見出し画像

短編小説「透かしても見えない」第八話 逃走

ざわざわ。
ざわざわざわ。
人が動く気配がして、私は薄らと目を開けた。ぼやけた視界がだんだんと広がってゆく。
「……」
最初に飛び込んできたのは、真っ白い天井。いつもより身体が温かい心地がして、柔らかな毛布が、全身包んでくれているのが分かった。しかしそれ以外は何も分からない。今何時で、ここはどこなのか。すぐに理解することはできなかった。
「あ、唯佳ちゃん起きた?」
頭上から先ほど聞いたばかりの声が降って来て、ぎょっとする。なにこれ、なんでここに彼がいるの!
そう、私を心配そうに覗き込んできたのは、紛れもなくコンパで出会った和楽器サークルの和田先輩だった。
「へ、せ、先輩……!?」
「そーだよ。和田先輩だよ」
けろりとした声色で彼は答えた。私はガバッと身体を起こし、部屋中を見回す。1Kの狭い部屋。私の下宿先とほぼ同じ造り。そして私と先輩以外、誰もいない。間違いない、ここは和田先輩の一人暮らしの部屋だ……。
頭が真っ白になり、途端にパニックに陥った。どうしよう。初対面の人の家に二人きりでいるなんて。しかも相手は男の先輩。
「あの後ぐっすり眠ってたから、うちで寝てもらうことにしたんだ。ゴメンね。でも誰も唯佳ちゃんのこと運べなかったから」
先輩はお酒に酔い潰れた私を介抱するために自宅に連れて来てくれたのだ。確かに、沙紀や他の女性には私を運ぶことはできなかっただろう。
そう思うと、和田先輩に対して申し訳なさが込み上げてくる。いくら女だからって、子供じゃないのだから、楽には運べなかっただろう。心の中は今日会ったばかりの人に迷惑をかけた羞恥心でいっぱいで、いたたまれなくて。
「すみません! すぐ帰ります。今帰ります」
寝坊をした日の朝みたいに急いで布団を押し除けてベッドから降りようとした。
……のだけれど。
「えっ」
肩をぐっと押され、私は身体を浮かせることができなかった。
抑えているのは紛れもなく和田先輩。恐る恐る顔を上げる。彼の目は、先ほどとは打って変わって鋭くぎらついていた。
本能が、やばいと告げている。明るくて陽気な人間だと思っていた人の、本性。いや、彼だってお酒が入っているから、本性ではないのかもしれない。でも、こんなにも“オス”の顔をした人間を、私はこれまで見たことがなかった。
「せっかく縁あって出会ったんだし、1回くらい、いいよね」
気を抜けばそのまま押し倒されそうなほど、彼の力は強く、彼の腕をはねつけようとしても全く力が及ばない。一気に酔いが醒める。頭が冷静になればなるほど、恐怖心が膨らんでゆく。
「やめて」と全身全霊で叫びたかった。でも、怖くて何も言葉が出てこない。それに、叫んだところで誰が助けてくれるというんだろう。ここはよくある下宿マンションの一室。
自分を含め、下宿をしている友達でご近所付き合いをしている人は皆無だし、ちょっと声を上げたからと言って隣の住人が来てくれることもないだろう。
ぐぐっと、和田先輩の手に一層力が込められる。なすすべもなく、ベッドに押し倒される。筋肉質の大きな身体が覆いかぶさってくる。痛い。恥ずかしい。彼が手を伸ばし、リモコンで部屋の明かりを消す。薄暗い闇に、堕ちてゆく私。
もうダメだ。
本気でそう思った。
諦めてしまえばそこから先は早くて、身体中から力が抜けてゆくのが分かった。抵抗する気力を失った私は、せめて不用意な反応をしまいと心に固く誓った。

「……ちゃん」

耳元で、誰かが囁く声が聞こえる。一体だれ。
「唯佳ちゃん!」
誰、だなんてそんなの決まっている。ここには私と和田先輩、それから幽霊のあなたしかいないのだから。
大きな叫び声だった。
普段は適当にへらへら笑って「美味しいものが食べたい」とか「デートしたい」とか、あなたは本当に幽霊なの、と突っ込みたくなる性格の彼からは予想もつかないような、必死の叫び。
私は暗闇の中で彼の姿を探した。どうりで出てこないと思っていたが、彼は廊下にいたのだ。先輩が悪い人じゃないと思って気を遣ってくれていたのだろう。しかし、雄に化けた和田先輩に襲われる私を見て、慌てて出て来た、そんなところに違いない。
「なに、諦めてんだ! 逃げなきゃだめだろう。そんなやつに簡単に身体許すなよ! おい、聞いてんのか!」
いつになく荒々しく、吹き荒ぶ嵐のようだと思った。眉根を寄せ、歯をギリギリと噛み締めて、全身で憤る。
そんな彼の言葉に、身体を流れる血が激しくめぐる。熱い。なぜ幽霊なんかに、そんなふうに言われなきゃいけないのか。私の生き方を選ぶのは、私以外の何者でもない。
ほっといてくれ、というのが本音だった。
諦めたのも先輩に身体を許したのも私。これ以上、生き恥を晒したくない。
「ああうっさい、黙ってよ!」
シン、と一瞬にして空気が鎮まり返る。
キスをしようと顔を近づけていた和田先輩の肩がびくっと震えた。
「な、なんだ」
和田先輩は、何が起こったのか分からないというふうにはっきりと戸惑いの色を浮かべた。そりゃそうだ。突然目の前で「うるさい」と叫ばれて、頭がおかしいやつだと思われたに違いない。
やってしまった、と思った。
これまで、どんな状況に陥っても、決して人前で涼真と話しているところを見られまいと頑張っていたのに。
今、私ははっきりと涼真の言葉に反応してしまった。しかも、こんな切羽詰まった状況で。
なんたる不覚。
私は、先輩を押しのけて両手で顔を覆った。もう終わりだ。見なくても分かる。先輩は完全に引いており、私に触れようとしない。
もうどうにでもなってしまえ、と無我夢中で髪の毛を振り乱し、ダッシュで玄関まで走る。
「お、おい!」
そう叫んだのが先輩だったのか、涼真だったのか分からない。どっちだっていい。どうせ私は初対面の男の前で簡単に身体を許し、挙げ句の果てに訳のわからないことを叫び逃げた、どうしようもなくヘタレな女なのだから。


共感していただいた方、「面白い」と思ってくれる方のサポートは何よりの励みです。よろしくお願いいたします!