ。
自分が複数の殻をもっていて、その実は何もないことに気づいたのは大学生の頃だったか。気づいたからといって止められるわけでもなく。
だってやめたら誰もいなくなってしまうでしょ?
本当の私はただのヘドロなのだから。からっぽなのだ。


今はできるだけ身軽に生きたいと思っている。嫌われたってもう何か失うわけじゃないし、と思ってはいる。いるが、例えば親世代という弱い部門に向き合うと、自動的にいつかの誰かの複製を見せ始めていて、あとであきれて上を見上げている。
人は本当にあきれると空を仰ぐしかないのだ。

いったい私は何を書いているんだ。
明日は雨らしい。しとしと、と降る雨だといいと思っている。

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