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山の頂上から見た景色

ずっと、山の頂上から見た景色が描きたかったのです。

わたしは自分の過去の作品を見る時、なんとも言えない気持ちになります。一言で言えば恥ずかしいのでしょうか、とにかく頭のあたりがぞわぞわして、身体もなんだかじっと出来ず、作品を直視することができないのです。我ながら自意識過剰だと思います。ですが、そう言って自分の恥じらいを一蹴したところでわたしの中に確かに存在する恥は消える訳もなく、わたしは変わらず自分の過去の作品の前でひとり悶えているのです。
どうしてこんな心地になるのだろう、と考えてみました。この先ずっとこの調子ではなかなかに不自由だな、と思ったのです。このままでは「絵は描きたいが、正視できない過去の作品が出来上がることに耐えられないので描かない」というおかしな状況に陥りかねないと、半ば本気で恐れます。

自分の過去の作品が恥ずかしいというのは、つまりどういうことなのでしょう。考えた結果、「その絵に込めたかつての想いが恥ずかしい」ということのように思われました。たしかに、学生時代の作文を読んだ時にも似たようなこそばゆさを感じます。何も疑わず信じているさま、または、過剰に疑って斜に構えているさまを文面から見て取り、ぐわあ、となるあの感じ。その物事についてそんなに語れるほど知っている訳でもないだろうに、よくもまあそんな、と自分をいさめたくなるのです。
それでいうと、自分の犯した「無知という罪」を償いたくなっているのかもしれません。「当時は今ほどよく物を知らず、本当に恥ずかしいことでした」と恥じ入ることで、誰かに許してもらいたがっているかのようです。そうまでして、わたしは一体誰に許してもらいたいのでしょう。
架空の誰かに、許してほしいのだと思うのです。当時の自分の至らなさが自分のことゆえに本当によく目につくから、いつか誰かに見咎められやしないかと恐れ、恐れるうちに知らず知らずつくりあげた「いつかわたしを見咎めてくる架空の誰か」に、許してほしいのです。つまりわたしは、わたし自身に、許してほしいのです。

わたしは絵を描くときに、こだわりというのでしょうか、漠然とした目指すものがあります。それは例えるならば、山の頂上から見た景色を描きたい、という感覚です。ですので山を見つけては登り、こここそがわたしの求めていた山の頂上だ、と意気込んで絵を描きます。それからしばらくして、また別の山を見つけます。そこへまた登ってみて頂上からの眺めを見たとき、以前あれほど感じ入ったはずの山が遠く小さく見え、そこではじめて、あれは山ではなくただの小高い丘だったのだと気が付くのです。あんな小さい丘の上で、わたしは山の頂上だなどと言っていたのかと、顔が熱くなります。と同時に、いま居るこの場所も、もしかしたら山ではなく丘なのではないかと思われ、途端に足元がおぼつかなくなるような不安に駆られ、怖くなるのです。
とはいえわたしの作品は、人から見たらきっとどれもただの風景画でしょう。しかしそこに「山の頂上から見た景色だ」という想いを込めたことを誰よりも知っているわたしは、どうしても恥ずかしくなるのです。そうして、このちぐはぐさに気付いた誰かにいつか責められやしないだろうかと怯え、山に登ることも、筆を執ることもやめて、ただ怖がることに専念します。いつか来る「誰か」に備えて、言い訳を考えたり、要らぬ武器を買い込んだり、逃げる準備をしたりして、ほとほと疲れ果てるのです。
「山の頂上から見た景色」というこだわりを捨てれば、幾分か楽になるのでしょう。わたしは風景画を描いているだけで、山の頂上がどうのこうのだなんてこれっぽっちも思っていませんよ、としてしまえば、全てが解決するように思われます。しかしそうすると、今度はどこへ行けばいいのか、何を描けばいいのか分からなくなります。わたしが描きたいのは、やはりあの、山の頂上から見た景色なのです。

ところで、山というのはどういうものでしょうか。辞書によると「地表の高く盛り上がっているところの総称」とあります。では山と丘の違いは何だろうかと調べてみると、どうやら明確な違いは定められていないようなのです。
そう、こんなにも自由で曖昧なものに勝手にキチキチと線を引き、あれ程いとしく思った山をひとつ残らず丘に変え、かつての喜びや、これからの行き先までをも消し去ろうとしていたのは、他でもないわたし自身だったのです。誰に指図された訳でもないのに、ただ自分が他人にどう見られているかということに好き好んで注力し、勝手に自分を恥じ、勝手に敵を作り、その中で不自由で在り続けることを、わたし自ら選び続けていただけだったのでした。

顔を上げ、眼下にひろがるかつての山々に目をうつすと、それらは大小あれどいずれも地表から高く盛り上がった、ひとつひとつが変わらずいとしい、わたしにとっての山でした。そしてこれから登るであろう山々もまた、かつて登った山を丘だと貶めるはずもなく、どっしりとしたうつくしさで、ただただ山としてそこに存在しているだけだったのです。
果てしなく、どこまでもどこまでも続く山々。そんなわたしにとっての山々を、これからもきっと、また登り続けよう、と、わたしはきつく靴紐を結び直すのでした。

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