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どこにでもいる人間の半生16

私が20歳くらいの頃、友達の定義について真剣に考えていた事があった。

私が友達だから、と思いする言動は、必ずしもイコールで帰ってはこない。

これは友達に限っての話ではない。

自分という人間と、そうでない人間、極端に言えばこの2種類の人間によって関係性というものは築かれていく。

つまりはイコールになるなどと言う事の方が稀であるのだ。

しかし、近しい人間に関して、私は自分の願望の方が勝ってしまい、その人となりは視野に入ってはいるものの、自分の価値観との相違に頭を悩ませるのである。

それは迷宮に入るも同然で、数年にわたり、私は友達とは何をもって友達だと言えるのだろうかと考えていた。

私は見返りが欲しい訳ではない。

私が相手を思い話、行動する事は、すなわち私の欲望であり、自己満足だ。

それが相手に良好に作用したとして、それが嬉しい。

強いて言えば、相手が喜べる結果に繋がった事実が見返りになる、と言う事だ。

けれど、それはすでに求めているのだ、相手の心を。

私は結局、見返りを求めない人間関係などは存在しないんだなぁ、と言う結論に辿り着いた。

そう考えれば、あの日、祖母と叔父に土下座させられた事にも納得がいくのである。

心を求める事以上に大きな欲望はない。

これは最大の欲である。

しかし言い換えれば、その欲がなければ、信頼関係にも繋がってはいかない。

それはそうだ。

自分が思い入れれば思い入れるほど親身になる、そして相手が近しい人物であればあるほど、また相手もそうだろうと思う。

その繰り返しで絆が深まる。
お互いに求めるのは相手の心だ。

これをもって私は、友達の定義とは心の繋がりだと言う結論に至ったのである。

時には相容れなくたって良い、見返りを求めたっていい。

ただ、まず相手が何を求めているのか、相手は何を理解して欲しいのか、私は何をすべきだろうか、自分の立場に置き換えたならどうだろうか。

私は私が相手に求めるものを、まずは自分がする事によって歩み寄りの一歩となるんだと考える事によって、長年悩んでいた問いに、自分なりの答えを見出す事ができた。

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