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イワン・イリイチの死★トルストイ

ロシアの文豪、トルストイの『イワン・イリイチの死』は彼の短編小説の中では最高傑作ではないだろうか。
裁判官としてそれなりの地位を得た主人公が不治の病に罹り、精神的にも肉体的にも苦しみながら、病床の上で死と葛藤し死んでゆくまでの、内面の葛藤を描いた作品である。


イワン・イリイチ氏は死にゆくギリギリまで、私達とほぼ同じ考え方であった。自分の人生を如何に快適に上手く過ごせるか……

たが、彼は働き盛りの45歳で死と向き合い、死にゆくほんの少し前に本当の秘密に気づく。まずは、病床で自分の心の声と対峙する。


「お前には何が必要なのだ?何が欲しいのだ?」彼は自分に向けて繰り返した。「何が欲しいって?苦しまないことだ。生きることだ」彼はそう答えた。「生きるってどう生きるのだ?」心の声がたずねた。「だから、かつて私が生きていたように、幸せに楽しく生きるのだ」「かつてお前が生きていたように幸せに楽しくか?」声は聞き返した。そこで彼は頭の中で、自分の楽しい人生のうちの最良の瞬間を次々と思い浮かべてみた。しかし不思議なことに、そうした人生の最良の楽しい瞬間は今やどれもこれも、当時そう思われたのとは似ても似つかぬものに思えた。

改めて人生を回顧しイワン・イリイチ氏は正体不明の違和感を感じたのでしょう。最良の楽しい瞬間の思い出を持っていたはずなのに、おかしいと。


自分では山に登っているつもりが、実は着実に下がっていたようなものだ。世間の見方では私は山に登っていたのだが、ちょうど登った分だけ足元から命が流れ出していたのだ……。そしていまや準備完了、さあ死にたまえ、と言うわけだ!なぜこうなったんだ?こんなことありえないじゃないか。人生がこれほど無意味で忌まわしいものだったなんておかしいじゃないか。

それなりに社会的地位も得て、そこそこ満足していると思っていたイワン・イリイチ氏は、死を目前にして自分が真逆に進んでいたことに気づいてしまう。人生は進めば進むほどエゴの言いなりになり、気がつけば、さほど欲しくもないものを追い求めていたりする。気づくのは大抵遅すぎる頃だ。だからこそ、昔から先に気づいた賢者たちが手遅れになるな眠ったまま生きるな目を覚ませと手を替え品を替え言い続けてくれているのだ。


ふと彼の頭に、もしも本当に自分の全生涯が、物心ついてからの生涯が「過ち」だったとしたら、と言う考えが浮かんだのである。これまで全くありえないと思われていた事、つまり自分が一生涯間違った生き方をしてきたということが、実は本当だったかもしれないという考えが脳裏に浮かんだ。

今までの人生は物心ついた頃から、何者かに乗っ取られていたことに気づいてしまったのだ。

彼は最後の三日間、恐ろしい叫び声をあげ続けた。あることに抵抗していたからであろう。

彼は感じていた。自分が苦しむ理由はこの真っ黒な穴に吸い込まれようとしているからだが、しかし、もっと大きな理由は、自分がその穴にもぐり切れないからだ。穴にもぐり込むのを邪魔しているのは、自分の人生が善きものだったという自覚であった。まさにその自分の人生の正当化の意識がつっかえ棒となって彼の前進を阻み、なによりも彼を苦しめているのだった。

自分が手放したくなくて、握りしめていたものに気づく。俺の人生というプラカードを降ろせないのだ。
死を恐れるものとは何か、何者か?その正体を知った時に死というものが消える。
死ぬ者がいなくなったからだ。イワン・イリイチ氏も最後はこう言って息を引き取った。

「死は終わった」彼は自分に言った。「もはや死はない」

そうなのだ、俺の人生なんてものは実体がなかった事に気づいて、プラカードを放り投げたのだろう。

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