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『ノマドランド』(クロエ・ジャオ監督作品)自動車で移動しながら生きるー広大なアメリカの地は、彼女に何かを与えるのか

映画『ノマドランド』の宣伝を見たのはずいぶん前で、アカデミー賞候補とか、そういう話も出ていない頃だったと思う。ただ画面に映っているショートカットの人が、以前NHKのドキュメンタリーで見た、同じ車上生活を選んで暮らす女性とすごく似ているなと思い出して。あああのアメリカの話が映画になったんだ、もしかして本人なのかなあ? そういう記憶で、なんとなく興味を持っていた。

もちろんテレビで見た人と主役を演じるフランシス・マクドーマンドは、全くの別人だったけれど。映画館のスクリーンに映る「ノマド」の暮らしは、ドキュメンタリと相当重なっていた。巨大なAmazonの物流センターに入る季節労働者、各地を転々と仕事を探して、駐車場に泊まる様子…。

わたしが記憶していた女性は、ニューヨークの摩天楼でキャリアを積んでいたが何か虚しくなって旅に出たと話していたような(曖昧な記憶)映画のファーンは、夫を失い、住んでいた家も街も失い、お金もなく車一台で旅をする。

おそらくは、多くの観客が、印象に残すだろう。トイレのシーン。冒頭から広大な砂漠のような風景の中を、対向車もこない一本道を走る。こんなところでもしもエンストしたらどうするんだろう? トイレ行きたくなったらどうするんだろう?

映画は答える。そんなわたしたちの素朴な、でも原初的な疑問に。車で生活するー生活の場ーとは、実のところ排泄の場。家の中で最も重要な場所は、トイレだって、わたしは思うけど。どうでしょうか?

何がなくてもトイレのない家には住めない。違うでしょうか? だから移動して生活する車上暮らしと聞いて、一番最初に想像するのはトイレのことなんだって。映画は、そのピンポイントを避けることなくズバリと表現する。大事なことだからー生きている、生きている、そのものについて。

映画を見ている間中、なんだかよくわからなかった。ファーンの考えていることも、Amazonの仕事も 夫の死も 流浪する民のような仲間たちも、理解しえる言葉にするのは、実は簡単だけれど、わかりやすい解釈はわかりやすいだけに、きっと的外れだから。

ファーンは、なんで移動するのか。かっこいい性格も穏やかで頭も良い音楽好きの男の人に「君が好きなんだ」って言われて、素敵なお家に誘われても、出て行ってしまうのか。どうして車の中でしか眠れないのか。

わからない。わからないけれど。

行ったことも見たこともない、アメリカの広大な地面は、人の手に負えないような巨大さと、だから安心感をもたらす。人の手に負えない、なんら関わることのできない領域が、未だ、この世にあると思い知らされることほど、今、わたしたちを安心させることはないはずだ。

地球でも自然でも神様でも呼び方はなんでもいい。人間社会以外の余白に。わたしたちは、実はただ生かされているのだから。その余白が、縮まれば縮まるほど、わたしたちの生きる術は、失われていくだけ…。

ファーンの友達。流浪する75歳の老女スパンキーがささやく。アラスカの美しい自然に触れたとき、もうこのまま死んでもいいくらいの、喜びだったと(それは逆に、死ぬほど絶望していても生きていて良かったという意味だ)

わたしたちの生きる世界は 美しいー

そう、真実に、心から感じ取れることだけが、きっとわたしたちを生き延びさせる。

ほんのわずかでも。たった1秒でも、美しいと。それが多分、人が人である証だから。

ファーンは、それを取り戻すために、旅に出たのだ。







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