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人の幸せを素直に喜べなくなってしまった。だから、とりあえず関わることをやめた。そして、みつけたわたしの打開策

インスタグラム、ライン、Twitterが怖いと思ったのはいつからだろうか。

みんなのきらきらした部分しか見えない。友達に会えば、友達が偉大にみえる。「うらやましい」っていう感情。

いつから自分は人と自分の比較しかできない人間になったんだろう。小学生の頃は人の目を気にするばかり。だけど、それに対して全力で自分で抵抗人間だったのに。

いつから私は行動しない人間になったんだろう。成長したいと思っていたのに、いまはそう思わない。世界をしっていけばいくほど、自分がわかってきてこんな自分に自信がもてなくなってしまった。

もともと自分に自信がたっぷりだったわけじゃない。だけど、好奇心に純粋に生きてる子だった

好奇心に満ち溢れていた。すきなものは好き。それがわからないと気になってしょうがない。小学3年生の夏。電車に興味をもった。

私の地元では、車社会で電車に乗る必要が全くなかった。いつとも家族と移動するときは車かバイク。おかあさんのバイクの後ろに乗ってぎゅって後ろから抱き着くのが大好きだったな。

そんなとき、お父さんと牡蠣祭りにいくために乗った初めての電車。小さいころに乗ったことがあるのかもしれないけど、私の記憶の中では初めての電車。10歳。初めての電車デビュー。

周りにはいろんな人。いつも見ることのない人。見たことがある制服。いつもよりすこし上から見てそれもすごいスピードで景色がパラパラ漫画見たいに変わっていく。

そんな感覚がすごく好きだった。だから私は夏休みのある日。旅に出た。
この電車をずーっと乗っていたらどこにつくんだろう。あれもしや地球が丸いのがわかるのか?!車より電車のほうが早いから乗ってたらかえってくるかも?

そんな淡い期待をもって、貯金箱のお金、全部の財産をもって電車に乗ったかな。結局、広島から兵庫まで行ったはいいもの、わからない見たことない世界についちゃって、さみしくなっちゃって。駅員さんに助けてもらった。(笑)実に迷惑な子供だった。

そんな好奇心だけで、行動する私はいつからかどこに行ったんだろう。おとなになるにつれて。楽観的に行動することが少なくなった気がする。周りなんか気にすることなかった。気にする方法なんて知らなかった。

そんな昔のわたしが恋しくなった。

大学生になって人生の楽しみ方や、いろんな遊び方を知った、毎日がドラマのワンシーンみたいにドキドキした

東京っていうキラキラした街に恋い焦がれた19歳。本当にいろんな人と出会った。最初は大学デビュー。ごはん。男。友人。音楽。ライブ。仕事。

起業したかった時期にはセミナーや起業家に会いに行った。たくさんインターンもした。バイト先ではいい和食屋さんだったから議員さんや大手の社長さんや稼がれてる夜のおねえさんとかに人生相談したり、仕事というものがいかに繊細で、また努力や労力の塊なんだと知った。

私は大学生の遊びというより大人のあそびに、すこしだけ足を踏み入れたのかもしれない。スポーツカーでドライブしたり、そこら中のバーは結構知ってる。だってウイスキーが大好きだったから。あとは和食がすごく好きだったから友人に予約してもらってた有名店になんどもいった。海外旅行もたくさんした。普段は泊まれないような高級ホテルで1週間泊まるとか。お金をふんだん使った。

でも、そんなキラキラした生活の経験は自分との劣等感との始まりだった。私の存在。あれ、何のためにこんな毎日をおくっているんだろう

毎日本当に楽しかった。普段出会えない人と毎日たくさん出会う。その中で自分は本当にどうしたいのか。どうなりたいのか。何が好きで何が嫌いなのか。今の私の行動は今までの人生と真逆だからそんな単純な欲求を満たしているだけじゃないか。って。

でもすきなものは好き。楽しいものはすき。お金がかかることは好き。だってお金がかかるってことはそれだけ人の手がかかっているってこと。そんな人が一生懸命手をかけて作り上げたもの。それはやっぱりすき。迷っても結局はすき。そんな日常がすき。

でも、すべての経験は私の周りの人が素敵でつなげてくれている。私の周りの人は魅力的な人しか集まらいようになった。みんな素敵すぎるアクティブば人ばかり。

私の生活はなりたかったものだから、すごく楽しいから本当に満足。してるつもりだったけど、なんだかむなしさもついてくる。

”むなしさ”や”さみしさ”が”楽しさ”を上回りだした

これに気が付いたのはインスタグラムのストーリを見ていたとき。

「あぁ、うらやましい。私なんて今はインターンばっかりして・・・」

うらやましいという感情が、自分の感情と比較から生まれるようになった。というか今までは優越感で生きてきたのかもしれない。って

いろんな遊びをしている自分はなんてかっこいいし、きらきらしているんだろう。お化粧も自分のしたいようにして、好きな服もたくさんきて、好きな時間ばかりすごして、でもそれはいつも浅く広く。一つも極めたことなんてない。そんな自分がいるなんて、なんてみじめなんだ

大学生の時間が絶対かわいくて、キラキラした目を持っていて何事にも新鮮で魅力的に見えるのはわかる。恋とかセックスでは満たせない自分が自分でそのままで素敵なんだっていう気持ち。

なんだろう。一瞬の短期間の楽しさっていう感情より、自分の人生を俯瞰したときに感じる、不安感。私の人生これでいいんだっけ。このままの順調なんだっけ。みんなもっとつらいことにも立ち向かってるからこそ手に入れた世界なんじゃないんだっけ。

あれ、私っていつから主役じゃないって決めたんだ?あれ、本当にこれで幸せなか?しあわせってなんだっけ?マズロー理論や中島先生の不幸論、ショーペンハウアーの幸福論。私のすきだった欲求への勉強は自分の人生にいかせてないじゃないか。あれ。でも金曜日の夜は楽しいけど、いいのかな

そんあ漠然とした将来への不安感というか人生への不安感を感じるようになった。この感情は私が以前不登校になったときの不安感ににているようになった。高校生の時みたいに今の人生からドロップアウトしたくない。ここまで戻ってくるのはめちゃくちゃつらかったし、たくさん努力した。

だからこそ手に入れた自由。でも自由だからこそ感じる孤独感や不安感。

そんな現実から目を背けたくて、すこしでもそう感じやすい部分を遮断することに決めた。

だから、SNSをやめた。けど、やめられなかった。だってSNSってすごいんだもん。

インスタグラムやツイッター、noteをやめた。足を動かして考えた。そして、もう一度、新しくはじめた

とりあえず見ないようにした。アプリの通知を切って、投稿もみない。とりあえず大好きな美術館に足を運ぶ、一人でランチしたり、お家でお酒を楽しんだり、お茶を極めたり、勉強したりした。そこで得られる感情や見えた世界はたくさんあった。

でも情報感度が高かった私にとってそんな生活をすること以上に情報を求めてしまう傾向があること。だからはじめた。すべて一からやり直した。私のことを知らない人、そんな人とつながって自分の感情をもっともっと大事にして生きていきたいと。

自分じゃない名前でSNSを初めて自分の感情をさらけ出すようになった。そんな感情を大事に思ってくれる人はたくさんこの世の中にいる。

私の外面的要因ではなくて、文章から私を判断してくれる。そんな暖かいこえに少しずつ心が浄化されるようになった。

そこで私は学んだ。自分で抱えきれなくなった感情は、自分では上手に消化できないこともたくさんあるんだってこと。そんなときは誰かに頼ってもいい。それが現実世界でなくても、ネットでも。そのインターネットの先には一人の人間がいて、その人の時間をすこしだけかりて、その人の言葉をたよっていいっていうこと

そのためには、すこしだけ、「つらいよ」って発信する勇気が必要なのかもしれない。

それだけ頑張れればきっと自分はうまくこれからも生きていける。そんなことを感じた金曜日でした。

みなさん1週間おつかれさまでした。

#エッセイ #日記 #コラム #大学生 #SNS #羨ましい

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