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あの日のこと

ベランダから階下を見ていた。

とても高いはずなのに、地面がせり上ってくるように近づいてくるのを感じた。


柵に足をかけた。

そこで私は、自分の身体が震えていることに気付いた。

片手に持った遺書が、いつの間にか力いっぱい握りしめられていた。

だが、確実な恐怖というものはなかった。

これが正常性バイアスというものかと、頭の片隅でぼんやりと思った。

正常性バイアスに包まれた私の恐怖は、薄くて透明な膜のようなものだった。

少し切れ込みを入れればはち切れるであろう脆い膜。

しり込みして、柵から下りた。

膝は笑えるほどに震えていた。



地面に向かって遺書を投げた。

ひらりひらりと揺蕩いながら、それはゆっくりと地面に着陸した。

私もああなるのかと思った。

また柵に足をかけようとしたとき、笑い声が聞こえてきた。

ちょうど帰宅途中と思われる、女学生たちのものだった。

無垢で心から喜びを感じている、甲高い声たち。

私はなんだか拍子抜けして、また柵から足を離してしまった。



それから1時間ほど、夕風に髪を遊ばれながら私は立ち尽くしていた。

足に合わないパンプスの爪先をぼーっと見ていた。


もう帰ろうよ。日が暮れるよ。


そんな声が聞こえた気がした。

私は呆けたまま、ベランダから引きあげた。

リビングのフローリングに足を置いた瞬間、「おかえり」と誰かが言った。


ただいまと応えた。


裸足で降り立ったフローリングは、夕焼けに染められて、少しあたたかかった。

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