今思う分岐点

中学3年生の私は、荒んだ心がわかりやすく表に出るようになっていた。

瞼に色を乗せ、目の縁は綺麗に囲ってはね上げ、丁寧にマスカラを塗った。
私は化粧をした自分の目が好きになった。


朝ご飯は食べなくなっていた。
朝6時に起きて制服のスカートを3回折り曲げ、化粧をした。髪を真っ直ぐに伸ばしたり、巻いたりすることが当たり前になった。その頃の私は【お姉系ギャル】だった。

下着のようなサテンのキャミソール、デニムのミニスカートやスキニーパンツ、先の尖った5cm〜10cmパンプス、ニーハイブーツ、ショート丈のダウン、襟にファーが付いたコート。それらは全て長女と次女が買い与えてくれたものだった。


その頃の両親は、ケバケバしくなっていく私に何も言わなくなっていた。

早朝に父は畑へ行き、私が家を出てから帰ってくるような生活で、たまに酔った父に見た目を罵られることはあったけれど、だいたいが母を通して言われ、面と向かって何か言われることは無くなった。どう扱ったらいいのかがわからないようだった。この頃の父との記憶やお互いの存在はないに等しいくらい薄い。


母はというと、私の機嫌を伺って怯えていたように思う。食べたい物をよく聞いてきたし、それが買いに行く必要のあるものであれば、わざわざ買いに出かけ、笑顔で私に渡した。

反抗期真っ只中、単語で母を怒鳴りつけることが増え、自己嫌悪を憎悪で塗り潰し続けた。


上半期が終わる頃、進路相談の時間が増え始めた。それぞれが中学を卒業した後のことを意識し始め、周りにいる皆が想像上の高校生活を嬉々として語る中、私は自分が制服を着た高校生になるイメージが出来なかったし、行けるものとも思っていなかった。その将来が近い場所にあり、当たり前のように話す子達が羨ましかった。兄姉達も中卒で、働く選択肢しかないものだと思っていた私には、自分がそうしたいのだと信じ込ませ、皆と同じ夢を抱く自分から逃げらることに集中するしかなかった。

そんな時、次女が高校へ行かせてあげると言い出す。疑うこと、期待しないことを学ばない私は嬉々として進路相談の先生に私の学力で行ける高校を探してもらった。私立しかなかった。授業には出ても寝てばかりいて、注意されれば舌打ちをし、悪態をつくような態度、勉強を頑張ったことなんてなかった。

髪を巻くのをやめ、化粧もやめ、授業はしっかり聴き、積極的に手を挙げた。行かなくなっていた部活にも行き始めた。頑張れば報われ、叶うと性懲りもなく思ったからだ。私はまた浮かれていた。


私立高校の資料をもらったその週か、翌週には次女に渡したと思う。目を通した次女が微妙な顔をした時にはもう悟っていた。一言「高いね」と言って、それ以上何も言わなかった。


私は愚かで純粋だった。

りくがそうしたいなら、望むなら、
ボイストレーナーに通わせてあげる。
転校させてあげる。
高校に通わせてあげる。

当時の私が叶えたかったもの達はもう取り戻せない。働ける年頃の大人に早くなりたかった。私自身の力で私に早くしたいことをさせてあげたかった。

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