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苦い水と甘い水、ホタルが好きなのはどちら

コーヒーにまつわる物語bySTORY CAFE

まだ夜になると肌寒くも感じられる梅雨のころ。

ホタル見物を打ち出した温泉街へ山紫陽花の紅子はひとり、旅に出ていた。

宿は若者に人気のレトロな作りだった。年配のおじさま、おばさま方に言わせれば、老朽化して経営者の変わった冴えない旅館なのだけど。

紅子にとっては見るものすべて珍しく、宿の鍵が透明の細長い色のついた羊羹みたいなのを見て、テンションが上がるのだった。

大浴場のシャワーがレバーを押した時しか出ないこと以外に、特別不便はなかった。

紅子は温泉に入ってさっぱりした顔に、眉と口紅、ほほ紅だけさらっと施し宿を出た。

山紫陽花の紅子

向かうは川沿いにある小料理屋だ。テラスからホタルが見られるという。

温泉街の裏通りには川が流れていて、その川沿いの遊歩道を10分ほど歩いただろうか。
無事、小料理屋に辿り着いた。

紫色の暖簾が風に揺れている。木で出来た引き戸を開けると、カウンターと4人掛けのテーブルが数個、奥の方に座敷も見えた。

小柄で綺麗な女将さんが出迎えてくれ、2階に案内された。

2階は畳に座るスタイルで、カップルが2組食事をとっている。
紅子は部屋の端のテーブルに案内された。

しばらくメニューを眺めてから、「彩り」というコースを選んだ。
生ビールも一緒に。

紅子には飲酒の習慣がない。
飲めない口ではないが、酔うと風呂や食事の片付けが面倒になるから、いつのまにか飲まなくなった。


今日ぐらいは一杯飲もう。
店に来る前からそう決めていた。

その運ばれてきた生ビールの美味しいこと。
泡がなめらかに喉を通り、苦みが後から追いかけてくる。胃が一気に冷えて喜んでいるのがわかった。

ビールってこんなに美味しかったっけ?


苦いものを美味しいと感じるようになったのはいつからだろう。
それなのに、
人生にスパイスなんていらないと思うようになったのはいつからだろう。

優しくて、生きやすい人生でいい。
苦いのはコーヒー、ビール、チョコレート、口に入れる物だけで充分。

見てくれが良くて、近いたら火傷しそうな男を格好良いと思っていたのはいくつまでだったろう。

お日様みたいにあたたかくて、不格好でもいいから、まるっと全部包みこんでくれる、風呂敷みたいな男が魅力的に思えるようになったのはいつからだろう。
そんな男が目の前に現れて、私のためにコーヒーを惜しみなく淹れてくれたら、極上。

グラスに白い泡の跡が何層もついたころ、紅子はもう酔いが回っていることを自覚した。

お料理は全部美味しかった。残さずすべて頂いた。

食後のコーヒーはテラスへ持ち込んで良いように、紙のカップに入れられ、温泉饅頭が添えられていた。

テラスは入口に足元を照らすライトがあるだけで、奥の方は真っ暗だった。
川に向かって木製の長いベンチが設えてあり、そこに座ってホタルを眺めることができるという。

紅子は空いているベンチに座った。座ると真っ暗闇に吸い込まれるようだった。暗闇に目が慣れたころ、ふわーと小さな光の粒がゆっくり舞っているのが見えた。


ホタルの光は想像していたよりずっと儚かった。目を凝らさないと探せないほどの、小さくて弱々しい光だった。
それでも真っ暗闇の中で皆の注目を浴びたホタルたちはほこらしげに飛び交っているようにも見えた。

手の中のコーヒーが温かい。温泉饅頭をかじってから飲むと、また美味しい。

来年もきっと来よう。
隣には風呂敷みたいな男がいて、ホタルとコーヒーを楽しむんだ。そして、温泉饅頭をお土産に買って、家に帰ったらその男にコーヒーを淹れてもらおう。

ホタルを見ながらぼんやり、紅子はそんなことを頭に浮かばせていた。


おしまい。

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いかがでしたでしょうか?
皆さんは苦い食べ物はお好きですか?

コーヒーにまつわる物語を以下のマガジンにまとめました。
とある駅のとある路地の先にあるSTORY CAFEにてご提供している物語です。
お時間あるときにふらっとご来店くださるとうれしいです。

次回はコーヒーにまつわる物語はおやすみして、この物語のモデルになった温泉街の魅力をエッセイでご紹介できたら、と思っています。来週金曜日更新予定です。

最後までお読みいただき、そして、スキをいつもありがとうございます。
それでは皆様、残りの夏も存分に楽しめますように。
良い週末をお過ごしください。

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