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小説:BEAUTIFUL DREAMERS【15560文字】

 金木犀の香りを乗せた微風がすっかり秋めいてきた十月。薄汚れたアルミ製のドアの前で私はまだ逡巡していた。
 もうここしかないのか。
 就職面接99件連続不採用。100件目が、このドアの向こう。
ドアにかけられた看板には

【山矢探偵事務所】

 一人暮らしのアパートから近い、というだけで選んだ就職先の100件目候補。まさか、本当に100件目まで就職が決まらないとは思っていなかった。
 ドアの前に立ったままため息が出る。面接の約束の一六時までまだ十分ほどあった。就活用に買ったローヒールパンプスのつま先でコンクリートの床をこする。

──もう少し考えるか。

 探偵なんてそもそも興味があったわけじゃない。この建物の一階にあるお寿司屋さんの前をよく通る。その入り口の横に貼ってあった求人がほんの少し目についただけなのだ。

【事務兼助手募集。資格不要。給与応相談。山矢探偵事務所↑2階】

 一応100件目の就職希望先にメモしておいたのは、まさか本当に面接を受けることになるとは思っていなかった一年前だ。そこから、銀行、金融会社、証券会社、事務職、大・中・小規模企業、希望した99件全ての面接に落ちたのだ。まわりはどんどん決まっていく。私は焦りがつのるばかりだった。

 だからって探偵なんてできっこない。薄汚れたドアを見ていると、なんだか怖いことに巻き込まれそうな気がしてくる。実際、探偵は人には知られたくない秘密を暴いたりするのだろう。危険な仕事もあるかもしれない。働いている人もきっと怖い人に違いない。
 今日の面接は断って出直そう。
そう思ってドアを離れようとしたとき、階段を登って近付いてくる人がいた。背の高い男だった。

 黒いジャケット、白いシャツ、きっちりしめられた黒い細いネクタイ。黒髪の短髪。切れ長の鋭い目。少し鷲鼻気味の高い鼻。薄い唇。尖った顎。

 怖い人、と思った。
 まさかこの人が?

 男はドアの前にいる私を見ると腕時計をちらっと見やり

「面接の方?」

 と言った。低くて渋い声。

「え、あ、はい」

「少し早いけど、どうぞ」

「あ、え、はい」

「あ、ああ、やまです。この探偵事務所の者です」

 まさかと思った予感は的中した。この怖い人が、探偵なのだ。

 そこから引き返す勇気のない私は言われるままに部屋に入った。室内は思いのほか広かった。

 入って左、道路に面した壁には大きな窓があり、部屋は明るかった。窓の前にスチールの机。部屋の中央には向かい合った小さなソファとテーブルの応接セット。ここで依頼人の話を聞いたりするのだろうか。部屋の右には小さな机と大きなスチール棚。たくさんの本とファイルが並んでいる。

「そこに座ってて。コーヒーくらいしかないけど」

 ソファを指して山矢はスチール棚の横にあるドアに入っていった。

 面接官が戻って来るまで立っていたほうがいいか、と思ったけれど、今まで同じ方法で99件落ちているのだ。今更関係ないだろうと思い、ソファに腰を下ろした。

 改めて部屋を見渡す。全体的に清潔で、整頓されていた。想像していた探偵事務所とは少しイメージが違った。もう少し薄暗くて陰気な場所を想像していのだ。我ながら失礼なやつだなと思う。

「探偵事務所ってのが珍しい?」

 コーヒーカップを二つ持って山矢が戻ったきた。

「あ、はい。初めて来たもので。すみません」

 山矢はコーヒーをテーブルに置くと自分もソファに座り、軽くネクタイを緩めた。

「求人の募集を見てくれたんだったね」
「はい」

 決まったエントリーシートがなかったため、普通の履歴書を山矢に渡した。

ばしすみさん。純って書いてすみって読むんだ」
「はい。すみです。たばし、すみ、です」
「ふんふん」

 一通り私の履歴書に目を通した山矢は顔を上げた。

「で、どうしてうちの求人を希望したの?」

 山矢は静かな口調で聞きながら煙草をくわえた。

「あ、吸っても大丈夫?」
「あ、はい、全然、大丈夫です」

 まだ緊張していたが、山矢に対する恐怖心は少し薄れていた。話し方が静かだし、目つきは鋭いけれど威圧的な感じはしない。

 山矢はライターで火をつけ、深く吸い込み、白紫の煙を吐き出した。

「で、どうしてうちに?」

 御社の企業理念に共感し。
 自分の経験をぜひ御社でお役に立てたいと思い。
 今まで面接で口にしてきたいくつもの決まり文句が頭をかすめる。

 御社の企業理念? そんなの知ったこっちゃない。自分の経験? 文学部で本ばかり読んで過ごした私に何の強みがある? それで99件落ちたのだ。

 足を組んでコーヒーを啜り紫煙を燻らす男に、私は正直に話すことにした。

「99件全部落ちた? それはすごい」

 無表情で聞いていた山矢は最後まで聞くと少しだけ口角をあげた。

「はい。ここで100件目です」
「100件目まで挑み続けることがすごい。俺には無理だ。挑戦することはできても、それを継続できる人は少ない」

 驚いた。就職活動をしていて、初めて褒められた。

 君には情熱が足りない。君の代わりはいくらでもいる。君は不要だ。

 そのような言葉を聞かされ続けた1年だった。初めて褒められて、私は泣きそうになっていた。

「ありがとうございます。人に褒められたことがほとんどないので、驚きました」
「褒められたことがない? どうかな。言葉は受け取り方次第だ」

 怖いと思っていた山矢だが、言葉に誠実さが感じられた。99件不採用になったことに、同情されなかったのも初めてだ。ここを逃したら、もう就職先の予備はない。

 ここで決めるしかない。私は決意を固めた。

「探偵はやったことがありません。一般的な事務の知識しかありません。でも、一生懸命やります! よろしくお願いします」

 どうかお願いします! と心で念じたとき、山矢は突然すっと目を細めて私の背後、左肩の上あたりに視線をやった。え、何かついてる? と不信に思ったが、山矢は何も言わず視線を戻すと「では、就職内定としましょう」と言った。

「え! いいんですか?」
「はい。よろしくお願いします」
「こ、こちらこそ! よろしくお願いします!」

 こうして私は100件目の面接先、山矢探偵事務所に内定をもらった。


 山矢探偵事務所の職員は、探偵の山矢、事務兼助手のエミ(育休中)、近くの税理士事務所のむら。お金の管理は全て税理士の野村さんにまかせているらしく、やる必要がないと言われた。また実際の探偵助手としての仕事も、簡単なことから少しずつ慣れていけばいいとのことだった。あとは電話番や書類の整理、依頼人とのスケジュール調整、依頼人に出すお茶やコーヒーの買い出し、など要は雑務が多かった。

「雇用の書類関係は明日野村さんに来てもらってやるから、今日はもうやることはない。明日また来れるか?」
「はい。何時でも大丈夫です」
「そうか。じゃ野村さんに確認しておくから、あとで時間を連絡しよう」
「はい。よろしくお願いします」

 山矢は煙草をもみ消すと腕時計を見て、五時かと言った。

「腹減ってるか?」
「え?」
「寿司、好きか?」
「あ、はい。大好きです」

 良し、と言って立ち上がり部屋を出ていこうとする。

「あ、あの」
「下に寿司屋があるだろ。大将の寿司はすごくうまい。就職祝いだ」
「あ、ありがとうございます!」

 私は山矢について部屋を出た。


 寿司屋はまだ時間が早いためか空いていた。カウンターと、テーブル席がニつ。こじんまりとしているが、落ち着いた清潔な店内。

「エミちゃんの代わり、見つかったのか。良かったね、山矢くん」
「はい。思っていたより早く決まりました」
「新人さん、好きなネタあったら言ってよ。たくさん食べて行ってね」

 私は回らない寿司屋のカウンターに座るのは初めてで緊張したが、大将は気さくな感じの方で、優しく話しかけてくれて安心した。

 そして何より、お寿司が信じられないほど美味しい。山矢さんが「おまかせで」といって大将に握ってもらったお寿司はどれもこれも、食べたことないような美味しさだった。

「でも早く決まって良かったね。来年は忙しいでしょ」
「そうなんですよ。エミもいないし、ちょっと心配していたので」
「探偵にも忙しい年とそうじゃない年があるんですか?」

 満腹になるまで美味しいお寿司を堪能した私はいつの間にかリラックスし、お茶を啜った。

「んー、うちはちょっと特殊だから。忙しい年ってのがあるんだよ。あ、そうそう、だから、仕事、いつでも辞めたいときに辞めていいから」

 今日ようやく決まったばかりなのに!

「辞めませんよ!」

 思わず大きな声を出してしまった。山矢さんはほんの少し口角をあげて(どうやら笑っているらしい)「こっちからクビにすることはないから心配するな」と言った。

「何はともあれ、今日は就職祝いだからね。新人さん、山矢くんをよろしくね」

 大将に優しく言われて、こんな頼りないぽんこつな私だけれど、役に立てるように頑張ろう、と決めた夜だった。


 翌日税理士の野村さんから詳しい話(保険のことやお給料のこと、税金のこと、領収書の書き方など)を聞き、正式に雇用が成立した。野村さんは髪をオールバックにかため、黒縁の眼鏡をかけ、黒いスーツで現れた。探偵事務所に関係する人はみんな怖そうに見える、と内心思ったが、話してみると神経質で潔癖な完璧主義者という印象だ。山矢さんは野村さんを相当信頼しているらしく、実質の探偵業務以外はほとんど野村さんにお願いしていた。

 正式に雇用が成立し、帰宅した私はベッドに寝転がり、この1年本当に大変だったなと思い返した。なんだか怖そうな所だと先入観を持っていたが、やっと居場所を見つけた。そんな気がした。私はようやくほっとして、就職が決まったことを実家の両親に連絡した。

 おおらかな両親だから私を急かすことはなかったが、心配はしていたようだ。安心させてあげられて良かった。



 あっという間に秋は過ぎ、短い冬が過ぎ、私は無事に大学を卒業した。
 春になり、私は山矢探偵事務所の一員となった。

 四月から本格的に山矢探偵事務所で働き始めた。

 山矢さんがいない間の電話番、書類の整理、野村さんに渡す領収書の整理、室内の掃除。難しいことは何もなかった。

 依頼人の話を聞くとき、山矢さんの隣に座り、少し助手のような仕事をすることもあった。必要に応じてメモをとったり、タブレット端末で地図を表示して山矢さんに見せたり、SNSで情報を集め(偽情報も多いが)山矢さんに知らせたりもした。

「俺もエミもITはすこぶる弱い。田橋が来てくれて本当に助かる」

 大したことをしていないのにそんな風に言ってもらえて素直に嬉しかった。依頼人の方に「本当にお世話になりました」と感謝してもらうことも多く、怖い仕事だと思っていたけれど、やりがいもあるな、と思ったりした。99件の面接不採用も、ここに辿り着くためには意味のあることだったんだ。なんだかんだ前向き(能天気)な私は探偵事務所の仕事って楽しいんだな、と思った。

 山矢さんは基本的に無表情で、笑ったり怒ったり、感情をあらわにすることがなかった。口数も少なく、仕事の話以外はほとんど喋らなかった。
 白いシャツに黒いジャケット、黒い細いネクタイというのがお決まりのスタイルで、ほかの服装は見たことがない。探偵事務所の三階に住んでいるらしいが、生活感は全くない。

 そういえば年齢も聞いていないが、三十代中旬くらいか。ヘビースモーカーで、一日のうちの相当な時間煙草をくわえ、煙を深く吸っては吐き出し、すっと目を細めその煙をただじっと見つめているのだ。ときどきこっそりそんな横顔を盗み見るが、物思いに耽っているようにも見えるし、ただぼーっとしているようにも見えた。

 そんな山矢さんは意外なことに依頼人の女性から好感を持たれることが多い。

「山矢さん、素敵よね。ご結婚なさってるのかしら」

「山矢さんってセクシーよね。彼女いらっしゃるの?」

 何度も複数の依頼人に耳打ちされたが「知りません」と言うしかなかった。

 素敵? セクシー? 私にはわからない。

「まさか、あなたとできてるってことはないわよね」

「まさかね」といって笑うご婦人もいたが、釣り合わないと言われているようで、それはそれでなんとも複雑な気分だった。

 私がまだ子供なのだろうか。山矢さんは相変わらず、無表情で生活感のないちょっと怖い顔をした、でもときどき褒めてくれる上司にすぎなかった。


 仕事にも慣れてきた八月。
 朝から暑くて湿度も高い。家から近いから徒歩通勤だが、こうも暑いとしんどい。自転車でも買おうかなあ、と思いながら階段を登る。九時ちょうど。

 山矢さんはもう事務所にいて、煙草を吸いながらコーヒーを飲んでいた。

「今日は午前中から行くところがある。十一時から初めての依頼人の予約が入っているから、それまでには必ず戻る」
「はい。やっておくことはありますか?」
「いや、十一時の依頼人まで予定はないから、飛び込みの依頼があったら携帯に電話をくれ」
「わかりました」

 山矢さんはコーヒーを飲み終えると煙草を消し、じゃ、と言ってジャケットを手に持って出かけて行った。あの黒いジャケット暑くないのかな、と思う。夏用なのかな。

 張り込みや聞き込みなどの現場の業務はまだ経験していない。そのうち着いていくことになるのかな、と思ったが、実感はなかった。


 静かな室内で書類の整理を始める。

 夫の浮気調査。娘の彼氏の身辺調査。盗聴器の発見と撤去。一人暮らしの女性の駅までの送迎(護衛?)。不動産にいわくがないか調査。行方不明の猫探し。
 
 いろいろな依頼があるものだな、と思いながらファイリングしていく。

 紙のファイルではなくクラウドに保存すればいいのに、と思い、山矢さんに相談してみよう、と思った。でも野村さんに相談したほうが早いかもしれないな、とも思った。SNSでさえ使わない山矢さんのことだ。真顔で「クラウドって何だ?」と言われそうだ。



 一時間ほど書類や領収書の整理をし、室内の掃除を始める。三十分ほどたったところで事務所のドアがノックされた。十一時にはまだ早い。飛び込みの依頼?そんなことほとんどないのに。

「はーい」

 ドアを開けると、腰の曲がった痩せた老婆が立っていた。

「十一時から約束の者です。少し早く着いてしまいました」

 ひどくしゃがれた声。ぐりっと首をあげ、私を見上げるその顔には無数の皺が刻まれ、ぎょろっとした目でこちらを見つめてくる。

──怖い!

 瞬時に思った。ほとんど反射的に体が拒否していた。でもどうして。こんなにか弱そうなおばあさんなのに。何も怖くないではないか。でも、目を合わせられないほど怖い。

「あの、少し早いですが入れてもらえませんか。外は暑くてかないません。ほかのお客様がおいでですか?」と老婆。

「あ、いえ、大丈夫です。すみません、どうぞ」

 室内に案内したが、入れた瞬間から鳥肌が止まらない。どういうことだ。このおばあさんの何が怖いのか。わからない。普通の痩せた小柄なおばあさんだ。

 でも、怖い。理由はわからない。でも一緒にいたらだめ。全身の細胞が私に危険信号を送っている。


 老婆は「よいしょっ」と言ってソファに腰を下ろした。

「あの、山矢は今不在でして、お約束の時間には必ず戻りますので、少しお待ちください」

 少し離れたところからとりあえず伝えるべきことを伝える。

「早く来た私が悪いんですよ、待ちますとも」

 耳がぞわっとする。声を聞くのもつらい。何なんだ、この人。

「お、お茶いれますね」

 そう言うなり私は給湯室に逃げ込んだ。


 私は意味のわからない恐怖に襲われながら山矢さんに電話した。

「山矢さん、すみません、十一時からの依頼の方がいらしたんですけど」
「早いな」
「はい。それが、なんか、怖いんです」
「怖い?」
「はい。うまく説明できないんですけど、ただのおばあさんなんですけど、華奢で怖い要素何もないのに、なんか、めちゃくちゃ怖いんです! それで私今給湯室に逃げてきて、別に何もされてないんですけど、なんか体が拒否するっていうか、どうしたらいいでしょうか、山矢さん、私怖くて怖くて」

 ほとんどパニックだった。

「田橋。落ち着いてよく聞け。俺はすぐに帰る。もう近くまで来ている。いいか、俺が帰るまで給湯室から出るな。鍵をかけて閉じこもっていなさい」
「いいんですか、お客様放っておいて」
「ああ、たぶんそいつは依頼人でもなんでもねえよ。とにかく隠れているんだ。いいな」
「はい」
 
 電話を切って給湯室の鍵を確認する。よし閉めた。

「お姉さん!」

 ひっ!

 ドア越しすぐ目の前から突然声がして私はのけぞった。

「お姉さん、お茶まだですか?」
「あ、はい、今お持ちしますので、お待ちください」

 声が震える。あぁ怖い。山矢さん、早く帰ってきて。

 早く早く早く!

 ほんの三分ほど後、突然バタン! と事務所のドアの開く音がした。

「やっぱりお前か。俺がいないときに来るなんて、相変わらず卑怯な奴だな」

 山矢さん!

「久しぶりじゃねぇか、山矢。三年ぶりだな」

 え?

 私はまた全身がぞわっと総毛だった。それはあの老婆の声ではなく、男の人の声なのだ。

「何しに来た」
「久しぶりなんでね、エミちゃんに挨拶と思って寄ったんだ、そしたら知らない子がいたよ。新しい子か?」
「お前には関係ねえだろ」
「おお怖いねえ。やっぱりお前のことは本当に嫌いだ」
「こんな狭い部屋でやろうってのか」
「ふん。今日は挨拶に寄っただけだと言っただろ。せいぜい夜道に気を付けろ。俺はいつでもお前を、ヤレるんだからよおおお!!!」

 大きな声で叫ぶ怒声とともに、ガッシャーンという激しい音がした。

「あの野郎! ふざけんな」

 山矢さんの声のあとは、何も聞こえなくなった。あの老婆(いや、男の人?)はいなくなったのだろうか。

トントン。

 給湯室がノックされて心臓が飛び跳ねた。

「田橋、いるか? 大丈夫か?」

 山矢さんの声だ。

「はい。なんとか、大丈夫です」
「もう出てきていいぞ。怖い感じ、消えただろ?」

 そう言われてみると、ドキドキはしているが、さっきまでの言いようのない恐怖心はなくなっていた。私はそうっと給湯室のドアを開ける。

 山矢さんだ。いつもの無表情の山矢さんだ。私は泣きたいくらいほっとした。

「山矢さん、あの人、何なんですか?」

 まだ声が震えている。

「怖い思いをさせてすまなかった。奴は荒草あらくさといって、俺を恨み続けてる変な奴なんだ。今年来ることはわかっていたが、いつもより早いから油断した。本当にすまなかったな。怖かっただろ」
「アラクサ」

 何から考えていいのかわからず、放心状態だった。


 給湯室を出て部屋へ戻ると、道路沿いの大きな窓が粉々に割られていて驚いた。

「おーい。山矢くん、大丈夫かー!?」

 聞きなじみのある声。寿司屋の大将だ。山矢さんは窓へ駆け寄って道路を見下ろす。

「大将、すいません。被害はないですか? 奴です! 荒草です!」
「そうか、来おったか。下のガラスは片付けておくから気にするな。そっちは忙しくなるだろ」
「ありがとうございます!」

 私も恐る恐る道路を見下ろすと、砕けたガラス片が道路いっぱいに広がっていた。通行人がいたら大変なことになっていただろう。

「窓ぶち破って出ていきやがった。あの野郎」
「窓を破って」

 やっぱり私にはまだ理解できないことが多かった。

「ゆっくり説明しないといけないな。とりあえず、疲れたと思うからソファで休んでくれ。今コーヒーを淹れる」

 私は言われた通りソファに座った。本当に、ぐったりと疲れていた。

「野村さん、俺です。荒草が来ました。はい。エミにも連絡します」

 山矢さんが電話で何人かにアラクサという人が来たことを知らせていて、私はコーヒーカップを両手で包みながらそれをぼんやりと聞いていた。さっきの怖い老婆のこと、突然男の人の声に変わったこと、珍しく感情的に言い争う山矢さんの声、粉々に割られた窓、そこから逃げたというアラクサ。考えても何が起こったのかわからなかった。

十分もせず野村さんが来た。ソファで蹲っている私にそっと会釈をする。

「今年は早いですね。あぁ、窓。これはひどい」

 野村さんは山矢さんと話し、窓の破損状況を確認し、修理の電話をし始めた。
 そのすぐあとに突然事務所のドアがバーンと開けられ私は驚いて体がビクンとなった。

「山矢さん、大丈夫ですかー?」

 若いきれいな女性が入ってきた。細身で、長い髪を後ろで束ねている。二十代くらいだろうか。白いTシャツにジーンズ、アーミー柄のキャップ。紺色のベビーキャリーで赤ちゃんを抱いている。

「あぁ、エミ、忙しいのに悪いな」

 あぁこの人がエミさんか。

「うっわー、窓粉々。相変わらずひどい奴だな」
「そうなんだ。今年は早いから油断していた」

 そこでエミさんは初めて私に気付いた。

「あ! もしかして新しく入った人? よろしく、私エミ。今育休中なんだ。育休中なのに呼び出されてまいっちゃう、ねえー」

 と最後のねえ、は赤ちゃんに向かって言った。

「田橋と言います。よろしくお願いします」
「荒草、むかつく奴だったでしょ? あいつ顔でかいし声もでかいし、きもいんだよ」
「あ、それが、なんかおばあさんの恰好をしていて、私そのアラクサ? って人を知らなかったので依頼人かと思って、でもなんか普通じゃないっていうか、怖いっていうのは感じて。それで給湯室に逃げていて」
「え? 荒草のこと聞いてなかったの?」
「あ、はい」
「やーまーやーさーん」

 エミさんが山矢さんを睨んだ。

「なんで新人さんに荒草のこと言っていかなかったんですか? なんか怖いって感じて逃げてくれたから良かったけど、危なかったじゃないですか!」

 珍しく山矢さんは眉間にしわをよせた。

「本当に俺が悪かったんだ。いや、油断としか言いようがない。奴はいつも冬くらいに来ていたから、もう少し仕事に慣れてもらってから伝えようと思っていたんだ」
「もう、説明したら退職されちゃうと思って先伸ばしにしてたんじゃないんですか?」
「まぁ、それもあるが」

 こんな言い訳めいたことを言う山矢さんは見たことがない。エミさんとは長い付き合いなのだろうか。親しい空気を感じた。

「でも、田橋なら荒草を見たとき、普通じゃないって感じるだろう、という勝手な予測もあったのは事実だ。実際そうだったから、良かった」

 するとエミさんは私のほうを見て、じーっと頭のあたりを見て、そのあと左肩の上あたりを見て、また視線を戻した。そして「その気持ちはちょっとわかりますけど」とぼそっと言った。

 私は何を言われているのか全くわからなかったが、山矢さんと野村さんとエミさんが来てくれて、いくぶん気持ちは落ち着き始めていた。


 エミさんが自分用のほうじ茶と三人分のコーヒーを淹れてくれて、四人でソファに座り、私はアラクサについての話を聞いた。

 荒草はもう何年も山矢さんを恨み続けているらしく、三年ごとに山矢さんを倒しにくる。その年が今年だったのだ。

 私は去年お寿司を食べながら山矢さんに言われた「うちは特殊だから」という言葉を思い出した。まさかこんなおかしな事情とは思っていなかった。

「どうしてそんなに山矢さんを恨んでいるんですか?」

 私は聞かずにはいられなかった。何年もつけまわして攻撃してくるなんて、狂っている。

「それが、もう昔のことすぎて俺は忘れてしまったよ」

 そして荒草は山矢さんだけでなく、山矢さんが大切に思っている人を攻撃する可能性もあるから注意するように、と言われた。

「エミには護衛はいらないと思うが、ミキがいるから気を付けてくれ。くんにも気を付けるように伝えてくれ」

 木度くんとはエミさんの旦那さんで、ミキちゃんは赤ちゃんの名前らしい。

「わかってます」
「それから、田橋は俺が送迎しよう」
「え!」
「困るか?」
「困りませんが、わざわざ……」

 断ろうと思ったが、さっきの恐怖を思いだし躊躇する。

「もう顔も覚えられてしまっただろうから、ひとりで出歩くのは危険だ」
「わかりました。お願いします」

 野村さんは「今年は対荒草用の経費が余分に準備してあるので必要なものは言ってください。揃えます」と言った。

 荒草は神出鬼没であるから気を抜かないこと、遭遇したら必ず山矢さんに連絡をすることが約束され、解散となった。


 山矢さんは赤ちゃんが同席していたため控えていた煙草をくわえ、火をつけた。薄い唇。高い鼻。深く吐き出した煙を見つめてすっと目を細める。

「すまなかったな、田橋」
「あ、いえ、なんとか事情はわかりましたから」
「退職するか? 止めないぞ」
「いえ、辞めません」
「とにかく、今年も俺が奴を倒すから。心配するな」
「はい」

 自分に言い聞かせるように言う山矢さんは、ため息をついて遠くを眺めた。

 私は、老婆が突然男の人に声になったり、窓を破って逃げたり(ここはニ階だ)、まだ理解できないことが多かったが、この先もっと理解できないことが起こるとは、想像もしていなかった。

 その日から山矢さんに送迎してもらう日々が始まった。朝八時四五分にアパートを出ると山矢さんがいる。ポケットに手を突っ込んで、アパートの階段によりかかっている。

「おはようございます」
「あぁ」

 自転車を買おうと思っていたけれど、山矢さんが一緒に歩いてくれるので、徒歩通勤のままとなった。歩いて十分の通勤路。

 白いシャツに黒い細いネクタイをぴしっと締めて、黒いジャケットを羽織っているいつもの山矢さん。暑くないのかな。半袖のブラウスでも汗だくになっている私のほうがおかしいような気さえしてくるほど、山矢さんは涼し気だ。

 事務所に着くと私は山矢さんにコーヒーを淹れて、自分はアイスティをグラスに注ぐ。

 荒草がいつ来るかわからないので、山矢さんは現場へ出る仕事はほとんど入れなくなった。二人で事務所にいることが多い。


 私は書類の整理をしたり、今後のために最近始めた英語の勉強や基礎的なITの勉強をしたりする。外国人の依頼人がきたとき今までは野村さんが通訳をしてきたらしいが、いずれ私ができたら役に立てるだろう。ITは、エミさんが育休から戻ってきたとしても、私がデジタル担当になりそうな気がするから今のうちから少しずつやっておこう。紙のファイルにとじてある情報をデジタル管理できたら便利になるだろう。

 簡単IT入門、という本を読みながら山矢さんを見ると、デスクに座って煙草を吸っている。煙の先、どこを見ているかよくわからない視線。山矢さんは相変わらず無口でつかみどころがなく、まだまだ謎が多いな、と思った。



 そんな一見平和に見える山矢探偵事務所の日常が数週間続いた。

 もうすぐ九月も終わる、ある日。午後から風が強くなってきた。台風が近づいているのだ。

「田橋、今日は天気が悪くなりそうだ。まだ四時だが、今日は終わりにしよう」
「はい。わかりました」

 私は野村さんに相談して買ってもらったノートパソコンをとじ、帰り支度をした。階段を下り外に出ると蒸し暑い風が横からびゅっと吹き付ける。湿度が高くて息苦しい。

「荒れそうですね」
「あぁ」

 見上げると空は重く暗くなっていて、雲の流れが速い。

 いつも通り山矢さんはアパートまで送ってくれて、私が玄関に入るまで見送ってくれた。

「ありがとうございました。山矢さんも、帰りお気をつけて」
「あぁ」

 強風にジャケットを翻されながら山矢さんは帰って行った。


 いつもより早く帰れたので、何をしようか。久しぶりにゆっくり映画でも見ようか。きっとテレビは台風情報ばかりだ。必要な情報を得たら、あとは映画の時間にしよう。見たかったけれど見ていない録画番組もある。

 まずゆっくりお風呂に浸かり、デリバリーのピザを食べながら映画三昧(ときどき台風情報チェック)、という贅沢な予定が立てられた。


 台風の影響で外はすでに暗い。

 ピザとコーラの組み合わせって絶対に裏切らないよなーと思いながら、ソファにだらしなく寄りかかって映画を観ている。海鮮ピザも美味しいけれどほうれん草とベーコンもいい。ありきたりな恋愛映画もおもしろい。

「えー、このふたり別れちゃうの?」

 わかりきった展開でも感情移入してクッションを抱きしめながらドキドキしてしまう。

「どうなっちゃうの、ふたりは~」一人暮らしをしていると、ひとりごとが増える。



 カンカン、カン、カン

 ん? 何の音だ?

 カン、カンカン

 一度映画を止める。いいところなのに。

 カン

 窓に何かぶつかっている。

 映画に夢中で気にしていなかったが、台風の接近とともにどんどん風が強くなってきているのだ。そろそろ雨も降りそうだ。そういえばベランダのものを片付けておかなかった。買ったままで放置しているプランターや園芸スコップがそのままだ。

 台風の風で物が飛ばされて窓が割れたりするニュースを見たことがある。危ないかな、明るいうちにやっておけば良かった。仕方ない。雨が降る前に片付けたほうがいいな。

 私はベランダの窓を開けて外に出た。

 瞬間

「つーかまえたっ」

 ひっ!

 大男に抱きすくめられた。突然のことで声が出ない。大きな体、太い腕、四角い顔に吊り上がった細い目、ごつい顎を覆う無精ひげ。

「新人ちゃん、ずっと山矢と一緒にいるんだもんねぇ。やっと捕まえたよ」

 気持ち悪い声。耳をざらっと舐められたようで全身に鳥肌が立った。

 怖い。怖い怖い!

 全然見た目違うけど、この声は

「荒草っ!!」
「せーいかーい。ぐふふふ」

 不気味な声で笑う。吐く息が獣のように臭くて顔をそむける。


「さ、一緒に行こうかね~。大丈夫。ちゃーんと山矢も呼ぶからさ。でも、間に合うかな~」

 助けて! そう叫ぼうとしたとき、胃のあたりにドスっと重みを感じ、気を失った。




 カツカツカツカツっ!

 一定のリズムで鳴る音がする。

 意識がぼんやり戻ってくる。自分がどこにいるのかわからなかった。ひどく見晴らしがいい。

「お、気が付いたか」

 私は荒草に抱えられたまま、どこかのビルの屋上の、給水タンクの上にいた。

 高い!!

 何階建てのビルかわからないが、高い。台風の暴風が吹き付け、体が持っていかれそうになる。

 荒草は乱暴に私を抱え、逃げられないようにかぎゅっと腕に力をこめた。胃のあたりがまだ痛いし気持ち悪い。

 カツカツカツカツ!

 誰かが走っている音のようだ。

「おお来た来た」

 山矢さんが外階段を登って、フェンスをひらっと乗り越え屋上に入ってきた。

「待ってたぜ、山矢」
「荒草てめえ」

 横殴りの風に山矢さんのジャケットとネクタイはバサバサとはためいている。

「どうだい、新人ちゃんを連れ去られた気分は? え?」
「お前の相手は俺だろう。関係ない人間を巻き込むのはやめろ」
「そういうセリフは聞き飽きたんだなー。俺はお前を苦しめたくて仕方がない。お前自身を痛めつけるのもいいが、お前のせいで誰かが傷つくのを、目の前で見せてやるのもなかなかいい」
「相変わらず最低な野郎だな」
「そんな口聞いていいのか?」

 うぅっ!

 荒草が腕にさらに力をこめて私の体はぎゅっと締め付けられる。

「肋骨くらい簡単に折れちゃうだろうねぇ」
「田橋。大丈夫だ。俺が必ず助けるからな」
「ははは。良かったな、新人ちゃん。助かりたいか? 助けてほしいか? 俺の機嫌次第だぜ? ほら、助けてくださいって、お願いしてみろよ。ほら、泣いてお願いしろよ。助けてくださいって、泣いてみせろよ」

 カチンときた。大男だか剛腕だが知らないが、異常にむかつく。エミさんが「むかつく奴」と言っていた意味がわかった。怖いけど、頭にきた。

「っざけんな……」

 私は荒草の大きな四角い顔にペッとツバを吐き出してやった。

 一瞬虚を突かれた顔をした荒草は、ちっ! と舌打ちをし、睨みつけてくる。

「生意気なガキが。痛い目みねえと、わからねえようだなああぁぁぁぁ!!!!」

 吊り上がった細い目を充血させて荒草が大声をあげた。

「やめろ、田橋!大人しくしてろ!」
「もう遅せえよ。山矢の前で少し痛めつけてやるつもりだったが、気が変わった」

 荒草は私の体を両手でひょいっと掴むと、頭の上まで高く持ち上げた。

「死ねぇぇぇぇぇぇーーー!!」


 荒草は叫ぶと同時に、そのまま物凄い勢いで私をポーンと放り投げた。ちょうどバスケットのフリースローのように。

 私はふわっと無重力を感じ、宙に浮いたまま大きく屋上のフェンスを越え、勢いよく落下した。


 い、いやぁーーー!!!!


 叫びながら私は仰向けの状態でどんどん落下していた。

 びゅんびゅん風の音がする。走馬燈なんてないんだ。真っ黒い雲が広がる空を見ながら、死ぬと思った。

 え、死ぬの?私死ぬの?

 死ぬのは嫌だ!と思った。

 そのとき、屋上から黒い影がひらっと舞って、すごい速度で迫ってきた。

 え、山矢さん!!!

 山矢さんが屋上から飛び降りて私に向かって落ちてくるのだ。


 だめだ、二人とも死ぬんだ!

 私は自暴自棄でぎゅっと目を閉じた。そのとき背中がほわっと温かくなった。直後、ずんっと自分の体がどこかに着地した重みを感じた。

 恐る恐る目を開けると、私は仰向けのまま、山矢さんに抱きかかえられていた。

 何があった?!

 状況だけで考えると、山矢さんが先に地面に到着し、私をキャッチしてくれた、ということらしい。いわゆるお姫様抱っこの恰好で。


「や、山矢さん?! 大丈夫ですか?!」
「それはこっちのセリフだ。大丈夫か、田橋」
「は、はい。どこも痛くありません」
「そうか。怪我がなくて良かった」

 そういう問題じゃありません! と言いたかったが、山矢さんは私を抱きかかえたまま、外階段の影に走り「ここに座ってろ」と言って地面にそっと私を降ろして座らせた。そして自分の手を見て「俺だけの力じゃないな」とぼそっと言った。

「まあ、説明はあとだ。まずこれを持っててくれ」

 と言ってジャケットを脱ぎ、私に放った。

 それから右手で人差し指と中指をくっつけたピースのような形を作り、静かに私の頭上に掲げた。

 すんっ!という風を切るような音とともに、私は透明のガラスケースのようなものに覆われた。

「うわぁっ!」なんだこれ!
「結界を張った。この透明な壁が見えるな?」
「は、はい」
「ここから出るな。待ってろ」

 そういうと山矢さんはネクタイを乱暴に緩め屋上を見あげて「すぐに済ませる」と言い残し外階段を走って登っていった。

 どうして私も山矢さんも無事なのか、何が起こっているのかわからないが、私は山矢さんに言われた通り、地面に座り込んだまま、透明のガラスケースの中でじっとしていた。そうするより他なかった。

 山矢さんが屋上に着いたのか、うぉおおー! という荒草の叫び声がする。

 そこからは、何の音かわからない金属がぶつかるような、カキン! カキン! という大きな音と、荒草の咆哮。どかーんと何かにぶつかるような音。

 私は音だけが聞こえるガラスケースの中で、山矢さんのジャケットを握りしめ、じっと身をひそめていた。

 どうか、山矢さんが荒草を倒してくれますように!! それだけを祈っていた。

 突然どーんという大きな音とともに、何かの塊が屋上から落ちてきた。

 私は外階段の隙間から目をこらす。そこには、2mほどはあろうかと思われる、ボサボサの真っ黒い毛に覆われた、獣のような太い腕が落ちていた。よく見ると長い爪が生えている。

 明らかに異形のものである。やっぱり荒草は化け物なんだ。化け物相手に啖呵切ってツバを吐きかけた自分が今更恐ろしい。

 カキン! カキン! ドーーン!! カキン!!

 激しくぶつかり合うような音のあと、ぐしゃっという大きな嫌な音がした。

 うおぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!

 荒草がそれまでと比較にならないほどの地鳴りのような叫び声をあげた。

 そして静寂に包まれた。

 台風の風の音さえも、一瞬止まったように思えた。

 静寂の中、地面に落ちていた2mもあろうかという巨大な腕が、ガサっと音を立てて崩れ、サラサラの砂のようになって、びゅっと吹いた風にあっという間に飛ばされて消え去った。

 また静かになった。終わったのか。



 カツンカツン

 ゆっくり階段を下りてくる音がする。山矢さんだった。ネクタイは緩んで、シャツは腕まくりして、珍しく汗をかいている。

「山矢さん」
「終わったぞ」
「荒草は、どうなったんですか?」
「俺が倒した」

 山矢さんが勝った。

「良かった」

 口にした途端、涙があふれた。

「やだ、ごめんなさい。私、私、怖かった……」
「怖い思いをさせてすまなかった。でも、思ったより気が強いんだな。奴にツバなんかかけて」

 ふっと山矢さんが息をもらした。笑ったようだった。

「あれは、自分でも驚きました」

 ふっと自分でも笑えてきた。恐怖と安堵と興奮がごちゃまぜだ。



 山矢さんは私の頭上にさっと手をかざし、私を覆っていたガラスケースを消した。

「もう出てきていいぞ」
「はい」

 立ち上がろうとしたとき、自分のお尻のあたりがモサモサしていることに気が付いた。

「あれ、なんだこれ」

 立ってみると、私が座っていた地面半径三十センチほど、タンポポやレンゲやシロツメクサなど、野草がびっちり茂り、花を咲かせているのだ。

「田橋は尻の下で花を咲かせる名人なのか」

 山矢さんが真顔で冗談を言う。

「知りませんよ!何ですかねこれ」

 山矢さんはじっと花を見つめたあと「そういうことか」と言った。

「屋上から落ちる田橋を助けるとき、正直間に合わないと思ったんだ」
「え!」

 今更怖いことを言う。

「間に合わないって思った瞬間、田橋の落下速度が一気に遅くなった」
「え、どういうことですか?」
「たぶん、田橋は何かに守られてるな」
「何か?」
「あぁ。田橋が就職の面接に来たとき、肩のあたりに温かそうな光を視た。悪いものではなさそうだったから、そのまま田橋の就職を決めたんだ。役に立つかもしれないと思って」
「肩に光ですか!?」
「あぁ。エミにも視えていたようだから、何か田橋を守ってくれる存在がいるのだろう」
「守ってくれる存在って。私にはわかりません」
「まあ、自覚のない場合も多いだろう」

 誰が守ってくれているのだろう。

「あ、そういえばエミさんや野村さんは大丈夫なんでしょうか!」
「あぁ、あのふたりは強いから大丈夫だ。野村さんはコマンドサンボも強いし、柔術の師範でもある。エミは結界もはれるし戦闘もわりと強い。だから田橋が狙われたんだ」
「エミさんもガラスケース作れるんですか!?」
「ガラスケース? 結界な」

 もう何が何だかよくわからない。ただ助かった。今はそれだけでいいか。

でも一つだけ聞きたい。

「あの、山矢さんって、何者なんですか?」

「何者と言われても、俺は山矢探偵事務所の探偵だ。それだけだよ」

 そういって、またふっと笑った。


「さあ送ろう。早く帰らないと雨が降りそうだ」

 たしかに台風は近づいていた。でも私にとっての嵐はとっくに行き過ぎていた。

 探偵事務所に就職して、こんなことになるなんて。99件の面接に落ちたせいだなと、また一人で笑った。

 何笑ってるんだ? と振り返る山矢さんは、いつもの無表情な山矢さんだった。



《おわり》

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