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50歳をこえて生きていること

人の寿命。若くして亡くなる人もあり、長い老年期を生きる人もあり。自死を選ぶ人がいたり、病と闘い生きる人がいたり。生きることには二種類ある。社会的に生きる。そして、生物として生きる。ただ息をしてそこに存在していることは難しくはない。しかし、社会的に、食べものを獲得して第二次欲求を満たして生きていくことは、そうそう簡単なことではない。我々は訓練され、社会に埋め込まれて、日々気が付かずに「生きて」いるが、起き、顔を洗い、食事をし、外に出かけ、働き、学び、帰宅し、寝る。このことだけにも、数多くのことが必要なのだ。帰宅する家がある、食事を作るためのお金と道具と技術がある、等々‥‥‥。そしてその前提として、それらをしたいという欲求があることだ。こころに、「生きる」という灯がともりつづけているということだ。


友人や同僚、親せき、ネットやニュースで取り上げられる人々と比べずに、自分自身の尺度で、自分の人生や今の自分を測ることは今や至難の業だ。禅の修行でもしないと無理なのではないかと思うほどだ。しかし、比較し、学ぶということもある。あっ、そういうやり方があったのか。この人のようになりたい。すごいなぁ。あるいは、こういう人にはなりたくない。(笑)
私たちは社会の中で生きている。いくら一人でいても、一人で生きている、一人で生きたい、人が恐い、と思っても、やはり社会の中で生きている。
所詮、否が応でも、私たちは皆、一番深いところでは一人なのだ。自分という宇宙とその宇宙の旅の中にいるのだ。どう生きてもいい。どう死んでもいい。すべての自由を持った一つの宇宙なのだ。人生はその、数十年の旅なのだ。


遠くに母がいる。父がいる。兄弟もいる。友人がいて、仲間がいて、知り合いがいる。いいやつ、いやなやつ。子どもがいて、孫もいるかもしれない。あるいは、この中の誰かはいないかもしれない。誰も、いないかもしれない。自分と、そして、周りにいる人たちと。


生きるとは、自分の欲求を感じ、それを表し、そしてその実現のために努力することだ。普通の人には当たり前すぎて、何を言っているんだと言われるだろう。私は今まで、これができなかった。できないで半世紀生きてきた。あと何年残っているのかわからない。自分一人で立って生きているということと、他の人たちが私の周りにいるのだということと、そしてそれでも、私はどこまでも私という一人の人間なのだということを、1秒1秒の中に確認して生きていきたい。


ああ、今日もいい天気。青い空。白い雲。さあ、生きよう。



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