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煌々と輝いて。

 光陰は百代の過客だとはよく言ったものだが、月日の中に存在として内包される人間の生き死にや感情や記憶こそが過客なのではないかと、ふと思ってしまうことがある。
 仮に、時間自体を“始まりから終わりに進むもの”という一元的な捉え方ができるとする。そうすると一人の人生一回分も“始まりから終わりに進むもの”として時間に準拠する存在であることから、私やあなたという個体が生まれた瞬間、その存在は一元的であったと考えて良いのではないかと思うのだ。
 しかし、人間は集団で社会を形成しているため、単独で存在し続けることが極めて不可能に近い。一元的な存在として生まれても、他者との複雑な関係性から多元的になっていく。いや、ならざるを得ないはずなのである。
 中でもとりわけ感情や記憶というものはそうだと感じている。

 私の生が続いているうちに、沢山の他人の人生が始まって終わる。命を授かった友人もいれば、既に旅立った友人もいる。
 万物は流転するけれども、いつか持っていたもの、好きだった人、温かかった時間は思い出すことが出来るし、未知のものや、いつか出会う人、楽しい未来には思いを馳せることが出来る。思考は体以上に立ち止まったり、行ったり来たりと出来るように感じている。
 行ったきり帰ってこない者よりも、たまに立ち寄ってくれる者の方が過客という表現としてより相応しい存在ではないだろうか。

 きっと思い出は無くならない。誰かが思い出せる限り。


§§§


 居心地の良かった場所が一夜にして無くなった。思い返せばまるで胡蝶の夢を見たような気分だった。
 理由はどこかにぽつりぽつりと落ちているだろうし、その気になれば拾いに行くことだってできるのかもしれない。しかしその行為にはきっと意味がないのだ。
 そこ、に居るには私はあまりにも新参者であったが、少しだけ人生が彩られたような気がしていたのだろう。しかし最後を見届けられることは出来ず、先延ばしにした一日後は風船のように手を離れたままどこかに旅立ってしまった。
 今となっては幻だったのかもしれないとすら思うが、出会った人達のおかげで辛うじて現実であると受け止められている。
 せめていつか、そこにあった瞬間を語り合えたらと思う。


§§§


 百代の過客である前に、光陰はしばしば矢の如しと例えられる。まぁ意味として月日が経つのは早い、とそれだけのことだが、月日の早さをより感じているのはいつだって年長者の方だろう。新生児の1年と我々アラフォーの1年では同じ365日でもまるで違うものなのだ。
 ある意味考えてみれば当たり前の話で、1/1年と1/35年では体感速度は異なるし、やたら長かった小学生時代の記憶は沢山あるのに直近の記憶はあまり無い。
 昨今は地層のように重なっていくiPhoneのカメラロールを掘って、やっと記憶が蘇ってくるのだ、情けない話だけれども。

 しかしまだ人生は続いて、もっと衰えて行く自分と向き合って、その隙間でどれだけ楽しい自分で居られるのか。踊れや踊れ、終わりの日まで。

 そう、この命も煌々と輝いて、いつか消える。

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