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他山の岩第三話「薄い言葉」

 気づけば、人が使う言葉がとても希薄になったのではと思っています。
 それは、私の個人的な感覚なので、これを読まれて「そんなことはない」と反論があるかもしれませんが…。薄い言葉が大腕を振って世の中を飛び交っているような気がしてなりません。
 例えば、です。私が幼稚園園児や小学生だったころは、読み書きなどまだ満足にできず。読む本も限られ、出会う人も限られ、さらに親に守られて生きていたので自分の名前の下で、つまり自分個人の責任で得られる経験なども限られていましたから、私の発言などはとても衝動的で「薄い言葉」だったと思います。ビッグ・バンから現在までつながる時間、自分という個体から宇宙の果てまでつながる空間、そうした時空の中で生きているということさえ、考えることもできずにいたはずなので、確かに「薄い言葉」を使っていたと思います。
 人により成長の度合いは異なるでしょうが、せめて二十歳になれば、少しは「薄くない言葉」の一つや二つは語れるようになりたいものです。
 誰もが参加できるSNSなどでの言葉が様々なのは仕方がないでしょうが、マスメディア等での言葉のプロならば「薄くない言葉」を使うようお願いしたいものです。ところが、残念ながら、浅い思考で論理が飛んだ話をする方々が目立ってきたように思っています。そうした方々の特徴は、早口で単語を多用します。一見、「賢そう」なのですが、よくよく考えると「賢しい」(さかしい)だけのように見えます。

 それはそれ。何かを話してお金を貰う仕事だから仕方がないのかもしれません。ただ、マスメディアの力は、SNSがこれだけ広がったとはいえ影響力が強いということを自覚した方が良いようです。
 さて、その薄い言葉の話し方に共通するのは、早口で多弁で印象的な単語を時々まぶす論理的風味の語り口です。何かに似ているなと考えていたところヒトラーの演説そっくりでした。話し手の「私」が「私たち」、「私たち」が「我々」にすり替えられ、気づけば、「我々」の中に聞き手の「私」が内包されているという古典的なレトリックですね。
 日本語での現代ヒトラー的レトリックは、さらに進んでいて、元々主語のない日本語なので、上述の話し手の「私」から聞き手の「私」を「我々」の中に内包するのはいとも簡単なので、信じた聞き手の「私」は気づけば疑いもなくその「浅い言葉」に内包されてしまいます。そして、いつの間にか切り捨てられています。
 SNS文化が始まりまだ20年も経ってはおらず、赤ちゃんがヨダレを垂らしながら両手でオモチャを触ってアーアー言っている段階なのだと思っています。メディアを認識する段階ですね。これは、過去も同様なメディア認識段階があり、テレビ時代から、例えばウォークマンや初期のガラケーなど、私たちはメディア認識段階であれこれ試し、そのメディアが持つ特性を自分のものにしようとヨダレを垂らしてアーアーと遊んでいました。
 さて、SNSという歴史が浅い玩具(メディア)を遊んで学ぼうとしている私たちが、マスメディアで散見される「薄い言葉」を真似していくのか、それとも異なる道を歩んでいくのか、これから楽しみです。
 私の見たてでは、SNSでもすでに「薄い言葉」花盛りなので、これが収束に向かうのは難しいと思っています。ただ一つの手立ては、ユーザーの一人一人が、それに気づくことから始まることです。 中嶋雷太

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毎週木曜日に記事を掲載する予定ですが、不定期の場合もあります。日常生活からふと見えてくる疑問から、沈思黙考し、言葉を綴っていければと願っています。

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