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グレーの日、グレーの世界

魂の殺人、というらしい。妙な言い当て方を考えついたものだと思う。
魂なんていうのを担う組織はないし、どこにも見つけられない。でも、ある、と信じて人は大事に抱えていようとする。ほとんど無意識であっても。

だからそれが壊されそうになったとき、精神的ショックとか、深く傷ついた、とかいう言葉で言い表すのは激しく違うと感じるのだ。大事に覆いをかぶせて、そこにあると思っていた何かが、ボロボロになっているのを「魂」という言葉で表現されるのを、なるほど、と思った。


朝から豚肉の厚切りステーキを食べた。自分が弱々しい柔らかい生き物でいるのが嫌で、肉を食いちぎり、筋肉をつけて、攻撃的な生物になりたいと思った。なんとも衝動的な行動。どんなに鍛えようと、女性が持つ一定の脆弱性は離れていかないことは分かっているのだが。私はいまだに性という言葉を使うと内面がひきつったようになる。それらをとてもいまいましく感じながら、塩味の強い肉のかたまりを咀嚼する。

なぜ今こんなどぶの水に沈んでいるかと言えば、ひとつには障害年金の申請をするため、自覚症状の黒歴史を埋めようとしているからだ。私のそれは幼稚園までさかのぼる。
書く内容に困ってはいない。むしろそれがはっきり存在するということに動揺している。普段できるだけ直視しないように過ごしているせいなのか、一気に取り出すというのは完全にキャパオーバーなのだ。
そしてもうひとつに、ジャニーズ事務所とメディアの無責任さがちらちらと目に入るのもある。私の抱えているモヤモヤも、そろりとひっぱりだされてしまう。

今考えれば明らかにおかしいその子供を、周囲はなぜ放っておいたのかという想いが、自我の生まれた頭から沸き上がる。なぜあんなに薄っぺらく笑って、大したことない、と軽く言ってのけるのか。子供であるという流れをせき止めないで、元通りすべらせておくのが一番というように。
そしてもっと嫌なことには、”大人”になったらしい私も同じように振る舞っていることだ。あんなものは何でもなかったんです、本当に、と笑って。

私が精神科を転院した理由はいくつかあるが、一つは、性的なトラウマに対処するためだった。初診のとき、引っかかっていることを何でも言ってみてと促され、「本当に大したことじゃないですけど…」と幼い頃の性的被害について話した。話している途中「あなた、それは怖かったでしょう。つらかったでしょうね。」と言われ、反射的にそんなことはない!と猛烈に否定したくなった。同時に奥の方でジッと何かが開かれるようにも感じた。

話し終わったとき、視界はプールの底から覗くみたいにぼやけていて、収まりきらなかった水が片方ずつ流れ出た。瞬きをするともう両目共にたらたらと流れていく。マスクをじっとりと濡らすその感触が、張り付くみたいにいつまでも残っていた。

医師にも伝えなかったが、母は泣きじゃくる子供にうんざりし、怒りながら「減るもんじゃないんだから」と言った。
確かにどこにも怪我を残していないし、誰も何も見ていないのだから、それは世界と私の間の秘密でしかない。記憶を明確なことばにする力は一生持てないのだろう。


魂の被害というのは実に便利だ。外からは何も分からなくて、歪んでしまっていると気づけるのは自分だけだ。ない、と言えばなかったことにもできる。もっとつらい人がいるんから……という呪縛でそうしたことが何度あっただろう。

おもてに跡の残る暴力でも、言葉の暴力でも、性の暴力でも、魂がそれ以前とは変わってしまうという点は同じなのだろうな、と思う。
錆のようにしみついたかげりが、日によってはすべてを覆い尽くすかのように広がってくる。と思えば、星の見えるような夜にいる月みたいに、何かはおぼろげに見えても、きれいに光っているとだけ感じられる日もちゃんとある。


今日はグレーの世界で過ごす日だ。障害年金は今の私に必要だし、やりたいことをやれる日のために、今はこのグレーの重みを通り抜けなければ。
気分を軽くしてくれるのは、本を読む時間、音楽を聴く時間、誰かのnoteを通してその人と語り合った気分になれる時間。
そろそろ明るい記事を書きたいんだよなぁと妄想する。

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