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どうする

「40代から考えるわたしの終活」という講座に参加した。自分だけでなく、親兄弟の親族の最期にどう向き合うか、という話でもある。

事故や病気で突然亡くなる人も多いだろうが、徐々に衰え、介護が必要になる時期も経て亡くなる人も多い。病気や怪我で病院に運ばれて、そのまま帰らぬ人となったり、施設へ移されて自宅に戻れないままの人も多い。

そうなったらどうするか。どうしたいか。どうして欲しいか。それを家族に聞いてくる、というのが宿題だった。

オットに聞いてみたら「日本は安楽死が認められてないからなあ」と言った。「医学の進歩とか、その時にしか判断できないことも多いだろうから、状況次第かな。それに、俺に意識がなかったら、あとは家族とか残された人たちの判断だからな。まかせるわ」と言った。誰に介護してほしいか、という質問には「プロですかね」と答えた。そうか。そうなのか。

わたしはどうだろうかと考える。胃ろうとか、人工呼吸器とか、そういった処置をする前に家族は聞かれるだろう。「やりますか、やりませんか」と。その時、わたしの意志がはっきりしていたら、家族はそれを尊重するだろう。そこでエンディングノートの登場である。

エンディングノートは、どうしたいか、どうして欲しいか、を書き残しておくものだが、人の考えは変わったり変わらなかったりする。だから毎年、誕生日とか正月に書き換えていくことが大事なんだそうな。

まだ先のことだからわからない、と思っていても、誰がいつどこで倒れるのかは誰にもわからない。1時間後にわたしが意識不明の重体になっている可能性もゼロじゃない。

ちなみに、わたしが介護されるような状態になったら、誰が介護をしてくれますかね?と聞いたら、オットは「老人ホームですね」と即答した。プロに頼めることは頼む、ということだと理解しておこう。

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