痛みと感謝を統合する。

4歳娘と7歳息子。今までは単独で遊んでいたんだけど、この冬休みから突然めっちゃ遊ぶようになった。

外ではだいたい走って競走なんだけど、だいたい娘が負けて泣く。そらそうだ。兄がちょっと自分の前を走っただけで「このままじゃ負けちゃう〜…」って顔が歪んで走りながら泣き始める。

いつだって本気。兄の年齢なんて娘には関係ない、そして兄も勝ちたいから勝つ。

それでも兄は数回に一回、わざと遠回りしたり、自分のスタートを遅らせたりして勝たせてあげる。やさしさでもあるし、毎回大泣きされるのがめんどくさいのもあるらしい。笑 

もう投げ出しそうだった妹も勝てるとまた本気で喜んで、かけっこは永遠につづく。

家で遊んでいても、ほっこりするような二人の笑い声が聞こえたと思ったら、5秒後にはケンカ。兄の指示に従わない、妹は妹のやり方で遊びたい、兄が怒って、妹が泣いて・・・・・そして、また30秒後には二人とも上を向いて大笑いしている。

夫:「あれ?今ケンカしてなかった?」
わたし:「してた。いいよね、大人もあんな風に常に消化しながらやりとりしたいね。」


そう、常に感情を表現して、

「嫌なものは嫌だコンニャロー!うぎゃー!」
「楽しいって最高〜♪うっきゃー♪」

と感じたときに出すから、妬むこともない。いつまでもネチネチ言うこともない。そのときにうぎゃー!と出して、うっきゃー!喜んで、ハイ、おしまい。
毎瞬毎瞬を生きている。


それでも、ちょっと兄は我慢しているところもあると思う。

というのは、

「お母さん、家の中のボスって誰かわかる?」
「え、お母さんやろ。」
「違うよ、カエデちゃんだよ。この家のボスはカエデちゃん。大変だよね。」

って言ってきたから。笑

それを「カエデちゃんはいいよなぁ」ということがある。

彼はわたしがかなり威圧的に育てきたので(ワンオペで必死だった)、顔色伺ったり、我慢したり、空気を読んだりすることができるだけに、妹のご機嫌を取ることもある。

さらに、わたしが娘の自由っぷりにゲンナリしていると「片付けないとお兄ちゃんもう遊んであげないよ?」と娘をおどしたりもする。。笑

(わたしがあまり望んでいないカタチなんだけど、彼なりの協力とやさしさと思いやりだ。)

家の中で調和をする小さい頃のわたしを見ているようで、前まではただただ心が痛かった。

でも夫が、

「みゆきにしてもリン(息子)にしても、その経験に良い悪いはないよ。それによって培われるものがあるやん。だから今のみゆきがいるんやろ。」

と。

おっしゃるとおり。現にあの経験で人の心を無意識に観察し続けたから、今NVCに出会えているんだし、さらにNVCが活きているんだし、小さな頃の経験に感謝なのだ。

といっても、今はわたしがそう思えるようになったからであって、ちょっと前までなら「その経験に良い悪いはない」と言われても「そんなこと言われてもわたしは辛かったんだ!!」と受け入れられなかっただろう。

そして、今でも痛みが消えたわけではなくて、

痛みを感謝で包み込んでいる感じ?
痛みと感謝が混ざり合って、マーブル模様になっているような?境目がどこにあるかわからないような感じ?
痛みと感謝の統合という感じ?

そんな風に感じるようになってきた。

だから息子にとっても人生の通過点というか、それも経験だった。わたしもあの時はあの時のベストを尽くしていた。

ただ、わたしがどうも思い切れないものがある。わたしの捉え方が本質的じゃなくてズレているのかもしれないけれど、それは、

「みんな起こることすべてを経験したくてその命を持って生まれてきた」

って最近よく聴くことば。

じゃあ、子供が虐待されることを経験したくて生まれてきてるの?虐待する側も虐待することを経験したかったの?誰かをころしてしまったり、ころされてしまったり(漢字使うのもイヤなんだけど)、急に刺されたり、襲われたり、それも経験したくて生まれてきてるの??そしてそれを目撃するわたしたちも目撃して感情を揺さぶられたいの??

それも全部ひっくるめて「すべては愛だ」って言われたら、それ以上なにもないのかもしれないけれど、わたしはその域にはいないし、今はいきたいとも思えないなぁ。


そんな問いをずっと持ちつつ、息子の話に戻すと、わたしが威圧的に育ててしまったのも彼が経験したかったのかどうかの答えはわたしの中にはなく、それはわからない。

わたしが決めることでもなく、わたしが「それも愛だったのよ」なんてもちろん言えない。それは、自分がそう思いたいだけで押し付けだなぁって。息子本人がこれからの人生を通してどう感じるか。

ただ、妹のようにもっとのびのび生きたいよなぁ、自分も自分らしくありのままで生きたいよなぁっていうのが、今の彼の中にあるのはわかるので、今からでも「こうありたいのかな?」と言葉にしてわたしが彼に問いかけることはできる。

こうして子供たちの遊びとケンカの出来事から、たくさんのことを想い巡らせてくれる、学ばせてくれる、問いを持たせてくれることに、感謝します。


ふぅー。
書いた。

今日はこのnoteが感謝のジャーナル【58】でした。

さて、今日も生きよう。
この命を生きよう。
みゆきを生きよう。

そして今日も、世界が感謝で満たされますように。

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今日からでもいつからでも一緒に
感謝のジャーナル」をはじめませんか?

わざわざ書かなくても感謝してるよ!
というのも素敵。

でも書き留めていくとさらに豊かさ倍増するなぁと体感しています。

自分だけの感謝の本♡
(noteだったらマガジンが作れて便利♡)

一緒に「感謝の循環」をココから広げていけたらうれしいです♡

Peace in oneself, Peace in the world.

では、感謝の一日を♡













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