四書五経【大学】06 「伝」三章・後半(至善に止まる) & 「伝」四章(本を知る)

「伝」三章の後半、「伝」四章と続いて学んだことを振り返りたいと思います。「伝」四章は”本末”について解説されています。


■ 盛徳至善、民の忘るる能わざるを道うなり

切するがごとく磋するがごとしとは、学を道(い)うなり。琢するがごとく磨するがごとしとは自ら修むるなり。瑟たり僩たりとは、恂慄(じゅんりつ)するなり。赫たり喧たりとは威儀(いぎ)なり。斐たる君子あり、終に諠(わす)る可からずとは、盛徳至善(せいとくしいぜん)、民の忘るる能わざるを道うなり。

<現代語訳・解釈>
「骨を切るがごとく磋くがごとく」とは、学問を究める態度を言っていて、
「玉を琢つがごとく磨くがごとし」とは、身を修める姿勢を言っている。

「おごそかで気品に富み」とは、慎重で敬虔な態度を言っている。
「光り輝いている」とは、人々に敬愛の念をいだかせる風采をさす。

「人格すぐれた君子は、まことに忘れがたいもの」とは、至善の境地にとどまりつづけた君子を人々は慕い、いつまでも忘れない、と讃えているのである。

■ 至善に止まるを釈す

詩に云く、於戯(ああ)、前王忘れられずと。君子はその賢を賢としてその親を親とし、小人はその楽しみを楽しみてその利を利とす。ここをもって世を没して忘れざるなり。
右伝の三章。至善に止まるを釈す。

<現代語訳・解釈>
詩経には「文王や武王の徳の大いなるお姿を忘れられない。」とある。
文王・武王はわけへだてなく賢者を遇し、一族の和を乱さぬよう親族を大切に扱ってきたから、人々はその恩恵をうけ幸せに日々を過ごすことができた。

徳のある人物は人々の心の奥に感動を与え、その感動が連鎖するため、君主がこの世を去ってからも忘れられない存在になり、民衆は長年にわたり慕い続けたのである。

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■ 何が根本で何が末か 〜伝四章〜

子曰く、訟えを聴くは、吾猶(な)お人のごときなり。必ずや訟(うった)えなからしめんかと。情(まこと)無き者は、其の辞(ことば)を尽くすことを得ず。
大いに民志(みんし)を畏れしむ。此を本(もと)を知ると謂う。
右伝の四章。本末を釈す。

<現代語訳・解釈>
孔子はこう語っている。

裁判をやらせれば、私も人並みにできる。ただ私は、裁判そのものがない世の中にしたいのだ。よからぬ連中がうその訴えをおこそうにもおこせないようにしたい。

明徳を発揮して、畏敬の念をおこさせる。これが「本を知る」ということである。

参考文献:
・大学/宇野哲人全訳注
・マンガ孟子・大学・中庸の思想/蔡 志忠著

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