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とどめの愛撫で 1




「最終的に、運命の人を見つければいいんだよ」


くだらない慰めだ。そうは分かってはいても、「そうだね、そっちも元気でね」と返してやる。


大人だからだ。

大人だから、12年付き合った恋人に別れを切り出されても泣き喚いたりしない。大好きな人に別れを切り出された時、宇田うだすぐるは大急ぎで感情のシャッターを降ろした。これが防衛本能だ。


「そんなのが大人なら、大人になんか、なりたかないっすね」

目の前に座る神谷がぼやき、窓の外を眺めていた。
細く柔らかい黒髪が扇風機の風で揺れて、キラキラ光っている。


宇田は、10歳年下の神谷かみや一颯いぶきをかなり気に入っていた。快活で、遠慮がなくて、いつも当たり前のことを言う。当たり前で正しいことを言うのだ。そして、自分はまだ大人ではないと強く信じている。


「嫌でもいつかは大人になるんだよ、残念だったな」

宇田はそう言って、コップにとぷとぷと水を注いだ。虹色の光彩が凸凹したガラスでうねって、テーブルの上を泳ぐ。


「アンタも難儀だな、その場で駄々こねれば良かったんだ」

神谷はそう言うと、銀皿の隅に溜まったデミグラスソースをスプーンで掬った。ここの洋食屋はオムライスが美味い。甘めのケチャップライスが疲れた脳みそに沁みる。


「相手のことが好きなら、彼女の気持ちも尊重すべきだろ」

宇田は自分で言ってゾッとした。神谷の前で大人ぶる自分にも、相手を思いやっている風の言種ことぐさにも、我ながら。


「宇田さん。駄々こねとかないと、後で後悔しますよ」

白磁のコップを揺らしながら神谷が呟く。ゆっくり、丁寧に確信を込めて。


「駄々ってお前…」

宇田はそう言いかけて突然、駄々をこねるという言葉の愉快さに気づいてしまう。なんとも子供じみてて、可愛いじゃないか。


喉をクツクツ鳴らして、
「…こねてみるか、駄々」
と言ってみる。
言葉にすると、すごく簡単な事のように感じた。


「とにかくですよ」
神谷は気にせず続ける。
「相手を思いやるのも良いですけど、言いたいことは言っとかないと。最終的にどうするかはともかく」


宇田は返事をしなかった。

カラン。
アイスコーヒーの大きな氷が音を立てて崩れる。



宇田はしばらく黙ったあと、
「ひでえよなあ」と呟いた。

その言葉は元恋人に対してではなく、自分のこの有様に対してだった。昼食会の締めくくりのように響いた言葉は、ガビガビの音質で店内に響いていたスピッツのルキンフォーと共鳴している。明るいメロディーがかえって、昼営業終了間際の物悲しさを助長していた。店内にいる客は、もう2人だけだ。

神谷はアイスコーヒーを一気に飲み干すと、
「髪、切った方がいいっすかね」
と呟いて、目にかかる前髪をうざったそうにいた。



洋食屋を出て、最寄りの駅に向かう。

商店街の書店に用事があるという神谷に、
「じゃ、また連絡するわ」
と、宇田は言った。
できるだけなんともない風に。

ああ、だめだ。
思いのほか弱々しさと必死さが滲み出たような気がした。
宇田はばつ・・が悪くなり、背を向けて歩き出す。



「宇田さん」
神谷が短い声を発した。


「ん」
宇田が振り返ると、


「ほんとに、気をつけて帰ってくださいよ」
神谷はそう言って、骨張った手をヒラヒラと振った。


宇田は背を向けて数歩歩いた後、振り向こうか迷ってやめた。神谷がこちらを見ていても見ていなくても、多分悲しくなるだけと分かっていた。確認した自分に悲しくなるのだ。



地下鉄への長い階段を降りながら、宇田は目が熱くなるのを感じていた。じんわり。泣いたというより、目から涙が出てきた、という方が正しい。


辛くて泣いたことはないが、優しくされて涙が出ることはある。本当に思いがけず、うっかり。溜まっていた苛立ちと、惨めさとが溢れてくる。

目から出てくるこの水分は多分、自分のダメなところそのもので、褒められたり、優しく囁かれると、身体から勝手に出ていくのだ。それで、自分がほんの少しマシな人間になったような心地で、その後の数時間を過ごせた。

泣くとストレス解消になるというのを、長い地下通路の道すがら、宇田は身をもって実感していた。




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