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日本の花の「散る」を愛でる

Wellbeingのあり方を追求するイメージコンサルタントの あべりかです。

桜の花びらが、少しずつ地面を彩るようになりましたね。
今日は花それぞれの「散る」表現を通して、日本人の感性についてまとめてみました。

花それぞれの個性を表す 「散る」


桜が「散る」という言葉を使うのに対し、梅は「こぼれる」朝顔は「しぼむ」菊は「舞う」牡丹は「崩れる」椿は「落ちる」という表現を使うようです。
朝顔の「しぼむ」、椿の「落ちる」は、植物としての変化を言葉で表したものなのだろうな、と理解はできます。
梅、菊、牡丹の表現について、和歌や俳句とともに掘り下げていきましょう。


こぼれる梅の花びら

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梅の「こぼれる」は漢字では「溢れる・零れる」で辞書にも「花・実・葉などが散り落ちる」と解説がありました。
この「こぼれる」という表現、一説には、目の高さからポロポロと落ちる感じを表現したとか。
「溢れる・零れる」の他の意味は、「溢れる液体がいっぱいになって、容器や川・池などからあふれ出る」があります。目の高さということや、丸い形から、涙を連想したのでしょうか。

梅って、咲くとき「ほころぶ:綻ぶ」って表現をしますよね。
ほころぶは、縫い目・綴じ目が解けることを指します。
目の高さにあった、春の訪れを告げる硬く閉じた梅の蕾をよく観察していたのだなぁ、と思うのです。

令和の元号の由来も万葉集の梅花の歌からとっているように、万葉集の頃は花といえば、梅や萩でした。


萩も梅同様、「こぼれる」という表現を使います。
万葉の時代、梅よりも身近な植物として愛されたようです。
ただ和歌の中に見かけた記憶はないので、詩とか、俳句、文学作品の中で使われているのでしょうか。
秋の七草に入っている萩。控えめなんですが、気品があって私は好きな花です。


菊は舞うと表す

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菊の花を和歌で表現するときは、「うつろふ」だったような・・・

「秋をおきて時こそ有けれ菊の花うつろふからに色のまされば」紀貫之
(秋を過ぎてこそ 菊は盛りであり、打ち萎れていく程に 色の美しさがまさる)

通常、褪色した花はあまり良いものとされませんが、平安貴族に愛された菊は別格でした。
「移ろふ」は、晩秋に白菊が霜枯れし、花弁の端から「紫」に褪色した様子を指します。
高貴な色の代表である紫に変わることにより、盛りの頃の白菊よりも美しいとされたのは日本人ならではの感覚だと思います。


ただ、「舞う」という言葉はどこから出てきたのか、出所がわからないのです。
どなたか知っていたら教えてください。
菊は枯れると花びらが残って垂れていき、その垂れた花びらが風に吹かれてまるで踊っているように見えるらしいです。


崩れる牡丹

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「牡丹の和歌って古典であったかな?季語は春だったな」と思い出しました。

高浜虚子先生辺りが詠んでるかしらと探したらありました。

「牡丹花の面影のこし崩れけり」

一方、私が好きな与謝蕪村さんは、

「牡丹散て打重りぬ二三片」

「散て」と表現しています。

引用するとキリがないですね。
同じ散った牡丹でも、こうも表現を変えるのか、とすごく興味深いです。
その人の美学がどう浮き立つか、俳句はストレートにきますね。
(オタク魂が炸裂したくなる気持ちは抑えて、話を戻します)


花は最期まで


どの言葉からも、先人たちが季節とともに、花の最期まで慈しんでいたことがわかります。
和歌や俳句は詠めないけれど、花瓶の中の頭をもたげ始めた花を一輪、お皿に浮かべたりするのも、同じ感覚ですよね。

先人の一瞬一瞬をありのままに感じよう、愛でよう、という姿勢が感じ取れて、季節と共に過ごすことが改めて愛おしくなるのです。
自然とともにあること自体、マインドフル的な生活なのかもしれない、と感じることが多いです。

そして、それぞれの人が目にする自然の美しさは、それぞれに違う部分を感じ取る。artで自由な感覚でいさせてくれることに、ホッとするのです。

今朝の早朝ランニング。神田川の桜から舞い降りる桜の花びらに癒されました。
私の感覚では「散る」ではなく「舞い降りる」でした。

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さて、散り始めた桜に、みなさんはどんな想いを添えて眺めますか?


文化に触れることは、生活を丁寧にしてくれるなど、心の余裕に導いてくれます。私の提案するコンサルティングでは、セルフケアの一つとしてお伝えしています。

「軽やかに、しなやかに、微笑みとともに」
イメージコンサルティングのスキルを通して、あなたのWellbeingにつながりますように。

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