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俳人 種田山頭火を知る

 種田山頭火は1882年12月3日に現在の山口県防府(ほうふ)市に生まれた。本名は正一。「分け行っても分け行っても青い山」などの定型(五七五)に囚われない自由律俳句で有名な俳人である。実は山頭火は昭和の松尾芭蕉と呼ばれるほどの旅好きであった。今回、実際に山口県防府市を訪れて得た情報を基に山頭火の旅と彼の人生をまとめてみたいと思う。

1.山頭火が旅に出るまで

 山頭火は地元で裕福な家系に産まれたが、彼が子供の頃に母親が井戸へ投身自殺をしたことが後の人生に暗い影を落とすことになる。学業成績は極めて優秀で早稲田大学に入学したが、精神的な病気により中退。その後、地元に戻り父親と造酒業を始め、その傍ら作句活動を精力的に行うようになる。しかし、事業は失敗し種田家は破産。父親は失踪してしまう。山頭火は妻子と共に熊本に移り住み再び事業を始めるも、弟が焼身自殺したことなどが重なり、妻子を置いて東京に行ってしまう。山頭火は酒浸りの日々を送り、その後もトラブルが絶えず、妻とは離婚。山頭火は出家する。そして西日本を中心に全国各地をまわる山頭火の旅が始まることになる(この時1926年/山頭火44歳)。

山頭火の生家跡
「山頭火の小径」:山頭火が尋常小学校に通った道が残っている


2.山頭火の旅

 山頭火はまず九州地方を中心に旅を始めた。有名な「分け行っても分け行っても青い山」が詠まれたのも旅に出て間もない頃で熊本から宮崎にかけての山中で詠まれた句と考えられている。なお旅で詠んだ句をまとめた詩集では、この句の前書きとして「大正15年4月、解くすべもない惑ひを背負うて行乞流転の旅に出た」とある。山頭火の憧れた人物として俳人の松尾芭蕉、禅僧の良寛が上げられる。山頭火は二度、本州を巡る長い旅に出ているが、その道中で二人のゆかりの地も訪れている。松尾芭蕉の旅、良寛の境遇と自分との共通点などが山頭火の生き方に大きな影響を与えたという。山頭火は二度目の本州の旅で大阪、伊勢、東京、新潟、山形、平泉などを回った後、今度は四国へ旅に出る。ここで山頭火が全国各地で詠んだ句を少し紹介する。

・水底の雲もみちのくの空のさみだれ あふたりわかれたりさみだるゝ(宮城県石巻市)
・月が酒がからだいっぱいのよろこび(山形県鶴岡市)
・春の海のどこからともなく漕いでくる(静岡県浜松市)
・こんなにうまい水があふれてゐる(宮崎県日南市)

旅先で詠んだ句をまとめた詩集は全七集に及ぶ。山頭火の句碑は全国各地にあるため、住んでいるところや旅行先で探してみるのも面白いかも知れない。

3.山頭火の晩年

 1939年に山頭火(58歳)は四国の旅行中、愛媛県松山市にある御幸寺に高橋一旬ら俳人仲間の協力もあり一草庵を結ぶ。ここで山頭火は旅を終え、残りの人生を過ごすことを決意する。一草庵では句会「柿の会」を催すなど、俳人仲間との交流を盛んに行い、翌年59歳でこの世を去った。山頭火の人生は波乱万丈であったと言えるが、無事に旅を終え、最期は仲間たちに囲まれ幸せに過ごせたのではないかと思う。山頭火の俳句は生前から高い評価を得ており、没後80年以上経った今日もその句が教科書に掲載されている。私も教科書で詠んだ山頭火の句が印象的だったことから、彼の人物像や人生について興味を持った。山口県は山頭火の他にも、中原中也や金子みすゞなどの著名な俳人が生まれた所でもある。また山口県を訪れる機会があれば他の俳人の方々のゆかりの地に足を運んでみたいと思う。

山頭火ふるさと館前の句碑

4.参考資料

・山頭火ふるさと館(常設展、企画展「山頭火と芭蕉・良寛 ∼尊敬した先人たち∼ 」)
・山頭火生家跡 パネル


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