見出し画像

「素敵フィルター」をかけすぎない。

ママでも妻でもない「私」だなんて、2年以上も忘れていた。

仕事でもなく、誰に会うでもなく、自分のためだけに外へ出た。母親になってからはじめてのことだった。


家族の朝食したく、洗いもの、簡単に掃除。娘のお世話について夫に引き継ぎをして、父子で出かけるための荷物を用意し、自分の身じたくをして、家を出たのは目標時間より10分も早かった。

電車に乗ったものの、どこか手持ち無沙汰で落ちつかない。スマートフォンでできる範囲で仕事のアイデア出しなどを進めた。いつもはベビーカースペースに立っているから、座席に座れるなんて久しぶりだった。

足が向いたのは行き慣れた丸の内。電車を降りて、ホームを見渡したあとで「そういえばエレベーターに乗らなくたっていいんだ」と気がつく。待たずに階段を登れることがうれしい。


自分のためにお金を使うのが苦手だ。

なんだか悪いことをしているような気分になるのはどうしてだろう。でも、今日の私には心強い味方があった。それは何年も引き出しの奥で眠っていた、たっぷりの商品券。それにあらかじめ決めておいた予算を合わせたら、結構な買いものができる。

(よく考えると、自分でも仕事をはじめたのに、そのお金で自分のものを買うことがほとんどなかった。自分のものは毎月のおこづかいをやりくりして調達するだけだった)


オープンと同時に、事前に調べておいたコスメカウンターにまっすぐ向かう。いつもは口コミを調べてネットで買うばかりのコスメを、実際に肌やくちびるにのせて、納得いくまで試すのはときめくし、わくわくした。予想していたとおり、ビジネス街の休日は人もまばらで、ゆっくりとタッチアップしてもらって、アイシャドウとリップと香水を買った。

次に向かったのは有楽町。服を買うときは昔からいつもここ。昨晩ピックアップしておいた行きたいお店リストの順番で回る。急にできた自由時間だったから事前に雑誌を見ていろいろ計画できなかったのは少し残念。10店舗ほど見てまわり、ラベンダー色で大ぶりの花もようが綺麗なワンピースに目が止まった。でも手に取るのを逡巡した。一旦お店を出て、数店舗回って、気にいるものがなくて戻ってきた。

迷ったのは、夫の顔がちらついたからだった。夫は学生時代にアパレルでバイトをしていただけあり”見た目”にとても気をつかう人だ。毎朝の出かけるしたくは1時間。美容院は3週間に1度行く。

ちょっと髪色を変えたり、パーマをかけたり、ネイルを変えたりすると気づいてほめてくれる一方、服への辛口コメントが多くて、出がけに私の気分が下がってしまうこともよくある。夫が服を買ってくれることもあった。おしゃれな服で、見たときは私も「素敵だな」と思う。でも、袖を通すと私の体型には合わなくて、短足が目立ったり、よけいに太って見えたり、服に着られているようになったり。鏡を見るたびに悲しくなる。

そんなわけで、もともとの好みである”女性らしい服”ではなく「夫が好きそうな”シンプルさ”があり、かつ私の体型に合うもの」というのが、いつのまにか服を選ぶ基準の一つになっていた。

さらに、子どもと遊ぶときの動きやすさや、洗濯機でがしがし洗える丈夫さをかけ合わせて、買うかどうかを決めるのが今の私の服選び。


試着したあともずいぶん迷った。前の店で試着したこっくりとした赤の、シンプルなワンピースのほうが評判が良さそうだ。着心地もよかった。カジュアルな雰囲気なので娘とふたりでも動き回らないお出かけなら着られそう。

ーーでも、今日は私のためだけの買いものなのだ。

結局、これまで培ってきた基準から離れて、自分の好きなものを選んだ。

最後に向かったのは下着屋さん。これも家族とのお出かけでは行きにくい。サイズを測ったのは、妊娠6ヵ月ほどのとき以来だから約3年ぶりになる。フィッティングして、調整してもらって、それから買ったのでわりと時間がかかった。でもこれまでのもののように苦しくなかった。


ずっと歩き回ってきて、おなかが空いてきたので、カフェに入った。混雑するなかでも、一人だから空いている席にすぐに通してもらえ、友だち連れのすきまにちょこんとおさまり、レモンクリームパスタを食べた。ここはテラス席があるので、子ども連れの人もわりと見かけるのだけれど、それでも、娘が一緒だとゆっくり食べることはできない。時計を気にせず、自分のペースでごはんを食べるのって、幸せなのだと知った。

最後にパン屋さんに寄って、家族みんなの3時のおやつを買い、電車に乗ったのは14時半だった。


帰りの電車では、妙に高揚した気分でいっぱいだった。1日を楽しみ尽くしたという達成感のような感情だ。そして次に浮かんできたのは小さな後悔だった。

出産する前はあんなにたくさん時間があったのに、どうして私は家に引きこもってばかりいたのだろう。家は大好きだ。でも、せっかく東京にいるのだから、こうやってたくさん出かければよかったのに。


そう考えたあと、しばらくして向かい側に座る女性に視線がいった。その人はすごい形相をして爪をかじり、定期的にその爪をなめ回しながらゲーム(らしきアプリ)をしていた。

それを見て「非日常だったからそう思ったんだな」と気がついた。「素敵フィルター」がかかっているから、よいところにしか目が向かなかったのだ。

外で働いていたころの私は、電車に乗れば3回に1回は変な人に出会っていた。何もなければ別に関係ないのだけれど、変に話しかけられていやな気持ちになることがとても多かった。追いかけられて交番に駆け込んだこともあった。

さらに、そうして我慢して着いても、会社で過ごす時間はしんどいほうがずっと多かった。逃げ出したいと何度も思ったはずだ。そんな中で「帰りにコスメカウンターに寄ろう」とか「おいしいもの食べて帰ろう」とか思えるタイプでは決してなかった。一刻も早く家に帰ること。それが当時の私にとって一番の特効薬だったのだ。



駅に着いた。じりじりと日が照りつけている。短い距離だけど歩きたいなんて思えなかった。でも、子育てをして家にいる今の生活では「暑いな」と思えば外に出る必要はないし、用事がなければ電車に乗る必要もない。

人ってよくばりだ。たぶん、もう少しして、娘が私の手を離れたら、毎日「いやだ」と言われ続ける日常や、着替えてくれない悩みや、作った料理を「ぺっ」と吐き出される悲しさなんかがすこんと頭から抜けて「もっと娘との時間を大事にすればよかった」なんて後悔するのだと思う。


でも、当時も今も、私は今できる精一杯をやっているはずなのだ。どんな生活をしていても、楽しいことや素敵なことだけじゃなくて、むっとしたり、悲しかったり、苦しかったり、孤独に感じたりするシーンが出てくる。

私はできれば、それも忘れたくない。

自分にないものをうらやましく思うよりも、今できる精一杯の限度を上げて、今を楽しくしたい。つらいことは辛いと認識しておきたい。楽しい時間は素直な気持ちで過ごしたい。

そうしたらきっと、昔は「当たり前」だった非日常を体験したときに、何倍も楽しく過ごせると思う。さらにその楽しかった記憶は、今、日々を過ごすための糧にもなるはずだ。

過去をむだに美化せずに生きるために「素敵フィルター」をかけすぎないよう、自分で調節していきたい。


最後までお読みいただき、ありがとうございます♡