見出し画像

選択肢をむやみに増やせばいいというわけではない

ミュージカル「えんとつ町のプペル」を応援しています。7月3日にYoutubeにて全編無料公開されるので、こちらの動画のリマインダーをONにしてみんなで応援しましょう!!
#えんとつ町のプペル無料


こんにちは、くにたけりんと申します。
まずは、この記事を読もうと思ってくれて本当にありがとうございます。

今回は「選択肢をむやみに増やせばいいというわけではない」というテーマで、ビジネスから政治から人生まで、さまざまなところを横断してこのテーマを考えてみたいと思います、よろしくお願いしまーす!

※インスタグラムやってます!フォローしてね!


では本題です。
最近東京から無所属で参院選に立候補して話題の、五体不満足で有名な乙武ひろたださんをみなさんはご存知でしょうか?
↓乙武さんのtwitter
https://twitter.com/h_ototake?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor

僕は彼のことが結構好きで常日頃から学びを得ているのですが、よく彼は「選択肢を増やした方がいい」というんですね。

例えば不登校。一見学校に行かないということは悪いみたいなイメージで捉えられがちで、不登校許すまじ!みんな学校に行こう!みたいなノリが主流ですが、不登校をしている子供は例えば隠れていじめられているとか、頭が良すぎて学校にいっても学びにならないとか、日中起きていられないとか、さまざまな理由を抱えているでしょう。昭和を生きた大人からしたら「それが人生だ」といって無理やり学校に来させようとするかもしれませんが、子供からしたらそのストレスはとてつもないものでしょう。
乙武さんは子ども目線からの不登校というものを考えた時、「不登校という選択肢も作った方がいいよね」と仰ります。不登校という選択肢が許されていないことで苦しんでいるこどもがたくさんいるんだから、選択肢を増やしてもっと多様性を大事にしようよ、という趣旨だと思われます。
僕もそれに大賛成で、学校に行かなかったら人生終わるみたいな幻想を大人は特に抱きがちですが、結構時代錯誤もいいとこだなとか思っちゃってます。自分自身もあまり友達がいなかった中学1年の時とかは、夏休みが最高すぎて明日で終わるっていう状況では寝れなかったり恐怖心に襲われていました(ガチです)。こういう子どもは目に見えないだけでたくさんいることでしょう、そういった子達のためにも不登校という選択肢を増やして「学校に行かないのもありだよね」とインクルージョン・ダイバーシティの輪を広げることが重要だなあと思ってます。

ここに関してもう少し深掘りすると、不登校といってもいい不登校と悪い不登校があると思っていて、例えば頭が良すぎて周りの人たちが嫌になるとか、もっと先のことを勉強したいとか、家で一日中プログラミングやっていたいとか、こういった類の理由であればそれらを積極的不登校と位置付けてガンガン不登校を推奨させた方がいいのかなあともう反面、学校に行くのが少しめんどいだけとか、特に家にいてもやることがないとか、自分の部屋に閉じこもって鬱になりやすい環境を自分で無意識に作っちゃっているとか、そういった消極的不登校に関しては「不登校」という選択肢を与えていいのか疑問に残るところです。

つまり、むやみやたらに不登校という選択肢を全員に与えてしまうと、それはそれでまた別の不幸が生まれてしまうよね、ということです。

ビジネスでもそれは言えます。
みなさんは行動経済学に触れたことはありますか?なかなか面白いのでぜひ入門書を買っていただきたいのですが、その学問のなかで「ジャム理論」というものがございます。詳しくはこちらの記事で西野さんがめっちゃわかりやすくお話しされているのでぜひチェックして欲しいのですが…

簡単にいうと「お客さんに選択肢を提示しすぎたら、お客さんは商品を買わなくなる」というものです。
ジャムを2種類しか取り揃えていないお店よりも、ジャムを25種類取り揃えているお店の方がいいじゃないですか?自分の好みの味がありそうだし、今まで見たことない味のジャムとかもありそうで、やっぱ種類が多い方のお店に行きたくなります。
’集客’の面で見たら種類が多いお店の方が得なんですが、’お客さんに購買してもらう’という面から見ると、実は種類が少ない方が買ってくれたりします。選択肢を増やすことによって、購買する前は目の前が煌びやかでどれにしようかなあとワクワクしますが、選ぶ際により多くの判断をしなければならないので脳に負担がかかる、種類が多い分買った後に「ああ、やっぱあっちにしとけばよかった」と後悔する確率が高まる等、デメリットもあるんです。
やっぱここでも「むやみやたらに選択肢を増やせばいいってもんじゃない」ということが言えそうです。

僕は何事も「終わり際」がとっても大事だと思っていて、それは人生においても同じ考えです。つまり、’死’というものを、もっと考えなきゃなあと思ったりしてます。これに関してもっと具体的にこちらの記事に書いているのでお時間ある方はぜひ読んでいただきたいのですが…

この記事では’安楽死’を取り扱いました。要は「安楽死という選択肢を増やしてもいいんじゃね?」といったところです。
ただ、その後いろいろ安楽死について調べてみると、どうやらそうでもないのかな?と思うことがありました。

一見、毎日手術やら抗がん剤やらで苦しみながら生きている「死にたいと思っている人」からしたら安楽死というオプションがあるだけでまだ気楽になれそうです。安楽死という選択肢ができる世の中になれば少しは幸せになれる人がいるなら増やしたほうがいいじゃん!?と思っていたのですが、同時に選択肢を増やしてしまったことによって不幸になる人のことも考えなきゃいけなくて、こと日本という同調圧力強めの国では安楽死というオプションと相性が悪いように感じます。つまり、自分の意思ではなく周りからのなんとなくの圧力で「安楽死でいっか。」となってしまうケースが増えることを危惧しています。

ここからも、選択肢をむやみやたらに増やせばいいものでもないということが言えそうです。

まとめに入ります。
ダイバーシティは大切です。それがあったからこそ今ホモサピエンスが生き残っているわけで、多様性をなくして僕らはありません。もっともっとたくさんの人が行きやすい世の中を作るべきだとは思いますが、選択肢を増やして「はい生きやすくなったでしょ」とするのはかなり危険なことなのかもなあ、といったお話しでした。

長くなってしまい申し訳ありません!!最後までお付き合いくださりありがとうございました〜〜〜

[関連記事]


この記事が参加している募集

#多様性を考える

27,788件

ご支援ありがとうございます!!これからも皆様をワクワクさせられるような記事を書いていきます!!