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Vol.3.11 好きな作品の批判記事を読んで思うコンテンツづくりの難しさ。

ある夜中に自分の好きな作品(仮称:A)の批判記事を読んでしまった。

記事を読み進めていくと、筆者はどうやらその作品Aの下敷きとなった作品(仮称:B)の大ファンだそうだ。

筆者曰く、作品Bを題材にするならB-1とB-2の投影は基本中の基本!
設定を知らないまま投影するのと設定を知っていてあえて外すのとでは訳が違う。
そして作品B自体を全く読み込めていない、との事だった。

作品Aの表面的な部分しか見ていない中でのあの記事の内容ならいただけないところだったが、筆者は作品Aをひと通り把握した上で書き綴っていることが記事の内容から伺えた。

その記事自体も何年も前に書かれたものだし、作品の感想なんて十人十色だ。

私も好きな原作が映像化されても手放しには喜ばない事もある。

この筆者と似たような思いを文章にして書くまではいかなくても胸に秘める事は今までもあった。

この作品が良いと思う人もいればダメと思う人もいるし、数学と違って答えのないものにどちらの感想も間違いはない。

記事の内容は読み手によったら異なるかもしれないが、私には作品Aを批判している印象に捉えてモヤっとしたのは事実だ。

筆者は作品Bを愛するが故に、作品Aの批判的な記事を書いた気持ちもわからなくはないが、自分の好きな作品Aに対して批判的な文章を読んでいくのがキツくなってきたので、記事を読むのを途中でやめてしまった。


私は作品Bについてまったく知らないが、筆者の言う作品Bの中に出てくるB-1、B-2の部分は、もしかしたら作品Aの中のA-1、A-2ではないかと思った。

そして、筆者が投影されていないと言ってた部分は私の視点から見たら別の形となってちゃんと投影されているのではないかと感じた。

いくらこの設定は大事とは言え、まったく同じものを投影をするとかえって設定がややこしくなることもあるからあえて外す事もあるだろう。

下敷きがあるが故に投影する加減がいかんせん難しいのだろう。

そう思うとかつての私にもブーメランが帰ってきた。


なにはともあれ、私は作品Aのファンだ。

モヤモヤもしたが、これからも作品Aのいちファンとして見届けようと誓ってその夜は眠りについた。

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