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とどめの愛撫で 4
最寄りの駅で待ち合わせした。
宇田さんの家で、ご飯を食べる約束だ。
雨なんて降る予報じゃなかったのに、駅に着いた頃には強い雨が降っていた。
「えー、お前、自転車で来たのかよ」
「雨なんて天気予報で言ってませんでしたよ」
神谷がハンカチを頭に乗せ自転車を押し始めると、宇田は「ほら、」と言って傘の中で手招きする。
「どうも。すいません」
片手でハンカチをポケットにしまう。傘の中に入ると、冷気で冷え切った肩同士が触れ合った。宇田が肩を引く。
「で?子上さんとは、どうなんだよ」
早速訊ねるものだから、神谷は少し機嫌が悪くなる。
「仲良くやってますよ」ぶっきらぼうにそう答えた。
*
*
*
神谷が宇田に気持ちを伝えたのは、3年前のことだった。
長く付き合っている彼女がいることすら知らなかった。
宇田の顔は、みるみる驚きの表情に満ちて「俺、彼女がいるんだよ」とだけ言った。ごめんな、ありがとう、とも。あっさりとした返事だった。
宇田さんは会うたびに、絵里とうまくいっているのか必ず聞いてくる。僕が絵里と別れたら、また自分に告白してくるのではないかと怯えているようだった。
そのくせ、振った相手を平気で呼び出すのだ。
でも、宇田が奔放なタイプじゃないのを神谷は知っていた。
僕を誑かして遊んでいるわけではない。
あの人はいつも"ダメになった時"にだけ、僕のことを呼び出す。
周期的にその波が来るのだ。
この3年間、それをずっと、繰り返していた。
*
*
*
宇田のアパートへの道は複雑だったが、神谷はもうすっかり覚えてしまっている。近道まで。
途中で、居酒屋の扉に貼られた沖縄旅行の広告が目に入る。
雨風にさらされて、真っ青な海が薄汚れていた。
「宇田さんは、海のそばで暮らしてたんですよね」
大きな横断歩道で立ち止まって、宇田を見つめる。目元には深いクマが刻まれていた。ダメになっている。僕を求めてくれる時の宇田さんといえば、いつもこの顔をしていた。
「海のそば、って言えば聞こえは良いけどなあ」
雨が弱まった空を見上げて、宇田は傘を閉じた。
「海は怖いぞ」
まぁでも、そう呟いて続ける。
「高校の通学路の途中に狭い路地があって、そこから少し海が見えて、その景色は好きだったよ」
信号が変わり、歩き始める。
神谷は、宇田の後ろ姿から目を離せなかった。
隣には誰かいたのだろうか、と思った。
宇田は振り返って、「…あの暗さは嫌いだったけどな」と笑った。
大切に、懐かしむ笑い方だった。
その言葉に反して、暗い故郷への愛着を含んだ声色だ。
神谷は、優しく、少しくぐもったその声が好きだ、と思った。
宇田は石川県の、限りなく福井側に近いあたりで生まれ育った。
故郷の地は不思議な存在だ。
暗く寒い北陸の地。
厳しく泡立つ、黒い日本海。
湿気を含んだ、骨に沁みる冷気。
仄暗く低い雲と、強い風で波打つ銀色の稲穂。
どういうわけか、あの酷く陰鬱な土地は宇田の心を捉えて離さない。もう何年も帰っていなかったが、それでも鮮明に思い出せた。
「行ってみたいな。石川って金沢しか行ったことないですよ。そもそも日本海って見たことないかもしれないな」神谷は無邪気に言った。
東京で生まれ育った神谷にとって「地方の地元」という存在はなんとなく羨ましい。
宇田は数秒の沈黙のあと、
「いいんじゃないか、子上さんと温泉にでも行けよ」
そう言った。
投げやりで、悪びれず、真面目な顔で。
神谷は「そうだね」と微笑む。
それで、自分を納得させようとした。
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