夜の読書に顔を出した昔のわたし
何年ぶりだろう。もう思い出せないくらい、久しぶりの夜読書。
一人で、特にお腹も空いていなくて、仕事で少しだけいいことがあって、終わったら「この本読みたいな」って決めていて、いつもは聞こえてくる近所の子供の夜泣きも聞こえなくて、静かないい夜だった。
夢中になって読んでいて、気付いたら21時前。先が気になりつつも、軽く夕飯を食べておこうと思い、キッチンに向かう。逸る気持ちを表現してくれたのは、6歳の頃のわたしより下手くそな目玉焼き。油を適当に入れて、卵をフライパンに落とした瞬間、べちゃっと黄身が割れて白身と混ざり合った。
6歳のわたしなら、泣いていたかもしれない。しかし、今のわたしにそんな暇はない。「もういいや」と思って、もう一つ卵を落とす。すると、デジャブのようにべちゃっと形の崩れた黄身が登場した。べちゃべちゃな目玉焼きが仲良く並んだところを見て、(もはや目玉焼きの目玉なんかないわけで)今度は「もういいや」という気持ちになれない自分がいた。
どうしても「目玉焼き」が食べたい・・・。私は仕方なく、白身と黄身が融合した小さなフライパンに、今度は慎重に黄身だけを落として、3個目の正直にそっと鎮座する目玉を見て、ホッとした。
ご飯を済ませて再開した読書。あっという間に、いつもならのんびりお風呂に入る時間となった。物語の出来事を反芻しながら、入浴。
すると今度は14歳のわたしが姿を現した。
もうすぐ読みおわる、というときの高揚感と虚無感。
好きになった登場人物たちが彼らなりの結末を迎えにいく。
それを見届けながら、彼らとのお別れが迫っている予感。
一番鮮明に覚えている記憶は、当時大ブームを起した『ハリーポッター』だったと思う。1ページめくるごとにドキドキして、胸が締め付けられるドキドキが苦しくなったら深呼吸して、麦茶を一気飲みして、気持ちを整えてから再開。
これが読書の一番面白いところなのだ。
自分以外のだれかの人生を経験できることで、その瞬間瞬間、自分が自分ではなくなる感覚をおりてくる。
ハリーは、「いま、わたし」なのだ。主人公が感じる喜びも苦しみも、自分が同じように感じている一体感。苦しくて嬉しいな。何歳になっても。
気づいたら寝る時間になっていたけど、先が気になって、でも読み終わりたくなくて、ついに寝落ちした。これも昔からよくある経験。
結末をまだ知らないドキドキ。
まだもう少しこの物語と繋がっていられるという安心感。
朝になって、「今夜また続きを読めるんだ」という楽しみを想像してみる。
最高の夜だった余韻と今日も最高の一日になる予感がする。
布団から体を起こすと、頭は私の複雑な思考を運んでいるかのように重たいが、それがまた心地いい。一方で布団をたたむ体は驚くほど軽い。
こんな感覚は数年ぶりだなと思いながら、今夜また会える本の中の人物を私は旧友のように思い出して、うきうきしている。
もしよかったらサポートお願いします!また素敵な文学に出会うための活動費として使わせていただきます❤︎