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本に愛される人になりたい(74) 夏目漱石「こゝろ」

 先夜、あるバーでお会いした方が、娘さんの読書感想文の課題図書、夏目漱石の「こゝろ」の話をされていました。その父親と娘さんが、本作をどのように捉えられたのかの話がとても面白かったのですが、私の記憶にその物語がまったく蘇ってこなくて困ってしまいました。何十年も昔に確かに読んでいるはずなのに、その物語が記憶からすっかり飛んでいて「記憶にございません」というのがありますが、本作もまたそうした「記憶にございません」の一作でした。
 私と夏目漱石との関係は、小学校低学年で読んだ「吾輩は猫である」から始まります。その後に「坊ちゃん」を読んだはずです。中学生になり、いわゆる前期三部作の「三四郎」、「それから」、「門」と、後期三部作の「彼岸過迄」、「行人」、「こゝろ」を読みました。私の十代初期は、古今東西の小説を手当たり次第に貪るように読む時代で、読書意欲というとてつもない欲望のすり鉢があり、この本作「こゝろ」もまた、その欲求のすり鉢とすりこぎであっという間に咀嚼したのだと思います。
 さて、乱雑なわが書棚を探してみましたが、どこにも本作が見当たらず、途中で探索を放棄しAmazonで改めて買い再読しました。ちなみに、わが書棚には同じ本が三冊は眠っているはずです。
 そして…本作を読み終わり、十代のまだ開拓されぬ感覚を揺るがせてもらったのを、かすかに思い出しました。
 鎌倉の海水浴場で出会った「私」と「先生」の物語なのですが、夏目漱石が彫金のように刻んでいく我執のあり様は、物語が進んでいくにつれ、自死をも受け入れねばならなくなる、時代の重力のようなものが描かれてゆきます。(詳細はぜひお読みください)
 自由闊達な生き方を模索したような「坊ちゃん」の物語観から八年後、夏目漱石は、明治の近代化が暴発し、日本が軍事化の道を歩む時代精神に翻弄されぬよう、自我の世界へと没入し、やがて、我執という自我のあり様を描くことになったようです。「先生」の自死の理由を背負わされた主人公の自我の行くへはどうなるのか…。西欧に追いつき追い越せと近代化に邁進していた明治国家が置き去りにした日本人の自我への葛藤は、21世紀になっても考えさせられるテーマだと思います。
 大正3年(1914年)、夏目漱石が47歳の時に、この「こゝろ」が出版され、二年後に永眠します。
 私が学生時代。「夏目漱石が好きだ」と言えば、それなりの文学感がある教養人だとする風潮がありましたが、そうした風潮に私はそっぽを向いていました。古今東西、どのような小説であれ、今生きている私にとり、その小説がどのように私の心を動かしてくれるのかの方が大切だったからです。今回、「こゝろ」を改めて読むにつれ、明治の文豪とはかくありき!だったのだなと感得しました。
 お時間があれば、たまには、夏目漱石の作品-100年を超えて息づく筆致-を読んでみるのも良いかもしれません。最近本屋さんに行きあれこれ新刊本を手にとっては、「なんだかなぁ…」とガッカリし、これじゃあ本屋さんは閉店するよなぁと嘆いていたので、今回は良い栄養補給になりました。中嶋雷太

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