最近観た映画の話。
「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」「花束みたいな恋をした」「ミッドナイトスワン」をここ一月で立て続けに観た。
一ヶ月に三本というと、映画好きな人ならばさほど多い数ではないだろうが、
コロナウイルスが流行り出して、この一年間一度も映画館に足を運ぶことをしなかった私にとっては、久しぶりに映画にどっぷりと浸かった一月だった。
自分の家で映像作品を観る体験に比べ、映画館の大画面で観ること、そして映画作品を同じ画面で偶然その場にいる見知らぬ人たちと共有すること、
いつでも一時停止できる自宅と違い、始まれば席を立てない映画館だからこその没入感、非日常感などなど…、
やっぱり映画館でみる映画はいいなぁ、と感じたのが、先ず一つ目の感想。
そして最初にみたシンエヴァで、映画館も検温や消毒、飲食の制限、換気など、しっかりとコロナ対策をしていて、安心して足を運べることが分かった。
こうしてまた映画館にいく切っ掛けを与えてくれたエヴァと庵野監督に感謝します。
さて、それではそれぞれの作品の感想を少しずつ書いていきたいと思うのだけれど、
その前にまだそれぞれの作品が公開中なので、これから三作品それぞれの映画を観に行く予定の方は、ネタバレ満載の感想となりますので、どうかご注意、ご自衛を。
そして大切な事をもう一つだけ。
作品を観るということは、作品対私、の極めて個人的な物だという事をお話しさせて下さい。
つまり、同じ作品をみても、違う人間が見れば、百通り、千通り、一億通りの感想をもつ筈です。
以下で私は作品を貶すような言葉を放つときもありますが、
それはあくまで私にとっての評価であって、「絶対的な評価ではない」ということをご了承下さい。
あなたにとって大切な映画をけちょんけちょんに言ってしまったらごめんなさい。
これは、あくまでも私の個人的な意見です。
そして、多様な意見が生まれる作品こそ、名作なのではないか、と思う所存です。
それでは、参りましょう。
先ずは「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」から。
私がエヴァに出会ったのは、25年前。
ナディアをリアルタイムで観ていた小学生だった私は、エヴァを固唾を飲んで毎週ビデオに標準テープでCMカットして録画する中学生になっていた。
衝撃の最終回を迎え、その後も旧劇場番、新劇場番と長い年月をエヴァと共に歩いてきた。
なので、いよいよ終わる終わる詐欺、ではなく、ガチでエヴァが終わる、と知って、褌を絞める気持ちで旧作を見返し、映画館に向かった。
そして、宇部駅の階段を掛け上がるマリとシンジの背中を見送って…
「こんなもんか」
と、思った。
25年の年月は長い。
孤独だった(であろう)庵野監督は安野モヨコという伴侶を得て、気づけばリア充になっていた。
そして、父の年齢に近づいた庵野監督は、「父が理解不能で越えられない壁」ではなく、「父も同じ孤独や痛みを抱えた、ただの人であった」事を知り、
父を許し、父の行いのツケを自分の命を持ってしてケリをつける程の覚悟をもった主人公を描けるまでの立派な「大人」になった。
そうしてシンジは、庵野監督の分身である登場人物を漏れなく救い、
物語のなかで唯一の他者の投影であるマリと(対して作品の中で絡みもないにも関わらず)、
エヴァの無い世界で、25年間のエヴァの呪縛の象徴であるDSSチョーカーをマリ(=奥さん)に解かれ、
大人になった二人は庵野さんの地元の駅から世界へと手を繋ぎ駆け出していった…。
「四半世紀付き合わせて、何を見せられているんだ?」
まぁ、そう思いましたよね。
惚気か?と。
知らんがな、と。
「大人になり、父を許し、地に足をつけ、家族を作り、子を育て、何時までも自分自身のことばかりに囚われてないで、
他者や社会と調和して生きろ。」
それがもしあの映画のメッセージだとしたら、そんな陳腐な常識のような、道徳なような言葉が聞きたくて、
25年間耐えてきた、付き合ってきた訳じゃない。
当たり前のことなんて、他の凡百の作家が語ってる。
庵野さんの口からは絶対聞きたくなかったよ。
と、そんな感想を抱きました。
観た直後は「とうとう終わったな」って感慨に浸ってたんですが、段々ともやもやしたものが溢れてきて…。
これならば、airまごころを君にの「気持ち悪いエンド」の方がエエなぁと思ったのでした。
と、エヴァの感想はこんなもんです。
すんません、ひとつめでこれです…ちょっと長くなります。
はい、お次は「花束みたいな恋をした」です。
私の20代はモラトリアム期でした。
私もかつての麦のように、絵で食べることを夢見て作品を描きためたり、漫画の学校に通ったり、持ち込んだりしてましたが、
箸にも棒にもかかりませんでした。
自分自身の才能の限界もあったとは思いますが、今思えば絵で食べることの覚悟が足りなかったのだと思います。
変な話ですが、夢を追っているはずなのに、どこかでその夢を叶える自分を信じ切ることが出来なかった。
だから、死に物狂いで絵に食らいつくことが出来ず、諦めたのだと思います。
今は絵とはまったく違う仕事をしています。
それでも一時は絵を描くことが怖くて、そしてまた描けるようになった今でも、嫉妬で売れている同期の作品を見ることが出来ません。
そんな私なので、この作品にもしかしたら気持ちを動かされるかもしれない、と思ったのですが(フリーターしながら絵を描いてた時、丁度同棲していたこともあり)
まっっったく、感情移入できませんでした。
サブカル好き同士、話があって付き合った麦君と絹ちゃんですが、
麦君が自分の才能に限界を感じ、就職した所から話は変わっていきます。
社会人となり仕事に追われ、かつてのようにもう物語を読んでも感動しなくなった麦は、
かつての自分ならバカにしていたような自己啓発書を読み、仕事の他の時間はパズドラばかりする大人になり、
そんな麦に絹ちゃんは気持ちがさめていきます。
相変わらず小説や漫画、舞台を楽しみ、自分の好きなことをするため転職する絹に、麦が「いつまでも学生気分でいるんだ?現実をみろ。仕事にやりがいを求めるなんて甘いんだよ」といい、それが決定的に二人の溝となってしまいます。
いよいよ別れ話を切り出された麦は絹に「結婚しよう?好きじゃなくなったって一緒にはいれる。そんな家族沢山いる。絹ちゃんの為に、俺頑張るから。」的な事を言うんですが、
ともかくそれが気持ち悪い。
私も夢をあきらめた時、無気力になりました。
何のためにこれから生きるのか分からなくなり、死のうと思った。
それでも死にきれなくて、あるナメック星人みたいな見た目の禅僧の
「夢を叶える事が全てじゃない。じゃあ、オリンピックで金メダルとれた人以外、無価値なのか?
大切なのは結果じゃない。何をしてきたか?何をしていくか?
そして、絶望して、全てを失ったあとに、どう生きるか、だ」
という言葉を聞いて、何とかここまで生き延びてきた。
麦は、夢を断念し、生きる意味を失ったときに、
それを絹に求めたのだと思う。
彼女の為に生きる、彼女を幸せにする為に、辛く苦しい仕事も頑張る。
これ、一見彼女思いに見えるかもしれませんが、よくよく見たら気持ち悪くないですか…?
夢を失って無気力になるのは分かる。分かるけど、
自分の孤独や無力感や無価値さと向き合う事ができない代わりに、彼女を生きるための口実にすり替えてるだけじゃねえか、と。
まぁ、そうして二人は別れるわけですが、なんか円満に別れるんですわ。
そして、自分達の恋を「花束みたいだった」と。
気持ち悪いわ!!
それを自己正当化している麦が言うならまだわかるけど、
絹もそう思っているってのが…ほんと…もう、救いようもなく、気持ち悪い。
麦君たちには茨木のり子の詩を、花束に代えて贈りたい。
「ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
(中略)
初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった
(中略)
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性ぐらい
自分で守れ
ばかものよ」
以上です。
はい、次行きます。
「ミッドナイトスワン」
あの草剛君が主演男優賞をとったと聞いて観てきましたが………
ともかく、物凄い、圧倒的な映画だった。
邦画だと「誰もしらない」、洋画だと「ダンサーインザダーク」や「JOKER」を観た時のような、
物凄い濃いものを見せられたとき特有の、高揚感と疲労感、脱力感。
「感動の涙」とはとても言えないが、
ともかく、哀しくて哀しくて、始終泣いていたら、気づいたら映画館出るときはマスクが涙でぐしゃぐしゃになっていた。
いい作品や、いい映画を観たとき、いつも北村薫の言葉を思い出す。
「物語が書かれ、読まれるのは、人生が一度きりだと言う事の抗議からだ」
その通りだと思う。
だからこそ、自分の夢を断念しても私は「花束みたいな恋をした」の麦のように物語を必要としない人間にはならなかった。
思い通りにはならない世の中で、常に物語を欲して来た。
そして、思いを重ねられる物語は、いつだって「シンエヴァ」のようなハッピーエンドではない。
思い描くように生きたいのに、どうしても上手く行かない、生きれない人達の哀しさ。
その世界の中で、必死に生きる事の美しさ。
これも北村薫が書いていた、弱くても、その弱さに屈せずに足掻き続ける人達を見て、「美しい人、どうか泣くな」と心を重ねる、それが私が物語に求める事なのだと思う。
そんな作品に、感情が嵐のように掻き乱され、傷つき、泣き、癒される。
そんな人間もいるのだ。
「ミッドナイトスワン」は、そんな私の為の物語だった。
そして、「シンエヴァ」は、「花束みたいな恋をした」は、私の為ではない、他の誰かの為の物語なのだと思う。
一月の間にこの三作品を見て、
「映画とは何か?」「感動はどこから産まれるのか?」「作品の面白さとは何を基準にするのか?」と考える切っ掛けになった。
結論は、出た。
「自分を重ねられるか否か?」
私にとっての答えは、この一言に尽きる。
私の世界観。
自己嫌悪と自己否定に満ちた、生きることは苦しみだという、この世界観。
でも、そんな私だからこそ、味わえる世界がある。
そう思える時、私は少しだけ、私を好きになれる。
自分自身をほんの少し、肯定できる。
「物語が書かれ、読まれるのは、人生が一度きりだと言う事の抗議からだ」
不思議だね。
それなのに、私はどこか、私に似た人達の物語を選んでしまう。
きっとそれは、一人じゃない、と思えるからだろう。
誰かの深い苦しみや悲しみ、孤独に触れる時、
不思議と癒されるのは、だからなのだ。
三作品に触れて、その内の一本が心に突き刺さった。
これは、酷く幸運な事のような気がする。
さてさて、今度は何の映画を観に行こう?
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