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「ハイデガー」がちょっと理解できた気がするから読んでくれ

60年代的なものに憧れてハイデガーへ

僕は60年代が大好きです。革命とか学生運動とかロックとか村上龍とか。当時の若者たちの熱気とエネルギーたるや、冷え切った現代を生きる僕からしてみたら、もはやおとぎばなしの世界です。この時代については色々喋りたいこと盛り沢山なんですが、そのなかでも何がすごいって、、、。

とにかく学生たちの頭が良すぎる。。


60年代のドキュメンタリーは色々あるけど、「三島由紀夫vs東大全共闘」はわかりやすく衝撃的でした。だって喋ってる内容がほぼ理解できないんだもん。ただ、「その時代の学生たちが本気で革命を志していたんだなあ」って感じの熱量はビシバシ伝わってきます。でもとにかく議論がむずかしくて理解できない。。。

「俺も理解してえよ。」

熱に浮かされて、当時、学生の間で流行っていた思想とか哲学とかについて色々と調べてみました。その中で、僕は当時の学生たちの重要なアイコンである一人の哲学者に突き当たります。それがドイツの哲学者マルティン・ハイデガー!

マルティン・ハイデガー(1889-1976)

ハイデガーは現代哲学の父と呼ばれる超すごい哲学者。戦時中はナチスを褒め称えたりしたことで色々非難されているようですが、現代の哲学を語る上では絶対に無視できない偉い先生。

「なんかありがたそうだから俺も読んでみるか...。」

そんな感じでいくつかの入門書を読み漁ってみました。入門書を手に取ってみると、「世界内存在」「実存」「現存在」などなど、むずかしい単語がたくさん出てきます。原著をいきなり理解するのは無茶ですね。学生運動では多くの学生が「革命だー!」と叫んでハイデガーの『存在と時間』を手に取っていたみたいです。レベル高いなあ。


とはいえ何冊か入門書とかを読んでいく中で、わかりやすいものもあったので個人的なおすすめを紹介します。


ハイデガーを理解したいけど、とにかく難しくてよくわからん、諦めるかな。そんな感じで2年くらい、僕の中でハイデガーは宙ぶらりんなままでした。そんなある日、僕はハイデガーの理解がグッと深まる、一冊の本に出会いました。それが『ソウル・ハンターズ』(ウィラースレフ著)

この本ではシベリアの先住民であるユカギールについて記述されています。

「シベリアの先住民?ハイデガーはどこにいったの?」

実はこの本はシベリアの先住民についての本ではあるのですが、その記述にハイデガーの哲学がめちゃくちゃ応用されているんです!この本について詳しく見て行く前に、ハイデガーより前の哲学について(超ざっくり)紹介します!(ここから真面目なトーンになります…)

僕たち人の思考はデカルト的である。

先住民からみると、僕たち「近代人」は極めて異質なものの考え方をしています。それは「客観的に世界を記述する」という考え方。僕たちは行動する前に何でもかんでも「客観的に理解したい」と考えますよね。わからないままだと不安だから。例えば、登山をするときには、事前に地図を確認したり、標高や気温などのデータを調べたりするわけです。客観的に物事がわかるとなんだか安心できますよね。

この「客観的に世界を理解したい」という衝動が自然科学の基礎になっています。例えば放り投げたテニスボールの運動を客観的に理解したいから物理学が発展したし、相手が何を考えてるかを客観的に理解したいから心理学が発展した、みたいに。

近代人の考え方。私は外側から「世界」を眺めるイメージ。

この図みたいなイメージですね。ところで、この「世界を客観的に記述する」という考え方は「私は世界の外側にいる」ことを暗黙の前提としています。この場合、私はデスゲームの主催者のように、世界の外側にある特等席から、参加者たちを眺めているようなポジションにいるわけです。物理学なんかはその典型ですよね。物理学では記述する人間はいつも対象(世界)の外側に立っていることが前提とされます。


このように「私と世界を切り分けて客観的に世界を理解してやろう!」と最初に言ったのが、デカルトという人です。ある意味で自然科学のルーツはデカルトにあると言えます。理性を手にした「私=主体」が神の視点から世界を客観的に分析したるわ、というわけです。デカルトが始めたこの枠組みは「認識論」と呼ばれます。幽体離脱した「私=主体」が、世界を上から目線で記述するイメージです。僕たち近代人は多かれ少なかれ、普段から認識論的な枠組みで物事を考えています。

この認識論に異議を唱えたのがハイデガーです。


「デカルト的」な考え方に異議を唱えた人こそが、今回の主役であるハイデガーです。ハイデガーの考えはざっくり言うと僕たちはデスゲームの「主催者」ではなくゲームの「参加者」であるというもの。ハイデガーはデカルトのように「世界を外から認識する私」なんてものを認めません。彼にとって人間とは常に、世界に埋め込まれ、没入している存在なのです。


ハイデガーによると、僕たちは「世界の外」に出ることはできない。


ハイデガーはそんなゲームの「主催者」ならぬ「参加者」としての僕たちのあり方を「世界内存在」と呼びます。ハイデガーはゲームプレイヤーである僕たち「世界内存在」がどのように関係しあっているのかを問います。この「そもそも存在はどうなっているのか?」という思考は「存在論」と呼ばれます。「私」に特権的な地位を与えるデカルト的な「認識論」に対するアンチテーゼです。

存在論のイメージ。私たちは「関係の網」の中に囚われている。

以上のハイデガーの説明を聞いてもほとんどの人が「はあ…」という感じだと思います。正直僕もそうです。僕たちが「世界内存在」だとして、それの何がありがたいの?入門書を読んでもいまひとつ腹落ちしない感じでした。

調べてみるとハイデガーの「存在論」は人類学にめちゃめちゃ応用されているみたいです。「デカルト的=認識論的」から「ハイデガー的=存在論的」へというパラダイムの変化は存在論的転回と呼ばれます。以下に代表的な本をあげておきます(僕も全部は読んでないです)。


そのなかでもわかりやすかったのが先ほども紹介した『ソウル・ハンターズ』(ウィラースレフ著)。眠れなくなるくらい面白い本です。もう一回リンクを貼っておきます。

この本から得たハイデガーの考え方について自分なりにまとめてみたので、(できるだけわかりやすく)紹介してみます。

『ソウル・ハンターズ』を読んだら、ハイデガーがわかった気がする。


この本の著者は、フィールドワークで調査したシベリア先住民ユカギールの世界観をハイデガーの「世界内存在」の考え方を用いて説明しています。早速ユカギールの代表的な世界観についてみていきましょう。

彼はエルクではなかったが、エルクではないというわけでもなかった。

「ソウル・ハンターズ」p.11

ユカギールの狩猟者たちは、エルク(デカい鹿)を狩るために、自分自身がエルクの毛皮で作った外套やスキー板などを使ってエルクに擬態します。さらに狩猟者はエルクと視線を交わす中で、自らが「エルク=人間ではないもの」へと「変身」するといいます。狩猟者自身がエルクになりすますことで狩猟対象であるエルクを誘惑=ナンパし、おびき寄せることが目的です。

ユカギールの夢に美しいエルクが現れたら、それは「狩猟をしろ」とのお告げらしい。

このとき、狩猟者はエルクを「美しい女性」として体験するそうです。ここでは「人間がエルクになり、エルクが人間になる」という視座の交換が一瞬で生じるのです。

ただし、ハンターが完全にエルクに変身すると、狩猟が成立しません。


狩猟者が完全にエルクに変身してしまうと、猟銃の引き金を引けなくなります。だって自分が人間であることすら忘れてしまうわけですから。これではエルクを仕留めることはできません。つまり一流の狩猟者は「エルク」であると同時に「人間」でもある必要があります。ユカギールのハンターは、この二重の視座(パースペクティブ)を宿していると『ソウルハンターズ』では記述されています。

「でも、それって結局は先住民の妄想ですよね?」

「狩猟者がエルクに変身する」などというのは一見するとかなり意味不明な説明に聞こえますよね。近代社会に住む僕たちは「彼らは無知であるがゆえに妄想を信じている」とか「彼らの説明は非合理的である」などといって先住民による説明を切り捨てがちです。

しかし、そのように「彼らは世界観は妄想だ」と決め付ける態度こそがハイデガーが敵視した「デカルト的な認識論」そのものであるとウィラースレフは指摘します。「彼らの世界観が客観的に妥当であるか」という問いは、それ自体「主体/客体」というデカルト的な二元論を前提とした独りよがりな議論に過ぎません。上記のユカギールによる(アニミズム的)世界観は、世界内存在であるユカギールの狩猟者とエルクとの関わりから生じた実践的で、流動的なプロセスであると説明されるべきでしょう。

他にも精霊(アイビ)悪霊(ハズィアン)を用いた多くのアニミズム的な説明が本書では紹介されています。中には仏教っぽいものもあったりしてめちゃくちゃ面白いです。

僕たちが持つ西洋近代的な世界観は物理学をはじめとする自然科学による記述がベースです。まさに主体と客体を分離したデカルト的な認識論によるものですね。一方、ユカギールには「客観的で統一された世界観」というものがそもそもありません。彼らの(アニミズム的な)世界観はあくまで実践という文脈の中で、アドホックに立ち上がるものです。そう、実践あっての認識なのです。近代社会に住む僕たちは「ユカギールの言っていることってその場その場でコロコロ変わるなあ」というような印象を受けるかもしれません。これはひとえに彼らの世界観が「静的=デカルト的=認識論的」ではなく「動的=ハイデガー的=存在論的」であるためでしょう。彼らは、世界を「語る」批評家ではなく、そこに「住まう」プレイヤーなのです(「住まう」はインゴルドという人類学者にとってキーワードです)。まさに「世界内存在」。絶えず実践の中に生きる彼らは、デカルト的な認識論を最初から必要としていないのです。彼らはむしろ言語は「知ること」を邪魔してしまうとすら考えています。


以上のユカギールの例から逆照射すると、ハイデガーの理論がより活きたものとして理解されるのではないでしょうか。私たちは世界に埋め込まれた世界内存在である。だからこそ、あれこれ考えてデカルト的に「わかろう」とするのではなく、そこに「住まう」存在として具体的な実践の中に自分自身を投げ出してみようじゃないか、というわけです。

以上の議論は、つい批評家を気取ってしまいがちな僕のような理系大学生にとってはすごく耳の痛い話です。最後に自分なりに引き出したハイデガー=僕の教訓でもって締めたいと思います。


・「静的=デカルト的=認識論的」に考えすぎないこと。「これって役に立つのかな」「どんな風にすればリスクが回避できるかな」etc...
・まずは「実践」に自分自身を投げ出してみること。意味はその後についてくる。(何か自己啓発書みたいだな)


こんな感じで終わりにします。最後まで読んでくれてありがとうございます。




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