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子どものしもべ

心理学というものを知ったのは、もうかれこれ30年前。
「りんごちゃん、頑張れば読めるでしょ?」
といって、若い牧師から何冊か心理学や哲学書みたいな本を渡された。
上っ面だけでも聖書はとうに読破して何巡目かではあった。
宗教の話でなければ会話にならない子どもだったともいう。
安定した友達は6年生になる頃には1人もいなくて、かろうじて繋がりがあったのは教会だけだった。

牧師先生はよく分かっていた。
この子は普通の会話ができない。
逆に神様や心の話なら他の子よりはるかに深く会話できる。
ただし、心に関しては自分の問題だとは捉えきれない。

牧師先生は神学的な心の構造だとか、心理学的な心の理解やなんか、色んな事を教えてきた。
色々図解で説明してきたけど、特に言いたかったのは自分自身を愛するということについて。

「聖書に書かれている、自分を愛するように人を愛せよって事はね、まず自分を愛することができてないとできないんだよ」
(当時まだKinKi Kidsも小学生)
初めて聞いたときは驚いた。
「自分を愛するって罪じゃないんですか?」
「罪なんかじゃない。むしろ、神が君を愛しているのに、それを否定するのかい?」
(なるほど、そうなのか)
そう言われれば理解できた。

「りんごちゃん。君がどんな思いをして生きてきたか、先生はずっと見てきたからよく分かってるつもりだ。心配なのは、君は自分を愛していないということ。自分を愛していなければ、神様を愛していると言ってもそれすらナンセンスなんだよ。ひいては、神様のお役に立って 人に愛を尽くせる人にはなれないんだよ」

そう言って、交流分析の本を開いた。

若い牧師は救道していた信者の自殺や、ウチのような機能不全家族の子育て支援など、聖書だけでは救いきれない現代の心の病のサポートに苦慮していた。

私は牧師から交流分析のことを教わって初めて、「自分は生きづらい」という自覚ができたと思う。
教会でこれを教わっていなければ、本当に教会しか救いを求められなかったかも知れない。

当時の牧師先生は、心理学があればより多くの信徒の心を救えるという手応えを感じたことだろう。
1990年代初め頃、「カウンセリングできます」という広告を打つ教会が相次いだ。
当時は臨床心理士の資格も制定されていなくて、誰でも聞きかじりで「カウンセリング」と言い出したのだ。
うちの牧師先生も例に漏れずそうだったんだけど、今ではさすがにそんな恥ずかしいことを公言している教会はないと思う。

結局「公言したものの行き詰まる」「結局依存のツールになっただけ」という事も多かっただろう。

当時どこのソースか分からないけど、聖職者の7割がメンタルが不健康だというデータがあったらしい。そういった失敗の歩みを経て牧師自身のメンタルケアにもより理解が深まっていったのだと思う。

このとき、牧師先生は「共依存」についても教えてくれていた。
「僕も君もこうなる危険性が高い。お互い気をつけていこうね」

子ども扱いせずに知識を与えてくれた牧師の功績は大きかった。

私が医療的サポートに繋がって、本当のカウンセラーに出会うのはこれから1~2年後。


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上の娘が生まれたとき、この牧師が病院まで車を出してくれた。
赤子に目線を合わせるように膝をかがめ「あなたのしもべです。これからよろしくおねがいします」と挨拶した。

この牧師の元を去って久しい。


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