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あんたの苦悩なんか知らねーよ。『オッペンハイマー』は、アメリカ映画なのか、はたまた日本の映画なのか。

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 映画『オッペンハイマー』を観た。
「原爆の父」と呼ばれた、物理学者・ロバート・オッペンハイマーの人生と原爆開発から投下までの過程を、あくまでもアメリカに住む人、太平洋戦争におけるアメリカ軍側からの視点で描く。

1960年代生まれの一日本人、原爆との距離感
 
わたしは、日本で生まれた。国籍も日本、つまり日本人である。1960年代生まれで、物心ついた時には、高度経済成長期も終わりごろだった。
「戦後は遠くなりにけり」という奴。それでもテレビや子ども雑誌では「戦記物」や「かわいそうな戦災孤児の話」が載っていたし、平和教育も盛んであったと思う。

「君が代」を学校で歌ったことがない
 
未だ「君が代」は、国歌として法制化されておらず、小中高大、一度も指導されて歌ったことはない(そういう時代もあったんですよ。お若い皆さん)日教組、北教組の力は強く「子どもたちを二度と戦場に送るな」という戦後教育の決意を持続していた。
 
戦争は悪いことだ。戦争はしてはいけないものだ
 
その言葉は、ごく当たり前に社会通念の元にあったし、両親から反戦反核教育も受けていた。『裸足のゲン』はもちろんのこと、戦争に関する子ども向けの絵本、丸木夫妻の「原爆の図」早乙女勝元著、東京大空襲の児童書…
 そんなこんなで自分の中には、戦争は悪、核兵器は恐ろしいというイメージが刷り込まれ、大人になっても、戦争や核兵器に対して関心を持ち続けてきた。数年前には、念願の広島平和記念公園にも行ってきた。

 でも、そんな意識の中で、疑問に感じていたことがある。
なぜ日本のテレビや新聞は、盛んに「核軍縮」や「核兵器廃絶」を訴えるのに、原爆を落としたアメリカを非難しないのか。
 時々、わたしはわからなくなった。
「原爆は勝手に空から落ちてきたわけじゃないよね?」

原爆はどこから来たの?
 
日本の戦争批判は、主に旧日帝、旧日本軍に向けられていた。軍国主義のせいで、煽動した旧日本軍のせいで、日本人は酷い目にあったのだと。
確かに、それは一面として正しいだろう。でもやっぱり一面に過ぎない。
旧日本軍は、連合軍側と広範囲で戦ったが、日米戦争においては、相手はアメリカで、東京中に焼夷弾を落として焼け野原にし、非戦闘員である一般市民を何十万と殺した。日本中で空襲はあった。

 広島、長崎への原爆投下は、ポツダム宣言の少し前。日本軍の劣勢は目に見え、敗北は決定的な時だったにも関わらず、アメリカは、原爆を落とし、広島では、後遺症も含め投下の半年後までに14万人が亡くなり、長崎では、死傷者含めて約15万人とされている。
太平洋戦争、当時の国際的な戦争法でも重大な違反、無差別殺人だ。

 毎年、「原爆の日」には慰霊祭の模様が、NHKで映され、鎮魂の時をもつ。原爆の悲惨さ、悪魔の兵器、二度と使用されてはいけない。核廃絶運動は、続いている。

けれども、やっぱり、どこかで不自然に思える。
「悪いのは核兵器の存在」「核兵器を無くそう」
間違ってはいないにしても。根本命題は、問われない。

なぜ、核兵器は造られたのか。
いつ、どこで、誰が、何のために原爆を作り、そして、なんのために日本で、爆発させられたのか。

映画『オッペンハイマー』、一日本人の疑問に応える。
 
アメリカに生まれたユダヤ人、ロバート・オッペンハイマーは、脳裏に浮かぶ幻影ー夢ーに揺さぶられ、一人の物理学者として核分裂に理論的関心を傾け、研究に没頭していた。
 第二次世界大戦が始まり、ドイツ軍が優勢を保ち、ユダヤ人への圧倒的な暴力的差別、強制収容所での虐殺…についてアメリカ国内では知られていた。
ヒトラーを倒すためー同胞と自身の復讐心を拠り所とし、ロバートは、核兵器の実現を決断、紆余曲折を経ながら、実質的リーダーとして参加した「マンハッタン計画」は、原子爆弾を生み出し、実験に成功する。

 ニューメキシコ州トリニティ・サイトでの原爆実験シーンは、いろんな意味で凄まじかった。砂漠の真ん中に素朴な鉄塔が建てられ爆弾が運ばれるのだが、担当の人々は防護服を着るでもなくマスクや手袋すらしていない。素手で組み立てるパーツを触り、鉄塔に取り付ける。なんという杜撰。
 
 何キロメートルか先に集まり、爆発の瞬間を待つ。ドキンドキンと心拍が高まる。サスペンス映画のように、その時を待つ。
外で眺める人々も普段着のままで防護は目を守るサングラスやガラスだけ。爆発の瞬間は、伏せて後ろを向くだけ(この人らは全員被曝してるよなと思う。)

閃光と熱風、巨大なきのこ雲。
8月、毎年のようにテレビに映る、ある意味見慣れた「原爆の風景」が、スクリーンに再現される。成功し熱狂するオッペンハイマーとその仲間たち、軍人たち。ハッピーな空気で満たされる画面。うっかりこちらも喜んでしまいそうな成功体験、勝利の快感と陶酔。そしてオッペンハイマーが揺さぶられ続けたー夢ーの具現。

 わたしは、ふとアメリカの人はみんなこうだったのだろうかと思った。
映画を見たよその国の人たちも、こう感じているのだろうか。
『オッペンハイマー』は、アカデミー賞を7つも取ったけれど、どのような意味と感情を込めて、賞は与えられたのだろうか。

そう思うと同時に。
あの実験雲の向こうに、一瞬の閃光に、影となった人々、髪は逆立ち、体中の皮膚が剥がれ、水を求めて歩きまわった人たち。
炎に追われ、川に殺到し骸となって浮かび、流れていった人たち。
無惨に殺されていった人々の幻が浮かぶ。(そう幻だ。体験したわけではない。しかし、記憶の中には貼り付けられている、写真や映像や文章や漫画や夥しい証言によって。)
スクリーンの前ですくみ上がる。恐ろしい…ただひたすらに恐ろしい。よくもこんなニコニコ笑って…信じられない…怖いよ。怖いよ…。
 
立場や認識の仕方によって物事の<真実>は変わる。
ならば、悪と正義も。

 わたしには見るに堪えない、恐ろしすぎる「成功と歓喜の図」はやがて原爆投下へと向かう。しかし、当時、すでにドイツは倒れ、ヒトラーは自殺していた。オッペンハイマーにとっての「正義」たるユダヤの復讐は、潰えている。この時点で彼には「原爆を落とす理由」はなくなっている。
でも、米軍は違う。世界にアメリカの力を見せるため、急激に隆盛する共産主義、社会主義勢力、ことさら連合軍として共闘してきたソ連に対抗するため。「原爆を見せつける必要」があった。

ならばどこに?
未だ、戦闘を停止しない、敗北宣言を出さない、極東の小島。
「日本に落とす」と、時の大統領トルーマンは、決めた。
映画の文脈に乗れば、日本への原爆投下は、オッペンハイマーの願ったナチスを倒すためでもなく、戦争を止めるためでもなく、ソ連への警告、当て馬に過ぎなかったことになる。

そうか、そんな理由で広島と長崎には、原爆が落とされたのか…。
そんな理由で、何も知らずに、そのとき近くにいた人たち、日本人朝鮮人、中国人、さまざまな多くの人たちは、一瞬で消されてしまったのか。
何十年も原爆症に苦しむ人々がいたのか。

馬鹿馬鹿しい…なんて馬鹿馬鹿しい…あまりにも酷い…。

『オッペンハイマー』は、原爆投下に関して、知りたかったことを教えてくれた。そしてなぜ日本が、被爆国として原爆を訴えるとき、アメリカを非難しないーできないーのかも。

アメリカの映画か日本の映画か
 
わたしが見た、この映画には、二つの国が、映っている。
原爆を作り、日本に投下し爆発させた アメリカ合衆国。
原爆を落とされ、夥しい被害を受けた 大日本帝国。
歴史的な時を経ながら、二つはポジとネガになり、重なり合う。

だからと言って「あなた」にもそう見えるわけではない。どこの国の人にせよ、育った環境により、得た知識により、見える世界は、違ってくる。

アメリカしか映ってないと思う者。
日本が映ってないと思う者。
同時に映っていると思う者。
何もないと思う者だっているかもしれない。

なんか知らんけどダラダラとオッペンハイマーだかいう頭でっかちの白人男が、ウダウダと女に甘えながら、時の権力に逆らえず、原爆の父となり、いっぱい人を殺してどうしよう〜〜放射能で世界を汚染しちゃってどうしよう〜こんなはずでなかったとオロオロしながら結局は勲章もらって、英雄として死にましたというおめでたい話。いう感想だって成り立つし。

クリストファー・ノーラン監督はオッペンハイマー個人に、極力寄り添い、感情移入(過剰に)して映画を撮っているように見える。それが監督の主題ならば、映画としては成功しているのだろう。

しかし、ほとんど一顧だにされなかった向こう側の立場にいる一人としては、こうも言いたくなる。

あんたの苦悩なんか知らねーよ。

一瞬で影になり消えた人間の苦悩など、誰にも想像できはしないのだから。

https://x.com/onoyamarie/status/1797035002678628807


































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