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とどめの愛撫で 4


最寄りの駅で待ち合わせした。
宇田さんの家で、ご飯を食べる約束だ。

雨なんて降る予報じゃなかったのに、駅に着いた頃には強い雨が降っていた。


「えー、お前、自転車で来たのかよ」

「雨なんて天気予報で言ってませんでしたよ」


神谷がハンカチを頭に乗せ自転車を押し始めると、宇田は「ほら、」と言って傘の中で手招きする。

「どうも。すいません」
片手でハンカチをポケットにしまう。傘の中に入ると、冷気で冷え切った肩同士が触れ合った。宇田が肩を引く。

「で?子上さんとは、どうなんだよ」
早速訊ねるものだから、神谷は少し機嫌が悪くなる。


「仲良くやってますよ」ぶっきらぼうにそう答えた。







神谷が宇田に気持ちを伝えたのは、3年前のことだった。


長く付き合っている彼女がいることすら知らなかった。


宇田の顔は、みるみる驚きの表情に満ちて「俺、彼女がいるんだよ」とだけ言った。ごめんな、ありがとう、とも。あっさりとした返事だった。

宇田さんは会うたびに、絵里とうまくいっているのか必ず聞いてくる。僕が絵里と別れたら、また自分に告白してくるのではないかと怯えているようだった。


そのくせ、振った相手を平気で呼び出すのだ。

でも、宇田が奔放なタイプじゃないのを神谷は知っていた。

僕を誑かして遊んでいるわけではない。

あの人はいつも"ダメになった時"にだけ、僕のことを呼び出す。

周期的にその波が来るのだ。



この3年間、それをずっと、繰り返していた。





宇田のアパートへの道は複雑だったが、神谷はもうすっかり覚えてしまっている。近道まで。

途中で、居酒屋の扉に貼られた沖縄旅行の広告が目に入る。
雨風にさらされて、真っ青な海が薄汚れていた。

「宇田さんは、海のそばで暮らしてたんですよね」

大きな横断歩道で立ち止まって、宇田を見つめる。目元には深いクマが刻まれていた。ダメになっている。僕を求めてくれる時の宇田さんといえば、いつもこの顔をしていた。


「海のそば、って言えば聞こえは良いけどなあ」
雨が弱まった空を見上げて、宇田は傘を閉じた。

「海は怖いぞ」
まぁでも、そう呟いて続ける。

「高校の通学路の途中に狭い路地があって、そこから少し海が見えて、その景色は好きだったよ」


信号が変わり、歩き始める。

神谷は、宇田の後ろ姿から目を離せなかった。


隣には誰かいたのだろうか、と思った。



宇田は振り返って、「…あの暗さは嫌いだったけどな」と笑った。

大切に、懐かしむ笑い方だった。
その言葉に反して、暗い故郷への愛着を含んだ声色だ。
神谷は、優しく、少しくぐもったその声が好きだ、と思った。

宇田は石川県の、限りなく福井側に近いあたりで生まれ育った。
故郷の地は不思議な存在だ。


暗く寒い北陸の地。
厳しく泡立つ、黒い日本海。
湿気を含んだ、骨に沁みる冷気。
仄暗く低い雲と、強い風で波打つ銀色の稲穂。

どういうわけか、あの酷く陰鬱な土地は宇田の心を捉えて離さない。もう何年も帰っていなかったが、それでも鮮明に思い出せた。

「行ってみたいな。石川って金沢しか行ったことないですよ。そもそも日本海って見たことないかもしれないな」神谷は無邪気に言った。

東京で生まれ育った神谷にとって「地方の地元」という存在はなんとなく羨ましい。


宇田は数秒の沈黙のあと、
「いいんじゃないか、子上さんと温泉にでも行けよ」
そう言った。

投げやりで、悪びれず、真面目な顔で。


神谷は「そうだね」と微笑む。


それで、自分を納得させようとした。





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