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17歳の生きる刹那に思う

初めて、教壇に立った。
とはいっても、ほんとうに物理的に「立った」というだけで、なにかを説くとかそんな大それたことはしていない。

見守りでそばにいてくれた教員の方は「講師の先生」扱いしてくれたが、生徒のみんなには近寄りがたい存在と捉えてほしくなかったので、敢えて(といえばそれらしいが実際はなにも考えていなかった)普段通りのゆるっとした格好をし、教卓には両肘をついてできるだけ目線を合わせるようにした。
言葉遣いも「講師の先生」らしからぬ奔放さを意識。
初めまして、から、さようなら、までたったの50分間なのだから、こちらから「近所のねーちゃん」面をしてズカズカと近寄るしかなかった。と正当化してみる。

お相手をした(してもらった)のは、高校2年生の20人の子どもたち。
ヨーロッパではお酒も煙草も許される年齢の子たちに「子ども」と表現するにはおかしな気もするし、非常に大人な雰囲気を纏った子も散見したが、彼ら彼女らから滲み出る無垢さは「子ども」のそれとしかいいようがない。

私立の高校に対し勝手に抱いていた、新しくて清潔で先進的な感じ、を真っ向から覆す、懐かしさと安心感でいっぱいの教室だった。
箱のキャパにひと回りくらいの余裕を残し、あの、引きずると絶妙な不快音を発する机と椅子に各々が着席した。

3〜5人からなる班ごとに固まってもらい、それぞれの手短な発表を聞いてはフィードバックをするというシンプルな構成だったが、内容はともかく、高校生たちが見せてくれる個性に一気に魅了されてしまった。
時間の都合もあり、お互いに一方的な発言をするのみでほとんど会話らしい会話もできなかったのに、教壇から見渡す20人は、20人それぞれの色を持っていることがはっきりとわかったのだ。

ムードメーカーという役割を完全に理解した、声も表情も動きも大きな子。
そんな子の危うさを保護者のように先回りしてカバーする子。
親や先生だけでなく、50分限りの講師からの期待にも応えたい子。
目立つのは苦手で自分に自信がない、だけど親しい友人とのコミュニケーションは活発にできる子。
控えめで大人しそうに見えて、静かに熱い思いを心の中で燃やしている子。
空気を読むのが上手で、相手が誰であってもそつなく立ち回れる子。
人生2周目くらいの貫禄と独特な感性を持ち、人を無性に惹きつける子。
面倒な役割を「しょうがないなあ」と買って出る、お人好しな愛されキャラの子。

これらはもちろんほんの一面だろうし、少なからず猫を被っているはずだけど、こんなにも短時間で「個」を見せてくれるなんて。
ひとりひとりが違って、正しくて、けれどゆらぎがあって、儚くて、愛らしい。

なに気ない瞬間瞬間を、彼ら彼女らなりの一生懸命さで駆け抜ける、その尊さをひしと受け止めた50分だった。
どうか、大人になってもその素直さを忘れないで…と図々しい近所のねーちゃんは願うばかりである。
そしてわたし自身が抱える迷いや悩み、失敗でさえも、長い人生においては尊い営みの一部なのかもしれないと思えた。

まだまだ道半ば。変化を止めてはいけないなあ。

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