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短編小説「透かしても見えない」第九話 そして、見えなくなる

和田先輩の家から出ると、真っ暗な空の下、私もよく知っている街並みが目に飛び込んできた。同じ大学の人だから、家が近くても不思議じゃない。川を渡る必要はあるけれど、よかった。ここからなら下宿先まで15分もかからないだろう。
みじめな思いを抱えたまま、私は自宅へと続く鴨川の橋を渡ろうとした。でもなんとなく、橋を渡る前に河原を歩きたくなって、下へと降りる。すぐ目の前で流れている水の音が不安定だった心を少し落ち着けてくれた。
そのまま川辺に腰を下ろし、体育座りのように膝を抱え込んだ。当たり前だけれど、寒い。
先輩の家にコートを置いて来てしまった。介抱してくれたのにお礼言えなかったなと、ちょっと後悔したけれど、その後襲われたことを考えればむしろお礼なんて言わなくて良かったとも思う。
夜の鴨川は、昼間に見るのとは違って、底無しの闇だった。昼間だと透き通っていて綺麗だと思う水も、夜は見えない。
「……唯佳ちゃん」
知っていた。涼真がずっとすぐそばにいること。5メートルだけなら私から離れられるから、普段はちょっと距離を置いてついてくることが多かった。でも、今日だけは、彼は私の隣から離れようとしない。ちょっと前に彼とデートに行ったときのことを思い出す。あの時と今日では、胸にこみ上げる切なさが違う。あの日だって、自分の中で新しい気持ちが芽生えるのを感じた。それが、彼に対する恋だということにも、とっくに気がついていた。
「涼真なんか、いなくなっちゃえばいいのに……」
心とは反対の言葉が、口から漏れた。本当はいなくなって欲しくなんかない。涼真も私が本気でいなくなれなんて思っていないと気づいたのだろう。「唯佳ちゃん」と再び私の名前を呟いた。
冷たい風が頬に当たって痛かった。身体が小刻みに震える。彼に温もりが、あればいいのに。
「ごめん」
先に謝ったのは彼の方だった。
どうして謝るの、と言えたら良かった。でも、今の私は彼の次の言葉を聞こうと必死で。自然と耳に流れる川の音よりも、彼の想いを掬いたかった。
「俺さ、あの時。唯佳ちゃんが和田っていうやつに襲われそうになった時、本当はあいつを殴って唯佳ちゃんを助けたかった。でもこんな身体になっちまったから、唯佳ちゃんを助けられないと思った。だからああ言うしかなかったんだ」
生身の人間だったら、とっくに先輩をボコボコにしていたよ、と得意げに彼は笑った。
「でも結果的に傷つけちゃって、本当にごめん。俺は唯佳ちゃんのことを何も分かっていない」
ふっと肩の力を抜いて、諦めの表情を浮かべる彼。
「本当はもっと、君の隣にいたかった」
背中の表面にゾクゾクという気持ち悪い感覚が走った。
彼が、消えてしまう。
根拠は何もないのだけれど、この時の私にははっきりとそう感じた。
だって彼は、今にもどこかへ行ってしまいそうな空気を醸し出しているんだもの。
待って、と叫びたかった。でも、途端に頭痛に襲われて、こめかみ辺りを抑える。こんな時にどうして急に。もともと頭痛が起こりやすい体質ではあったけれど、よりにもよって、なんで今。
悔しさと痛みに、顔を歪めた。涼真が「唯佳ちゃん大丈夫!?」と私の肩に手を伸ばす。次第にひどくなってゆく苦痛。視界が少しずつ狭まってゆく。
ぴき。ぴき。ぴき。
唯佳ちゃん。
記憶の端で、誰かが私を呼んでいた。
唯佳ちゃん。
どこかで聞いたことのある声。いや、最近まで、さっきまで私のことを呼んでいた声と同じだ。
でも頭の中で響いているのは、「今」の彼の声じゃない。
だったら、いつ?
いつ、彼は私の名を呼んだのだろう。
私は何を忘れているんだ。何かとても、大切なこと。忘れてはいけないこと。決して忘れたくないことだということは分かる。チラチラと脳裏で見覚えのない風景が流れ始める。私は車の助手席に乗っている。運転席に乗っているのは、沙紀だろうか? いや、違う。彼女は運転が苦手なはずで、二人で遠出する時は必ず電車で出かけていた。
ゆっくりと、運転席に座る人の記憶を手繰り寄せる。もう少し。あともう少しで全て思い出せる……。


「しっかりして、唯佳ちゃん」
肩を揺さぶられたような感覚に、はっと目を覚ました。いつの間にか河原に横たわっていたらしい。
「涼真……?」
真っ先に視界に飛び込んできたのは、心配そうに私を覗き込む彼の顔だった。
「良かった……無事で」
ああ、そうか。
どうして忘れていたんだろう。
私は彼と、ずっと前から知り合っていたんだ。透かしても見えないと思っていた彼の心は、今の今まで私の中にあったのに。

あの事故が——半年前、私の乗っていた車が脇道から飛び出して来た車にぶつかるという事故が起きた日。運転席に座っていたのは彼、駒沢涼真だった。
「危ないっ!」
身体に衝撃が走ったその時、彼は自分の身を守るよりもまず私の頭を庇ってくれた。大きな衝撃と、エアバッグと、彼の胸。
何が起こったのかは分からなかったけれど、少なくとも私は無事で、怪我も大したことなくて済んだ。彼の、胸に守られたからだ。
でも代わりに彼は——涼真は、命を失った。
たぶんそのショックで、彼の存在が記憶から消えていたのだ。私が、消し去ってしまったのだ。
自分がとんでもない過ちを犯してしまったことを知り、ツーっと涙が溢れる。地面に水滴が落ちる。後悔と、やるせなさが、水たまりをつくってゆく。
「涼真、ごめんなさいっ。私は、私は、あなたを忘れてしまっていた……!」
恋人だったのに。
大学1回生の頃から半年前まで、私はほとんどの時間を彼と過ごしていたのに。
全部大切な思い出だったのに。
こんなにも簡単に、こぼれ落ちてしまうなんて。
私を慰めようとして伸ばしかけた彼の手が止まる。
彼も、思い出したのだ。
自分と私がかつて、心を通わせていたこと。青春時代の全てをかけて想っていたこと。
だからこそ、彼は私の前に現れたんだ。
「そう、だったんだね。俺も全部、思い出したよ。そうだ、俺は唯佳ちゃんにもう一度笑って欲しくて、ここにいるんだ。俺のことを忘れないで、でも、俺がいなくても幸せに過ごして欲しいって、思って」
彼は自分の掌をじっと見つめた。心なしか、その手が以前よりずっと透けている。
「やだ、行かないで! もっとそばにいて! 私はもう二度と、涼真とお別れしたくないっ」
全身全霊で叫ぶ。橋の上から、あの女の子は一人で何を喚いているのだろうと覗き込む人の視線を感じる。でもそんなこと、今はどうだっていい。彼と共有している時間を、一分一秒だって無駄にしたくない。
「唯佳ちゃん……」
切なげな表情で、私を見つめる涼真。再びその手は私の頭を撫でた。当然、何も感じない。感じられない。今の彼には温度がない。
それなのに、心が温まるのはどうしてだろう。
冷たい夜の風だって、平気だった。
「涼真が好きなの。ずっとずっと、出会った時からずっと、変わらない。ううん、あの頃よりももっと好き。これからも一緒にいようよ。幽霊だって呪いだってなんだっていい。あなたといられるなら、なんにもいらない!」
叶わないことだと知っていたからこそ、叫び続けた。
神様、どうか。
どうか彼を連れて行かないで。
もう少しだけ、時間をください。
私はかつて、彼を失った悲しみから逃げて目をそらして、彼の存在自体をなかったことにしようとした。だから神様が罰を与えたのだ。そんなことは分かっている。それでも私は。

唯佳ちゃんといられればそれでいい。

かつて涼真が私に言ってくれた言葉。学校の帰り道、公園で、デート先で、ベッドの上で。
何度も伝えてくれていた。
幽霊になってからも、彼の心に棲んでいた想い。

「俺も、俺だってずっと、唯佳ちゃんと一緒にいたいんだ! でも、もう時間みたいだ。唯佳ちゃんが俺のことを思い出して、俺が唯佳ちゃんのことを思い出す。それが、成仏の条件だったってことだな」
はは、と力なく笑う涼真。
そんなの。そんな残酷なこと。神様は、私たちに強いたのか。
いや……違う。
神様は、私たちにチャンスをくれた。
もし彼が二度と姿を見せなければ、私は死ぬまで彼のことを忘れていただろう。両親も、沙紀も、私が傷つかないように、今まで彼の話題を出さなかったに違いない。
でも実際に、彼は私の前に現れた。私はもう一度、彼を思い出すチャンスをもらったのだ。
「バカ、ね」
彼に伝える言葉は、「行かないで」と縋る言葉じゃない。
命をかけて私のことを守ってくれたこと。
死してなお、私を見守ってくれたこと。
なにより、幸せな時間をくれたこと。
胸の中にじわじわと広がってゆく痛みと比例するように、気がつけば彼と過ごした日々の幸福感が膨らんで。
私は彼の身体を抱きしめる。ような、仕草をする。
今の彼の身体に温度はない。
けれど、間違いなく私は感じることができた。
ありがとう。
私を助けてくれて。
ありがとう。
また私の前に現れてくれて。
最初は怖かったけど、幽霊との毎日は刺激的で楽しかった。
「ありがとう、大好き」
大切な気持ちを言葉にのせて、彼に贈る。
途端、彼の身体が暖かな光に包まれて、ああ、終わるんだなと直感で分かった。
「俺も、大好きだ」
世界で一番、幸せな彼の想い。透かしても見えなかった彼の真の想いを胸に受け止めて。
いなくなった彼を抱きしめていた腕で、自分の身体をぎゅっと抱く。
川の水の音が、先ほどよりも大きく聞こえる。
冷たいはずの11月の夜。まだ彼の温もりが胸に残っているから。
もう少しだけ、ここにいようと思った。


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