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無意識的科学信仰

ご挨拶

サブ執筆者のパブロフのぼくです。生物学関連の記事中心に書いていますが、最近生物学について筆が進まないので、視点を広げて科学についての私見をコラム的に書こうと思います。リラックスして読んでいただけたらと思います。ぼくはリラックスして書いてます。

もしも誰もが万能であれば科学はいらなかった

科学は弱者のためにある。
太古の昔、文明といえるものがまだ存在していないほどの過去において、人類は狩猟生活を行なっていたらしいです。その頃には少なくとも科学という学問体系はなかったと想像できます。獲物を狩って食べて寝て子供を育てる、そんな毎日がある生活です。そんな文明・社会・生活様式が多様化していない単一な生活環においては、価値基準は獲物を採ってこれるか否か、という単純なものだったかもしれません。そういう社会において、優れた素質というの素早さや感覚の鋭敏さといった身体機能が高い事です。そう考えると、直感的に獲物を捕らえるための動きを再現できる人はその才能を持て囃されますが、逆に直感的に物事を捉えられない人は獲物を取るための動きをうまく再現できず、無能の烙印を押されてしまうかもしれません。だけど、直感で再現できないがゆえに、獲物の習性や環境の構造をとらえる力が優れていて、罠を仕掛けるなどの策を用意したら、身体的に劣るものでもそうやって成果を上げられたかもしれません。

ぼくはそんなことが科学の始まりかもしれないなんて思ってます。科学が弱者のためにあるっていうのは、そんな妄想から来た僕の偏見で在り、心の隅っこにある信仰の一部です。

前提:科学=事実or現実ではない

ぼくは、科学=現実ではないと思っています。これは言葉遊びみたいなことでもあるんですが、認識は大事だと思うので。
”科学”に限らずですが、言葉や概念を自分の中でどう扱うかで、自分の中にある”現実”は変容するので、まずはそのあたりのお話ということで。

科学という言葉を知らない人は少ないでしょう。健康食品を紹介しているテレビ番組では、紹介する食品が”どのように体に良いのか”、ということを裏付けするために科学的な根拠なしに語られることは少ないですよね。どこかの大学の先生がもっともらしいことを言ってると、「へーそうなんだ」って思いますよね。また、身の回りにある冷蔵庫やエアコン、洗濯機なんかは科学的な知識・技術の集積ですし、それに留まらず、今や科学という学問体系は心理学や行動生理学といった人間の無意識にまで足を踏み入れています。人が生きていて経験してわかること(ここでは体感と表現します)を超えた知性を持つ”科学”という学問体系自体を全否定する人は少数派になっているかもしれません。
ですが同時に、”科学”という言葉・概念が信仰のアイコンになっているような気がします。つまり科学信仰っていう宗教みたいになってるってことです。どういうことかというと、「科学的に正しいから正しい」という言い回しが成り立つということです。何がおかしいのって思いますよね?ぼくは思います。わかりにくいのでキリスト教と比較してみました。

一般的な宗教(例:キリスト教)
神様(orイエス・キリスト、聖書)が言うことは正しい
科学信仰
科学的に正しいから正しい

この二つに共通する構造は、

概念などのアイコン(神様・科学的正当性)が呈したもの(福音・科学的技術)は、正しい

という構造です。もっとかみ砕くと、

概念などのアイコン(神様・科学的正当性)が呈したもの(福音・科学的技術)は、現実において正しい

という構造です。キリスト教の例はわかりやすく少し極端に表現していますが(もっと柔軟に現実をとらえている宗派も多くあります)、アイコンとなる概念によって現実を変えている、という構造が共通していますね。そう、現実を変えているのです。
何かを信仰ないしは信じるということは、価値観の決定や、人生の進む指針を決定することに有効に働くと思うので、信仰として選択的に”科学”を選ぶのは良いことだと思うのですが、”科学”という知性は、その選択的信仰というプロセスをすっ飛ばしてしまうほどに、説得力があり、また信頼を得ています。それこそ現実と混同してしまうほどに。ぼくは無意識的科学信仰と表現することにします。

無意識的科学信仰が成り立っていることに、ぼくは違和感みたいなものを感じます。ということで”現実”と”科学”について滔々と語ろうと思います。

科学=客観的事実の集まり

科学的な理論というのは事実に限りなく近いものですが、決して事実にはたどり着きません。その理由が見出しの”科学=客観的事実の集まり”だからです。では、客観的事実とは何でしょうか。

ウィキペディアなんかを見ると、客観性とは個人の主観から独立した見方と書かれています。主観性が個人の立場によるバイアスだとすれば、客観性は全くバイアスがない状態の事実と言えます。ただ、個人ではどうしてもバイアスが排除しきれないため原理的な意味での客観性はどうしても手に入りません。なので、科学においては(科学に限らずかもしれませんが)、誰が見ても同じ現象を観測できるということを客観としています。
しかし、これにも欠陥があります。誰が見てもという部分です。どんなに検証を重ねて多くの科学者が確からしいとうなずく理論や実験でも、”誰が見ても”という要件を満たさないのです。限りなく近づけることはできても、本当に誰もが同じ結論に至るのか?ということには厳密にyesとは言えないのです。このあたりのことは「若い読者に贈る美しい生物学講義」を書いた更科功さんも本書で言及しています。

だからぼくは、科学を現実に限りなく近い平行世界みたいなものだと思っています。現実を追い越す日は来るかもしれませんが決して交わらない、そんな概念だなって思ってます。

現実=個人の認識

この認識はたぶん偏見味の深い意見なんですが、ぼくは現実は個々人の認識だと思っています。
ここら辺の考えはソシュールやニーチェに影響を受けている気がします。

ソシュールは価値体系によって言語が形成されているという説を提唱しました。これは何かというと、ものにはラベルみたいに名前や観念がもともとあるわけではなくて、価値があって他と差別化したいからラベルを付けたということです。そう言った価値の多寡によってラベリングしたものの集まりが言語なのだと言いました。アラスカにいるエスキモーの人たちは、雪の状態を区別する単語が20くらいあるという話を聞いたことがあります。ソシュールの言語論を用いるとうまく説明できるように思います。つまり、雪の状態の機微に見分けるべき価値があるから言葉が存在している、一方で私たちが用いる日本語にそれほど多様な雪の状態を表す単語はないのは、生活にリンクした緊急性や重要性が薄かったからともいえるということです。
ニーチェは事実も真実も存在しなくてあるのは認識だけと言っています。これは、誰もが観測できる客観的な唯一無二の事実というものは存在せず、主観的な感覚を誰もが共有している現実だと勘違いしているということ、とぼくは解釈しています。
ニーチェやソシュールについては飲茶さんという方の「史上最強の哲学」という本がわかりやすかったです。

ニーチェやソシュールの考えに触れて、ぼくは現実というのが個人の認識が形成する別々の世界なんだと思うようになりました。日本人として同じ言語を共有しているものの、個人により大切にしていることや経験的な体感の違いによって厳密には違うニュアンスで同じ言葉を使ったりしていますし、言語を学ぶ際、それが原始的になるほど自分の体感しか参照にするものがありません(例えば”痛み”なんかは特に定量できず彼我で比べることができない原始的な言語ですよね)。特定の唯一無二の事象が集まって世界が存在するけれど、誰もがその現象を違うように捉えていて、限りなく近い世界観を持つ人はいるけれど、厳密な意味で決して同じ世界を見てはいない。唯一無二の現象と、個人が認識する世界は近くなることはあれど決して重なることはないように思っています。これは科学と現実の関係と同じですね。
科学は唯一無二の現象を完全には言い表せられなくて、現実は唯一無二の現象を誰もが共有できるようには捉えられない、それがぼくにとっての現実と科学の関係です。
そして何より科学にも現実にも、誰かの都合というものがどうしたって反映されてしまいます。

そんな禅問答のような科学と現実の捉え方をしていますが、それでは科学には意味がないのかというとそうではないです。

科学の歴史は合意形成と共通言語の積み重ね

科学が現実と完全に一致しないのにも関わらず価値があるとぼくが思っている理由は、科学というものが合意形成と共通言語の積み重ねによって成り立っているからです。ソシュールとかニーチェなどの哲学的偉人が頭をよぎるのはここら辺が関係しています。確からしい事象の積み重ねを科学者たちが互いに監視しあってできた堅牢な砦が科学です。どこかで間違っているかもしれないけれどみんなで検証して、きっと大丈夫って確認しあって一歩ずつ歩んできた経験の集積です。未知が明るくなるたび言葉を規定しなおしてきたのが科学の歴史だと思います。科学は完全には現象や現実を言い表せないけれど、個々人で違う現実を近づけるための”言語”としての意味は大きいです。ぼくは科学の価値は現実を共有できる言語的機能にあると思っています。もちろん科学的知見を応用した科学技術も、科学の価値を示すものであることは言うまでもありませんが、その根底には客観性を高めるため、現象を複数人で観測し、それを複数人で共有できる形に概念でパッケージ化する科学的試行があります。そうやって各々の観測によって異なる認識である”現実”から、共通する事象を取り出し、複数の事象を一纏めにして多くの人が使える概念にするという言語的営みが科学の根幹であり、”科学的”であることの根源的な価値だとぼくは思います。

すべての科学的知見を信仰の対象にするのは危うい

ここまでの話をまとめると以下のようになります。

現実
 体験し、知覚し、学習した主観的な認識そのもの
科学
 現実の共有できる事象を概念として複数人で確認しあったもの、その作業
信仰
 正しいものとして信じ、それに基に現実を再認識すること

以上がぼくの主観を交えながらこれまでに述べてきたことです。
これらを踏まえ、ぼくは無意識的科学信仰、つまり科学的な根拠があるから無意識にそれは正しいと認識することは危ういと考えています。その理由はざっくり2つです。
1つ目は科学的知見自体の問題です。多くの科学的知見は観測した事実や数値を共通言語としていますが、これらはデータをや事実を扱う人によって違う結果を導き出しえます。例えば、研究室時代の話ですが、研究室の同輩がサンプルの特定の遺伝子の発現を解析するrealtime-PCRという実験を行っていましたが、どうも結果にばらつきがあり一意の結果を出せないということがありました。それを教授に相談しに行ったところ、教授はばらつきの少ないいくつかのサンプルの結果を選択してそれ以外の結果を破棄するということをしたそうです。本来とるべきプロセスは、実験手法やサンプリング方法や実験条件などにばらつきの原因がないか精査し、そのうえで再実験するか、手法由来のばらつきではないなら統計的処理でばらつきの理由を考察することもできます。こういうプロセスを踏まずにあっさりとサンプルを取捨選択してしまったのには呆れた記憶があります。このような例は極端ですが、データや事実に対してどれだけフェアでいられるかは大きく人に依存しています。作為・無作為にかかわらずデータを恣意的に解釈することができるため、ものによってはデータや事実の質が悪い(客観性を欠いている)ことはあり得るということです。
2つ目は伝え方の問題です。こちらはメディアリテラシーのような話です。何らかの科学的知見がメディアで報道される際、多かれ少なかれわかりやすさのために犠牲になる情報があります。なぜならその科学的知見を十全に伝えるには先人が築き上げた共通言語を一つ一つ解説するのに膨大な時間がかかるからです。ゆえに積み上げられた事実よりも、そこから何がわかるかという解釈に重点を置いて伝えられがちです。それが連鎖的に何重にも引用されていけば、事実に立脚してない解釈だけが独り歩きするなんてこともふつーに起こります。発信元が大衆的であればあるほどわかりやすくかみ砕く必要があり、それでいて冗長性による煩雑さを避けるために説明が安易になっており、ときに本質が見えにくくなっていることがあるように思います。
したがって、すべてではないものの科学的知見だとラベリングされたものには少なからず信仰に耐えられる強度を持っていないものが存在しているように感じています。それを信仰するには相応の柔軟性が必要になります。だからぼくは無意識に、はたまた盲目的に科学というラベルを信じる危うさを感じます。

だからどうということでもない、ただぼくは違和感を持って生きているだけ

ここまでの話を台無しにするようだけど、だからどうということでもないです。何を信じるかなんてのは個人の自由だし、ましてや何を現実としてとらえているかなんてのは口出しも定量もできない。ただ、知ってほしかったのかもしれません、科学という言葉や概念の一点において世の中とのギャップを横目に感じて生きていることを。そしておそらくぼく自身も気づかないうちに無意識的科学信仰を自らに浸透させていることを。

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