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あの風を買いに行く。

わたしは車の免許を持っていない。
生まれも育ちも東京、品川。
そう、必要性を感じなかったのだ。

幼い頃は家の裏の車庫には車が止まり
習い事などにわたしを送迎してくれたが
それも自分ひとりで電車に乗れる年になるとなくなり
用途を失った我が家のトヨタは人の手に渡った。
わたしは三半規管が弱く、車酔いをするたちだったので都合がよかった。


大人になって、付き合っていた彼氏にドライブに誘われた。
正直に車酔いのことを伝えたが、「一度ドライブしてみてそれから判断して」と
強くデートの要請があったので受けることにした。
正直、ちょっと憧れていた。

当日は朝からそわそわしながら彼の迎えを待った。
ワンピースで助手席に乗り込む、可愛いね、と褒めてくれる彼。
車が滑るように発進する。
普段通りの他愛もない話をした。
彼の好きな洋楽が流れていた。

ハンドルを10時10分で握り、
まっすぐ前を見ている彼の横顔を助手席から見つめる。
顎のラインにあることを知らなかったほくろ。ちょっとセクシーだった。
あぁ、車っていいな。素直に思った。

彼の運転はとってもスムーズでわたしは人生で初めて乗り物酔いをしなかった。
それからは度々、わたしからドライブデートをねだるようになった。
もちろん、免許を持っていないわたしは運転ができないので
お礼にガソリン代やレンタカー代は出させてもらったが、
彼は運転が好きだったので、喜んでわたしをいろんなところに連れ出してくれた。
山形や熱海、2人で行った旅行先で車を借りることもあれば、
東京から長野までの長距離を運転してくれることもあった。

プールに行くときも、「その方が楽でしょ?」と車で連れて行ってくれ、
帰りに疲れた果てたわたしがうとうとしてしまっても彼は怒らなかった。

優しく揺さぶり起こされ前を見るとお台場の大観覧車が目の前だった。
びっくりしたのと綺麗なのと嬉しいのとでニコニコしながら泣いてしまった。
帰りに急に思いついて、ちょうど凛子が寝てたから連れてきちゃったよ、と
彼もニコニコしていた。彼のほうが嬉しそうだった。

わたしがゆっくり景色を楽しめるようにと
速度を少し落としてレインボーブリッヂを渡る。
先を走る車のテールランプ、遠くに見える工場夜景、光の橋を渡りながら、
この景色を一生目に焼き付けておきたいと心から願った。
浜松町の方まで降りて、今度はレインボーブリッヂの全景が見える位置に
車を停めてくれ、コーヒーを飲みながら眺めた。

そんな素敵な彼とは、このドライブの2年ほど後に
色々あって別れてしまったのだが、わたしはこの夜景を何度も何度も思い出し、
心の内で転がすようにして、大切にゆっくり溶かしてその光景を味わうのだ。

そしてふと、思う。
車、運転したいな。

必要とか、不要とかではなく、運転してみたいな。
自粛中、なんとなく習慣になっていた昼の帯番組をつける。
なんと、給付金が一律10万円支給されるというではないか。
あ、今かもしれない。免許とるなら、今なのかも。
10万円じゃ取れないけど、足しにはなるし。
想定の3分の2の自己負担で取れるわけだし。

免許取ったら、将来大切な誰かに、あのわたしの大切な光景をわけてあげたい。
そうしたら、その10万円は無限だと思う。

何回も、何回でも、意味を持つ給付金になるのだ。
わたしから分け与えられた思い出は形と色を変え他の誰かの心にも何かを残すかもしれないし、その光景がまた他の誰かに伝わるかもしれない。


わたしはそのためにあの風と、あの匂いと、あの景色を、買いに行く。

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