リハビリつれづれ 10

 次の患者さんは本を読むのがお好きな中野ウメさんである。
「おはようございます。よろしくお願い致します。」
 と、小さな体から話される丁寧なあいさつは、私の背筋を伸ばさせる。
「お食事どうですか?食べれてますか?」
「昨日はね、完食しました。お魚のみぞれ煮がでたの。白身でね。タラだったのかしら?私は白身魚が大好きなの。昨日はご飯も全部食べちゃいました。」
「それはよかったです。ご飯を食べなければ力も出ないですから。今日の夜ご飯も白身魚だったらいいですね。」
「そうですね。でもここの病院のお食事はなんでもおいしいんですよ。」
 中野さんの気遣いはリハビリのときだけではない。中野さんは現在病棟ではトイレに行くときは看護師さんを呼ばなければならない。これは安全第一の病室では致し方ないことである。そして、看護師さんも忙しいため、他の患者さん対応があったりするとすぐにトイレ対応ができないことがある。そのため人によってはルールを守れず勝手にトイレに行って看護師さんから注意されていることもあるのであるが、中野さんはトイレ対応時に待たせてしまった時にも“お忙しいのにすみません”と、看護師さんに気を遣っているとのことである。ナースコールにせわしなく対応している看護師さんにとってはこのような一言は嬉しいであろう。
「あれ中野さん、ちょっとコルセット緩いですか?」
「そうかしら。どうなんでしょう?」
「もう少しきつく締めても大丈夫ですか?」
「いいですよ。よろしくお願いします。」
 コルセットというものは体幹部を動かないように固定するためにある。つまり緩くつけていることでその固定力というものは失われてしまう。正しく装着できていなかったり、装具が当たる部分が痛くて緩めてしまったり、入院期間にやせてしまい緩くなってしまうと装具はただの飾りとなってしまう。そのため、これらの際には締め直しをしたり、タオルを入れて調節をしたり、あまりにも装具が合っていない場合はコルセットを制作した技師装具士さんにみてもらう必要がある。
 本日も血圧を測定し、ストレッチ、下肢運動を実施する。中野さんは元々変形性膝関節症があり、歩くときに膝関節痛があったのだという。生体力学で考えると、円背姿勢のように体が前方に曲がってくると、バランスを取ろうとして膝が曲がってくる。その逆も然り、膝が曲がってくれば体はバランスを取ろうとして前方に倒れてくる。中野さんの円背姿勢という不良姿勢はもしかしたら膝関節痛と関連があるのかもしれない。この変形性膝関節症に対して筋力増強運動が推奨されている※21。中野さんは座位での膝伸ばし運動は疼痛なく実施できるため、大腿前面の筋力が落ちないよう運動を実施している。
 ストレッチ・下肢運動をした後、本日も平行棒の中で歩行練習を実施した。中野さんは頭が前方に垂れ下がるような姿勢でゆっくりと歩行されている。
「中野さん、痛みだったり、怖い感じはないですか?」
「大丈夫です。」
「よかったです。そしたらもう少し前を向いて歩くようにしてみましょうか?」
「分かりました。」
 中野さんの頭は起き上がり、声をかける前よりも姿勢よく歩くことができている。この頭部の位置が前方に位置する姿勢というのは、頭部重心が骨折部よりも距離が遠くなることで、骨折部への圧迫ストレスを増強することに繋がる。そのため、出来る限り頭部の位置は正中に保つことが大切である。ただしコルセットを付けていることでバランスを取りにくくなるため、不安感から下を向いて歩いてしまうこともある。そのような時にはセラピストは不安感を取り除く様な歩行介助方法や補助具を検討する必要がある。
「中野さん、よく歩けているので一回休憩にしましょう。休憩したら次はシルバーカーで歩きたいと思います。」
「分かりました。」
 中野さんは手の力を使いながらゆっくりと車いすに座った。
「中野さん、昨日中野さんと本の話をして、私も久々に自宅にある本を読み返しました。」
「そう、いいじゃないですか。どんな本をお読みになったのですか?」
「なかなか説明するのは難しいのですが、簡単に説明すると、もし自分の大切なものを消す代わりに自分の命が一日伸びるとしたら、どこまで大切なものを犠牲にできるかという内容です。自分はどう生きるべきか、自分の大切なものは何かということを再度考えさせられる小説です。」
「あら、話だけ聞くとなんだか怖そうな内容ね。」
「そうですね。でもホラーな要素は一切なくて、人間の暖かさに包まれた小説です。」
「そうなのね。私も本読みたくなってきたわ。本ってほんとにすごいわよね。言ってしまえば紙に文字が書いてあるだけなのに、その文字が頭の中の想像力を引き出しているのでしょうね。」
「想像力ですか。中野さんはサン=テグジュペリの“星の王子さま”ってご存じですか?」
「もちろんよ。面白いですよね。」
「私はあの本の中で好きなシーンがあって。主人公の僕と王子さまが初めて出会うシーンなんですけど、王子さまが羊の絵を描いてほしいというシーンがあるんです。そこで僕は羊を描いたら、“それではない”と言われちゃうんです。いろんな羊を描いても“違う、違う”と。文句ばかり言われれて我慢ならなかった僕は、四角い木箱を描いてその中に羊が入っているとぶっきらぼうに説明すると王子さまが大喜びして、満足するんです。あれはまさに豊かな想像力を大切にしろってことだと思うんですよね。星の王子さまは子どものための絵本というよりは大人が多忙な日々を送っているときに読み返す本だと思うんです。」
「そうよね。忙しい世の中の流れに身を置くと自分の心が置いて行かれちゃうのよね。忙しいっていうのは“りっしんべん”に “亡くなる”と書くでしょ。“りっしんべん”というのは“心”という字が転じた部首だと言われているの。だから、忙しいという字は“心”が“亡くなる”という意味があるのよ。忙しいと思う前に一息入れることが大切よね。でも私は一息入れすぎかしら?もう一回歩きますか?」
「すみません。次はシルバーカーで歩きましょう。」
 患者さんに運動のペース配分を指摘されては、運動を指導する立場としては失格である。決まったリハビリ時間の中で何人もの患者さんをみていると忙しくて流れ作業のようになってしまいそうになる。セラピストにとっては十数人のうちの一人の患者さんでも患者さんにとっては唯一の担当セラピストである。忙しくても心を亡くさず患者さんと接することを忘れないようにしたい。

※21 社団法人日本理学療法士協会:理学療法ガイドライン第1版 5.変形性膝関節症,p309.2011
http://jspt.japanpt.or.jp/upload/jspt/obj/files/guideline/11_gonarthrosis.pdf

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