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【短編小説】夜の天使はブロッコリーを食べない


1

 それはいっけん、幻想的な光景だった。初夏のぬるい夜風が吹く、草の匂いの立ち込める橋の下で、白いワンピースを着た少女がラジカセから流れる音楽にのって踊っていた。まるで地上に降りた天使がひとり無邪気に戯れているようだった。しかし、そこで鳴っている音楽は、その光景にはあまりに不釣り合いなものだった。古めかしい巨大なラジカセから流れているのは、ロマンティークなジャズ・ギターの調べでも、クラシカルなかそけきピアノでもなく、爆音のテクノ・ミュージックだったのだ。巨大なラジカセから流れる激しい音楽にのって、少女は長い髪を振り乱して一心不乱に踊っていた。そのあまりに奇妙で美しい状況に、ぼくは思わずカメラを構えて、シャッターを切った。


 ——ひとつきほど前のことだ。よくある話だが、ぼくは大失恋をした。六年間付き合った彼女に『ほかに好きなひとができた』といわれてフラれたのである。まさに寝耳に水としかいいようがなかったが、彼女はもう二年もまえから関係を持っていたということだった。そんなこと、ぼくは一ミリも気づかなかったし、いつか彼女とは結婚するんだろうなとさえ思っていたから、ものすごくショックを受けた。

 ぼくは食欲をすっかり失い、またたくまに四キロ痩せた。そればかりか、まったく眠れなくなった。ベッドにもぐり込んで目を閉じてみても、胸が締め付けられるように痛み、一睡もできないのである。ぼくは何とか眠るべく、ジムに行って体を動かしたり、アロマを焚いてみたり、あらゆる手段を講じたがすべて無為に終わった。医者に処方された睡眠薬もまったくむだだった。まるでぼくのアタマは眠りかた自体を忘れてしまったようだった。

 ほどなく、もてあました夜をまんじりともせず過ごすのに飽き飽きしたぼくは、安物のポラロイドカメラをもって夜間徘徊するようになった。ぼくはフリーランスのカメラマンで、アパレルやレストラン、結婚式場の写真などを撮って細々と生計を立てていたのだが、彼女にフラれてからというもの、カメラにはろくすっぽ触れなくなっていた。

 以前の自分に戻るためには、以前の自分がしていたことを、以前の通りにするしかない。

 それから夜になると、ぼくは東京の街をあてどなく歩きまわり、あちこち写真におさめて回った。対象はなんだってよかった。猫でも、電柱でも、店の看板でも、とにかく何でも撮った。少しでも気持ちを紛らわせるために、歩いて、歩いて、撮って、撮った。息を止めてシャッターを切るその瞬間だけは、失恋の痛手を忘れることができたのだった。

 そして、天使との出会いは唐突に訪れた。

 閑静な住宅街のほど近くの河川敷を歩いているときだった。遠くのほうでは摩天楼が濃紺の闇に瞬いていて、生ぬるい夜風が草いきれをざあっと鳴らしていた。人影は見当たらず、等間隔に設置された街灯に夜光虫がぶつかる音すら聞き取れるほど静かだった。そうして額にうっすら汗を滲ませながら、カメラを携えてぼんやりと歩いていると、ふいに、どこからか音楽が聴こえてきた。それはこののどかな景色には全く不釣り合いな音楽で、たとえていうなら、海外のコメディ映画のパーティー・シーンでかかるような、ぎらぎらした激しい音楽だった。

 どぅんわ、どぅんわ、どぅんわ、どぅんわ、ずくちー、ずくちー、ずくちー、ずくちー。

 その音楽はどうやら、橋の下から鳴り響いているようだった。不逞な輩がパーティーでもしているのだろうかと思い、ぼくは興味本位で近づいてみることにした。石段を降りて川沿いを歩くにつれ、その音楽はますます大きくなっていった。

 どぅんわ、どぅんわ、どぅんわ、どぅんわ、ずくちー、ずくちー、ずくちー、ずくちー。

 すごい音量だ。こんな真夜中に野外でこれだけの大騒ぎをするとは、相当なならず者集団に違いない。ぼくは少々おじけながらも、橋の下へと近づいていった。そうしてついに目にした光景は、まったく予想外のものだった。

 そこにいたのは、ひとりの少女だった。


 白いワンピースを着た長身の少女が、巨大なラジカセから流れる爆音のテクノ・ミュージックに合わせて、たったひとりきりで、踊っていた。それはいっけんすると、地上に降り立った天使が戯れているように見えなくもなかったが、少女の激しいダンスと耳をつんざくような音楽は、幻想的と称するにはあまりにハデで、リアルなものだった。ぼくは縫いとめられたようにその場に立ちすくみ、少女が踊るのをただ見つめていた。滲むような月光の下、長い手足を振り回して、狂ったように踊りまくる少女は、まるで一瞬ごとに全生命を爆発させているみたいだった。その光景は端的に言って、とてつもなく面白かった。気がつくとぼくは、カメラを構えて、シャッターを切っていた。

 ぱちん、じーー。

 焚かれたフラッシュに反応した少女は、踊るのをやめると、こちらをじっと見つめた。月光を浴びて佇む少女の姿は、はっとするぐらい美しく、不思議な存在感があった。ぼくが何も言えずに立ちすくんでいると、少女はにかっ、と歯を見せて笑った。気品のある端正な顔立ちに似つかわしくない、無邪気で幼い笑みだった。どうしていいかわからずぼくが曖昧に頭を下げると、少女は突然、こちらに向かって走り出してきた。少女が満面の笑みを浮かべたままどんどん近づいてくる。

 え、うわ、なんだ、なんだ、なんだ——。

 そして少女は高く飛び上がり、宙で両足を揃えると、ぼくの顔面に足の裏を叩きつけた。目の奥で火花が飛び、ぼくは真後ろに倒れこんだ。わけもわからず突如目の前にあらわれた夜空を仰いでいると、少女がぼくの胸倉を掴み、顔を寄せて睨んだ。

「よお、盗撮ヤロー」

 間近で見る少女の顔は美しかった。吊り気味の目は長い睫毛に埋まってしまいそうなほどで、高い鼻はまるで彫刻のようだった。何より少女の肌は着ているワンピースと同じぐらい真っ白だった。ほとんど病的といってもいいぐらいに。ぼくが目を瞬かせていると、少女はこちらに手を突き出して言った。

「写真、よこせ。いま撮ったヤツ」

 ぼくは言われるがまま、カメラから吐き出された写真を少女に手渡した。少女はむしり取るようにその写真を引っ掴むと、それをまじまじと見つめた。そうして無言で写真を眺める少女に、ぼくはおずおずと声をかけた。

「……あ、あの、ごめん。勝手に撮ったりして。ぼくは、その、フリーのカメラマンで」
「……いーな」
「え?」
 
 ぼくが戸惑っていると、少女はぱっと顔を輝かせながら色めき立った声で言った。

「コレ、すげーいい写真だなぁ! こーして見るとやっぱアタシ、めちゃくちゃ可愛いわ!」
「え? え?」
「いやこれは思わず撮っちゃうのも仕方ねーな! にしてもこの写真めっちゃいいな! オマエ才能あるよ! 盗撮してる場合じゃねーよオマエマジで!」


 少女ははしゃぎながらぼくの肩をバシバシ叩いた。初対面の女の子にドロップキックをかまされたのち、才能を賞賛されるというシチュエーションに、ぼくの脳ミソはすでに処理落ち寸前だった。


「え、え、あ〜……ありが、とう?」
「だははははははは!! 鼻血出てんぞオマエ!! ぶははははははははは!!!」


 少女は身をよじらせて、こちらを指差しながら笑い声をあげた。一体何なんだ、この状況は。そうしてお腹を抱えて笑う少女を見ているうちに、ぼくも何だかおかしくなってきて、思わず吹き出した。


「……っふ、あはっ、へへへ、へへへへ……」
「ぎゃはははははははは!! なに笑ってんだよオマエ!!!」
「えへ、えへ、ふふ、くふふふふ……」
「キメー、マジキメー!! 笑ってんじゃねーよコエーよ!! だはははははははは!!!」
「えへっ、へへっ、あははは」

 そうしてぼくは笑いながら、ふと思った。こうやって笑うのはいつぶりのことだろうか、と。それからしばらく、ぼくと少女は、言葉も交わさぬまま、ひたすら笑いあった。まったくのアホウみたいに。


「ほれ、氷買ってきたぞ。冷やしときな」


 ぼくが橋の下に座りこんでいると、コンビニのビニール袋を提げた少女が、ロックアイスのパックを取り出してこちらへ放った。


「あ、ありがとう……」
「いーよいーよ。アタシもちょっとやりすぎた。でもさ、死ぬまでに一回でいいからドロップキックしてみたかったんだ。許せ」


 そして少女はぼくの隣に腰を下ろすと、ビニール袋から缶ビールを取り出しながら尋ねた。


「んで、オマエさ、こんな真夜中にカメラぶら下げて何してんの?」
「えっと、その、撮影を兼ねた夜間徘徊、っていうか」
「へーっ。まあ何にせよ、勝手にヒトのこと撮んのはよくねーよ」


 そして少女は缶ビールのプルタブを開けると、それをぐいっと呷り、喉を鳴らしてさも美味しそうに飲んだ。近くで見る少女の肌は、まるで透き通るように白かった。ほとんど病的といってもいいぐらいに。


「ご、ごめん……あの、その、君が、すごく……面白かったから」
「え? アタシがあんまりにも可愛すぎたから撮ったんじゃねーの?」
「い、いや……確かに、君は、その、きれいだけど……それ以上に、面白すぎた。き、君こそ、こんな真夜中に、ひとりで何してたの?」
「見りゃわかんじゃん」
「見てもわからなかったから聞いてるんだけど」
「レイヴだよ」
「れいゔ?」
「テクノとかトランスとかガンガンかけてさ、みんなで踊りまくるでっけぇ音楽イベントのこと」
「……ひとりで?」
「ひとりで。アタシ身体よえーからさ、そーゆーイベントとか行きたくても行けねーんだよ」


 そう言いながら少女はタバコを取り出し火をつけた。唇をすぼめて煙を吐き出す少女の横顔を見つめながら一体どこが悪いのだろうと思っていると、視線に気づいた少女がタバコの箱を差し出した。


「あ、吸うか?」
「い、いや、いい。ぼくは吸わない」


 首を振りながらそう答えると、少女は訝しげに目を細め、こちらにずいっと顔を寄せてきた。


「ん? んん〜?」
「……な、なに?」
「オマエ、クマすげーな」
「そ、そんなに?」
「うん。相当やべーよ。寝てねーの?」
「……寝てないっていうか、眠れないんだ。ここ一ヶ月、ほとんど眠ってない」


 ぼくがそう答えると、少女は食らいつくように尋ねてきた。


「一ヶ月!? やべーなそれ! 何かあったのかよ?」


 目を丸くしている少女の顔を見て、ぼくはふいに、全てのことを洗いざらいぶちまけてみたい気持ちになった。六年間付き合った彼女に浮気された挙句フラれて、食欲もなくなり、不眠症になった話を。初対面の人間に、そんな話をするべきじゃないということはよくわかっていた。よくわかっていたが、一度頭を掠めた想いを打ち消すことはできなかった。誰かに話を聞いて欲しくてたまらなかった。

「——じつは」

 気がつくとぼくは、この一ヶ月のあらましをしゃべり出していた。

 しゃべっている間中、ぼくはずっと後悔していた。それでもぼくは、しゃべるのを止められなかった。ぼくの口はあらゆる後悔や自己嫌悪を垂れ流し続けた。そうしてぼくが一通りしゃべり終えると、長い沈黙が訪れた。少女は黙ったままタバコを吸っていたが、やがて短くなったタバコを足元に落として踏み消すと、ぼくの顔を見て言った。


「……よかったじゃん」
「よかった?」


 ぼくが思わず聞き返すと、少女は立ち上がって、尻を叩きながら答えた。


「だって、そんだけ好きだったんだろ? メシも食えなくて、夜も眠れなくなるぐらいさ。いいことだろ。そんだけヒトを好きになれたってのは、いいことだ。だって、別れたとき、悲しくないほうが、悲しいだろ」


 少女はきびしいような、やさしいような、不思議な表情を浮かべていた。そしてその綺麗な瞳はまっすぐこちらを見つめていた。気圧されたぼくは目をそらすと、肩をすくめて答えた。


「……そんなもんかな」
「そんなもんだ。ま、人生いろいろあるよ。でもヒトって結構じょうぶに出来てる。だいたいのことは乗り越えられるし、乗り越えたことを誇りに思える日が来る。とにかくお兄さんがいまやるべきことは、ひとつだ」


 そして少女はラジカセの再生ボタンを押した。ふたたびテクノミュージックが爆音で流れ出す。ぼくがキョトンとしていると、少女はその場で両手を広げてクルクル回りながら叫んだ。


「踊れ!」
「え、あ、お、おどっ?」
「悲しいことがあったら、まず何より先に踊んだよ! 踊るってゆーのはなぁ、今を生きるってことだ! 何も考えないで、とりあえず踊ってみろ! ドント・シンクっ、レッツ・ダンスだ!!」
「やっ、でっ、でも、ぼくっ、踊り方とかっ、知らないしっ!」
「どーでもいんだよそんなの! 正解とかねーよ! 人生と同じ! オマエはオマエの踊りを踊れ!」


 そうして少女は激しく踊った。長い手足を振り回し、狂ったように。ぼくは戸惑いながらただそれを見つめていたが、カメラを置いて立ち上がると、おそるおそる、身体を揺らした。

「いいね! いいよ! いいぜ! そのテンション! そのグルーヴ! そのバイブスっ! イキイキと! のびのびと! めちゃくちゃに! ぶっ壊れてみろっ!!」


 少女が快哉を叫ぶ。ぼくはもうほとんどヤケになって、両手足をめちゃくちゃに動かし、全身を激しく痙攣させた。少女はゲラゲラ笑いながら、炎のように長い髪を振り立てた。突如として始まった狂乱のふたりレイヴは、いつまでも続いた。


 夜明けが近づいてきたころ、ぼくらは汗びっしょりのまま石段に座って、火照った肌をさましていた。身体はぐったりと疲れ切っていたが、不思議と心地よかった。少女は青白いほっぺたに黒髪を張り付けたまま、にやにやしながらタバコを吸っていたが、やがてタバコを地面に落とすと、ラジカセを掴んで立ち上がった。


「——さて。ほんじゃ、アタシはここらで帰るとするわ」
「え、か、帰るの?」
「あたりめえだろ。こっからは各パってことで」
「おのぱ?」
「各々パーティー。各自、好きなように、いい感じでブチ上がってく的な意味」
「こ、これで、お別れってこと?」
「なにキメーこと言ってんだよ。縁ありゃまた、どっかしらで会うって」
「ま、また明日も、ここに、いる?」
「知らねーよ。そんな先のこと解るワケねーだろ。じゃ、またな」


 そして少女はふいっと背を向けると歩き出した。ぼくの脳裏に直感が走った。ここで別れたら、もう二度と、彼女には会えない気がする。ここで彼女を呼び止めなければ、ぼくはたぶん、一生後悔する。そう思ったとき、何を言うか決めるよりも先に、ぼくの口は動いていた。


「……あのさあっ!!!!」


 少女は足を止めると、こちらを振り向いた。


「……なんだよ?」
「あのさ……あの……その……君を撮りたい」
「アタシを?」
「そ、そうっ。いろんなとこで、そんときの思いつきで生きてる君を、写真に、撮りたいんだよ」


 それはまったくの口から出まかせだった。ぼくは頭をフル回転させて、なんとか少女の気を惹こうと必死だった。


「もっ、もちろん、タダでとは言わない。お酒は、好きなだけ、奢るから」


 少女は怪訝な顔でこちらをじっと見つめていたが、やがてゆっくり口を開いた。


「……タバコは?」
「え?」
「タバコは買ってくれねえの? あと、お菓子」
「……っ、うんっ、タバコも、お菓子も、好きなだけ奢るから!」
「やべ。爆奢り兄さんじゃん」


 そして少女はうつむきクツクツと笑ったのち、答えた。


「わかった。いーぜぇ」


 ぼくは心の中でガッツポーズすると、立ち上がって少女のまえへと言った。少女は歯を見せて笑うと、手を差し出した。


「……え、なに?」
「握手だよ。ケーヤクテーケツの、握手」


 ぼくはおずおずと少女の手を握った。しっとりと汗ばんだ少女の手はびっくりするほど小さくて、柔らかかった。


「はい、ケーヤクセーリツ。ウソついたらオマエんち燃やすからな」
「う、ウソなんかつかないよ。お酒でもタバコでもお菓子でも、無限に奢る」


 そして少女はパッと手を離すと、その手で前髪を搔きあげながら言った。
「そういやお兄さん、名前は?」


「エージ」
「エージエージエージエージエージエージエージエージエージエージ。よし覚えた。アタシ、十回言わねーとヒトの名前覚えらんねーんだ」
「えっと、それで、君は?」
「アリス」
「ありす?」
「そう、アリス」
「本名?」
「本名。笑っちゃうよな。でも、笑ったらブッ殺す」
「わ、笑わないよ」
「あ、それからひとつだけ注文がある」
「……いいよ、何?」


 するとアリスは、ぼくの鼻先に指を突きつけながら、凄むように言った。
「アタシは完っ全に夜型なんだ。だからアンタと会うのは、夜だけだ」
 

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