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利用者の死から学べること

施設利用者は不死鳥ではない。

とかく80歳を過ぎても、元気な利用者たちと一緒に笑い、悩み、励ましの暮らしのプロセスを共有していると、スタッフは死に対して無頓着になりやすい。 

私は数年前、ある末期癌の利用者の死に直面したことをきっかけに、障害者支援施設のスタッフでは珍しく「看取り」に関する勉強や研修に参加しまくった。

そのなかで出会った言葉

遺体はケアの通信簿


寝たきりの方や車椅子利用の方へ、丁寧なケアを怠ると、上肢は指、手首、肘、肩の関節が、下肢は、股、膝関節が拘縮し始める。

次第に身体の中心に四肢のパーツが硬く集まってくると、着脱介助や排泄介助が非常にやりにくいうえ、利用者も苦痛を伴いやすい。ちなみに亡くなったあとにも、不都合が生じやすく、下肢(股関節や膝関節)に拘縮があった人は、棺の蓋に膝がつっかえ、中におさまらないこともある。

また亡骸を前にしたスタッフの様子ひとつで、日々のケアの充足度が分かる。

亡骸の枕元にスタッフがその方が食べたかったであろう、好きなものをたむけ、「可哀想に。たくさん食べたかっただろうにね」とシクシクと泣きながら後悔する様子は、『好きなことをさせてもらえなかった毎日なんだ』と思わせ、もう見るに耐えない。

すなわち、ご遺体は我々のケアの質を如実に表している通信簿なのである。

まず拘縮が出ないようにするための方法はある。学ぶべきは、ポスチャリング、シーティング。

そして、食べれる時に食べたり、お出かけできる時にお出かけをしたり、笑いたい時に笑ったり、会いに行ける時に会いに行ったりと、できることの範囲が広いうちに、できるだけのことをやり、可能性の範囲を広げていく。

死は必ず来る。
そこで利用者の時間は止まるが、従事するスタッフの学びは、止めてはならない。

「おぅ、俺の死、無駄にしとらんか」
「勉強しとるんか」
「そんなんでいいんか?」

今も叱咤激励が心に響く。
悔いのない支援を。

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