似た者同士ーLAの旅の思い出

Facebookなどでぼんやりとしたイメージのまま書き込んでいると、連想ゲーム的に「あれもこれも」と思い浮かび、話がぽんぽんと飛ぶことがある。そして当初書こうと思っていたものとは全く違ったものが出来上がることがある。
とはいえ、連想的に思い付いたもの同士は多くの場合なんらかのつながりを持っているわけで、それをきちんと見極めて書けばそれなりに面白いものになることも少なくない。
ここに書いたものも、ある旅の思い出を書こうとポチポチやっていて、やはり連想ゲーム的に思わぬ方向に飛んで飛んで飛んで、回り道をしながらなんとか書き上げたものだ。

【ボクシングジムで見たアフリカ系アメリカ人たち】
振り返ってみると、もう25年も前のことになる。
19歳当時、僕はアメリカでボクシングをやるために一人渡米した。
頼る人も当てもなくの旅で、カリフォルニア州のサンタモニカのユースホステルを拠点にしてボクシングジム巡りをしていた。
サンタモニカを選んだのは、海が近くて明るく華やかな土地柄だったこと、ユースホステルの宿泊料金が安かったこと(当時確かドミトリーで14ドルだった)、そして当地のローカルバスであるサンタモニカビッグブルーバスの使い勝手が良かったことだ。

このバスはサンタモニカを拠点に各地に乗客を運んでおり、キアヌ・リーブスとサンドラ・ブロックをスターダムにのし上げた映画「スピード」の舞台となったことでも知られている。南はサンディエゴから北はヴァンナイズ、シャーマンオークスまで多くのジムを訪ねたが、印象に残っているのはイーストLAの「ブロードウェイボクシングジム」だ。
ジムのある辺りは危ない地域だとは聞いていたのだが、バスを降りた瞬間にそれまでとは違う空気を感じた。
通りは古びていて綻びがちで、住宅の周りは金網で仕切られている。
ふと視線を感じそちらを向くと、太った黒人女性が金網の向こう側で両手を腰にあててこちらを睨んでいた。
もしかしたらただ日差しが眩しかっただけなのかもしれない。今の僕なら微笑み返すくらい出来るかもしれないが、初の海外一人旅だったこともあり「余所者が来た」という女性の警戒心、敵対心の顕れのように感じられた。
しかし僕は決意を持ってやってきたのだ。
こんなことで逃げ出すわけにはいかない。
それに、すぐ近くには警察署もある。いざというときは逃げ込めば何とかなりそうだし、ジムもすぐそこだった。

通りからジムに続く階段を上ると、広いジムフロアにはリングが二面あり、サンドバッグやスピードボールといったボクシングトレーニングの設備とともに、ウェイトトレーニング用の設備も充実している。
トレーニングをしているのは黒人ばかり。一人だけメキシコ系と思しき男がウェイトトレーニングをしていたが、彼と僕を除くと、トレーナーも含めて皆黒人だ。
映画の「ロッキー3」を観た人は分かると思う。
余所者をみるとギラリ。鋭い視線が飛ぶ。
先程の女性と同じ目付きだった。
見学中に一度だけ、トレーナーがにこやかに話しかけてきたが、他は最初にジロリと見たきりで見向きもしない。
とはいえ、ジム内の雰囲気は明るかったと言って良いだろう。彼らは仲間内ではいつも笑顔で、インターバル中など雑談し、時折ダンスに興じる程だった。
僕はそのジムを気に入り、ここで活動したら面白いかもしれないと思った。しかしまだジム探しの旅をはじめたばかりで、もっと色々なジムを見たいと思い、さらに幾つか見て回った挙句に足を伸ばしたラスベガスのジムを拠点にすることに決めた。

僕はその後、ラスベガスの小さなカジノでのデビュー戦にこぎ着けたが敗れてしまった。そして一時帰国してテレビを観ていると、全米最悪の犯罪多発地域だというイーストLAのある地区の映像が流れた。
あのジムのすぐ近くにあった警察署の映像だった。
危険な空気は感じていたが、全米最悪とまでは思わなかった。確か、15分に一度凶悪犯罪が起こる計算になるとか、そんな風に言っていた気がする。僕がジムを訪ねたのは真昼間だったから良かったが、日が暮れてからだったら危なかったかも知れない。

【ギャンングたち-アフリカ系vsメキシコ系】
さて、またも日本のテレビ番組の話だ。
テレビ東京系『ハイパーハードボイルドグルメリポート』。「世界各国の普通じゃない人たちがどのような食事を摂っているのか?」を紹介する特番で、吉本興業の小藪千豊が進行を務めている。
僕はこのテレビ番組をFacebookでフォローしているある有名人アカウントの書き込みで知って、すぐにTverで視聴した。
僕が視聴したのは、2017年10月3日・10日に渡って放送されたもののようだ。
その番組の中に、イーストLAで死者が何人も出るような抗争を続けているというアフリカ系ギャングとメキシコ系ギャングの食事に密着するものがあった。
番組には「生きることは食う事」とかいうキャッチコピーが付いていて、コピーのそのままに、番組はギャングたちの生き様を見事に映し出していた。

メキシコ系もアフリカ系も、どちらのギャングもよく似ていた。

 アフリカ系とメキシコ系のギャングは、それぞれ共にテレビの取材を訝る。しかし日本から取材に来たというと、どちらも誇らしげに自分たちの文化を惜しみなく見せようとする。

あるメキシコ系のギャングがテレビクルーに食べさせたのはナチョスだ。
美味いだろ?
そう言って自分も頬張る。
メキシコに行ったことはあるのか?
そう質問すると、彼は「行ったことはないが、いつか行ってみたい」と答えた。
今までやった一番悪いことは何か?
そう質問すると、メキシコ系ギャングは一瞬考え、なぜか涙ぐみながら「ちょっと喧嘩したくらいだよ」と答えた。

アフリカ系のギャングが食べさせたのは、イーストLAで一番との評価を受けた店のハンバーガーだった。
美味いだろ?
アフリカ系ギャングは仲間が抗争で多く死んでいると言って「俺もいつ死ぬか分からない。だから美味いものを食うんだ」と言った。
いつ死ぬか分からない、と言いながら、ハンバーガーの素材がオーガニックの食品であることにこだわっているようで、それは生への執着のように見えた。

彼らは本当によく似ていた。
最初は強がって怖ろしげだったが、一旦認めると優しく振る舞う。
勿論、彼らはそれまで多くの反社会的な振る舞いをしてきたのだろう。しかし、人間は多かれ少なかれ環境に左右されて生きていくものだ。

彼らの共通点はまだある。
メキシコ系がメキシコに行ったことがないと答えたのに対し、アフリカ系もアフリカには行ったことはないだろう。
両者とも、アメリカで暮らす「異民族」だ。
メキシコ系はナチョスを美味そうに食ったが、あれはアメリカ製メキシコ料理だ。
恐らく、彼らは自身のルーツ、メキシコやアフリカの歴史を知らず、本当に憎むべき相手を知らず、マイノリティー同士で対立する。
彼らは、どちらが先に手を出したのか知らない。
知らないままに彼らは憎み合い、なぜ対立しているのか分からないまま弱者が弱者同士で対立する。直接的には、彼らの(裏表問わない)仕事や縄張り、その中で起こるイザコザから対立するのだろう。愚かと言ってしまえばそれまでだが、彼らが住んでいるような地域で、彼らのようなルーツを持つわけでもない僕としては、「運が良かった」以上の何ものとも思えないでいる。

【アメリカのメキシコ人たち】
ブロードウェイボクシングジムを訪ねてからしばらくして、僕はやはりLAのあるボクシングジムを訪ねた。
そこはメキシコ系の多い地域で、そのジムでもメキシコ系、もしくはメキシコ人と思しき選手たちがトレーニングをこなしていた。
彼らもやはりダンスに興じるなど、仲間内で楽しくトレーニングをこなしているという印象を受けた。
壁に描かれている有名なチャンピオンたちは、皆メキシコ人やメキシコ系だったと記憶している。

そしてこれは数年前のことだが、お世話になった大学の先生からメッセージがあった。先生のベルリン在住の友人にアマチュアボクサーの女性がいて、渡米する彼女に「LA周辺で良いボクシングジムはないか」と質問を受けたそうだ。先生は元々ボクシング記者だったが、西海岸での取材経験は皆無で全く分からないので、僕に教えてくれないかということだった。
僕はLAの中心部からサンディエゴまで、かつて巡ったジムをGoogle検索に掛け、訪ねた当時のことを思い浮かべて目を細めていた。
勿論「ブロードウェイボクシングジム」も検索してみたのだが、検索を掛けてヒットしたジムがかつて訪ねたあのジムなのか、少々信じられない気持ちだった。
そこはアフリカ系ばかりの「ロッキー3」のようなジムではなかった。練習風景や集合写真に映っていたボクサー達の殆どはメキシコ系だったのだ。

【社会は変わり、歴史は残る】
最初に「これを書こう」と思ったのは、今から20年程前のある出来事だ。
陽が落ちてからリトルトーキョー辺りで乗ったローカルバス内で、アフリカ系とメキシコ系が一触即発と言った感じで対立する場面に居合わせたのだ。

そのバスには、アフリカ系の男女十人程度と、メキシコ系の若い男が二人。白人は乗っていなかったように思う。
東洋人は、僕と僕の当時の彼女の二人だけ。
運転手もアフリカ系だった。

何があったかの知らないが、白いシャツにネクタイを締めたインテリ風のアフリカ系の男がメキシコ系の若い男二人と少々揉めているようだった。とはいえ、バスの車内には談笑する声が漏れており、特に気にはしていなかった。
しかし、メキシコ系の男が「ニガー!」と叫んだ瞬間、バス内の空気は一瞬にして変わり、空気が突き刺さってくる程の緊張感に包まれた。運転手以外のアフリカ系の男性(4、5人程度だったと思う)が椅子から一斉に立ち上がってメキシコ系を取り囲んだのだ。
しかも、一人は筒状の短い棒のようなものを腰から取り出したかと思うと、シャキーンと一振り。特殊警棒をスタンバイした。
メキシコ系の二人は顔面蒼白になった。

バス内では彼ら以外は皆押し黙り、メキシコ系は小さくなりながら自分を取り囲むアフリカ系とやり取りをしていた。
どの位の時間が経ったのか、僕らを救ってくれたのは運転手だった。アフリカ系の彼がバス停でもないのにバスを止め、メキシコ系二人に「お前ら降りろ!」と促すと、二人はコソコソと降りていったのだ。
そしてメキシコ系を取り囲んでいたアフリカ系の男の全てが(一人は特殊警棒を収め)席に戻り、その瞬間、バス内の空気が緩んだ。

そして騒動から4、50分くらい経っただろうか? 終点である空港のすぐ近くのバス停に着いた時、運転手が降りようとする僕に「お前はブルースリーに似てるな!彼は俺のアイドルだったんだ!」と言って、上手く理解出来ていないかもしれないが、ブルースリーっぽく奇声をあげて身振り手振りでカンフーの真似事をして「お前がやっちまえば良かったんだよ!」とか、そういうことを言っていたように覚えている。

それから随分と経って、僕は30歳でボクシングを引退し、33歳で入学した大学の西洋史の講義で「差別される度に自分がユダヤ人であるということを思い出す」という言葉を教わった(シオニズム運動の提唱者であるテオドール・ヘルツルの言葉だったと思う)。
アフリカ系の彼らもまた、差別される度に結束力を高めてきたのだろう。
バス内の一件があった当時は、メキシコ人を中心とするラテンアメリカ人が以前よりも増え始め、表舞台でも活躍しだした頃だったと思う。

僕がブロードウェイボクシングジムを訪ねたのは25年前、バス内の一件は20年くらい前のことだ。おそらくそれ以降、アメリカではメキシコ系を中心にラテンアメリカの人々は増え、アメリカの社会構造の中で結束力を高めたに違いない。

『ハイパーハードボイルドグルメリポート』を見て、「もしあのバス内に、アフリカ系と同じだけのメキシコ系の男達がいたらどうなっていただろうか?」と考えた。

やはり僕は運が良かったのだろう。

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